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禁断の森のカケル  作者: 柏栖零inHakusuya
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ふいに思い出される姉

 授業前の早朝時間帯のクラブ活動というのは、食事や当番、自習などの合間に順次行われるものらしく、茶室へやってくる生徒たちの入れ替わりは意外に激しかった。午後の部活と異なり、全員が揃って一斉になされるものではないらしい。いや午後の部活であっても、演劇部や交響楽団などグループが揃うことが必要とされる一部の部活を除いては、ばらばらに活動しているようだった。

 茶道部の場合も、顧問の大磯(おおいそ)教官が一人どっしりと構えて(華奢な大磯静佳(おおいそしずか)教官がどっしりというのは不適切な表現であるが)いるものの、点前を済ませた生徒が早めに退室したり、遅れてきた生徒がいたりと、順次活動しているので、遅れて顔を出したミチルも目立ってしまうことはなかった。

 歌劇団のお姫さま役のような小さな白い顔に華奢な体つきの大磯教官は、着物姿になると唇に差した朱が艶やかな、スーツ姿の清楚なイメージとはまた異なる、大人の雰囲気を醸し出しており、その傍らにサポートする教官が二人いたが、いずれも地味なスーツ姿で、大磯の影で霞んでしまうようだった。

 生徒たちは、その大磯が点てる濃茶を頂戴した後、その隣の列で順次、次の生徒に対して点前を行って、後ろに下がっていった。二十畳ほどの和室に常時十名ほどの生徒がいたが、順次退席して次の生徒がやってくるという具合で、しまいには数え切れないくらいの生徒たちがこの茶室を訪室していた。すべての生徒が部員というより、まるでお茶を戴きに立ち寄っているという具合だ。

 ミチルもそうした生徒たちと同じように思われたかもしれないが、濃茶を賜った後も退室せず、下座のほうで控えていた。これだけの生徒たちが集まる部室にはどうにか三年生の生徒の顔が認められたからだった。ミチルはその中に三年A組の大賀亜季子(おおがあきこ)の姿を見つけた。

 大賀亜季子は、光り輝く細くウェーブの掛かった長い髪を、旅客機の客室乗務員のように纏めあげて真っ白な項を見せていたが、丸く大きな黒い目がくりくり動いて、とても三年生らしく見えない可愛らしい花のような美少女だった。その笑顔は三年A組一班の中では異彩を放つ。昨夜の夕食の時に観察した聡明で冷静な一班の顔ぶれにあって、ひとり癒しの微笑を湛え、明るい光彩を放っている様は、カモシカの群れの中にいるバンビを思わせる。近寄りがたい一班の中に一人だけ身近なアイドルとして存在する可憐な花は、ここでも周囲の注目を集める存在だった。

 何人かの生徒達に囲まれて静かに談笑している様子からは、とても他人を陥れたり、蹴落としたりするイメージは感じられず、ミチルもまさか彼女が姉の死に直接関与しているとは考えないが、しかし何らかの事情を語ってくれるかもしれないと期待し、どうにかして接近できないものかと思案した。

 姉がここへ入学した二年前の夏には、姉がA組一班の牙城の一角を切り崩し、成績上位五名の中に割って入ったために、一時大賀亜季子の名が掲示から消えたのだ。そのことは昨日の見学の際に、校舎ロビーに張り出されている成績上位者名簿で確認している。

 定期試験の上位五名が過去十年分貼り出されており、新しく定期試験が行われるたびに古いものから順に剥がされていた。今の三年生は高校になってからこの上位五名が殆ど定着していて、ミチルこと(かける)の姉鍛冶真奈美(かじまなみ)が一年生の一学期末に唯一名簿に名を連ねていたのだった。

一方の大賀亜季子については、その時のみ名簿から外れてはいるが、あとはすべて載っている。ただ順位は三位が最高で、大抵四位か五位を行ったり来たりしている状態だった。

 一、二位は殆ど紀伊埜本(きいのもと)あすかと徳澤那由他(とくざわなゆた)の争いである。これほど上位が固定している学年はないのではないか。ミチルは名簿をじっと見つめて、予め「精霊」から与えられた情報を再確認したのだった。

 接触の機会を窺っていたミチルは、それが思いのほか単純であることに気付いた。この茶道華道部の部長が大賀亜季子らしく、亜季子は顧問の大磯教官の横へ呼ばれてからはずっとその傍で生徒達の点前を見ていた。

 ミチルは好機と考え、生徒達の姿がある程度少なくなった頃を見計らって亜季子と大磯教官に近づいた。

「那須禾ミチルといいます」と、ミチルは再度簡単な自己紹介を済ませてから、何日か仮入部の形で見学したい旨を語った。もとよりどの部活も掛け持ちも含めて入部大歓迎であるから反対されるわけもなく、あっさりとミチルの仮入部は認められた。

 大賀亜季子は、嬉しそうににっこりと綺麗な白い歯と可愛い笑窪を見せて微笑すると、ミチルを部屋の片隅へ連れて行き、必要書類に名前を書かせたりした。傍にいると艶のある黒髪や、白くきめ細やかな肌の項からほのかに発せられる微香がミチルの鼻から脳髄までくすぐり、危うくミチルという女生徒に扮していたことを忘れ(かける)という男子に還ってしまいそうになるのを堪え、亜季子の円らな瞳の虜とならないよう必死に目を逸らし、書類に注意を注ぎ込んだ。

 この聖麗女学館に身を運んでから常に感じるのは、様々な匂いであった。それは教室や食堂、廊下や寮の部屋など至る所で微妙に異なる多くの芳香を嗅ぎ取ることができた。

 何かのハーブのような匂いであったり、お香を焚いたような匂いであったり、あるいは人工的な芳香剤の匂いであったりと、その場その場で感じる匂いは異なるが、女の園とはこういうものなのかと思うくらい、翔が今まで暮らしてきた生活の場とは異質の香りが感じられるのだ。

 まるで海外旅行で飛行機から現地に降り立った時に感じるその国独特の匂いを感じるかのように、この学園に足を踏み入れてからある種独特の匂いが身を取り囲むのだった。そしてその中に棲む生徒や職員についても、一人一人まるで異なる芳香を身に纏っているかのように、微かだが僅かに異なる匂いが感じられる。

 それはひとりひとりの体臭に何か別々の香料をあわせたかのように、一人として同じ体臭を感じることはなかった。大賀亜季子から発せられる香りも、大磯静佳教官から発せられる香りも、寮の同室者藤野亜由子から発せられる香りもすべて別のものとして感じられる。

 もともと匂いに過敏だったミチルではあったが、目を瞑っても匂いだけで人を判別することさえ可能ではないかと思うほど、学園には様々な匂いが溢れていた。

 匂いというものは、敏感な人間にとっては目に飛び込んでくる映像に匹敵するほどのインパクトを与える。時にひとつの匂いが過去の記憶を呼び覚まし、封印していた苦い経験をも解凍し、実体験のように鮮明な視覚的映像を伴って蘇生させることすらある。小学生だった頃の翔にとって身近な匂いとは、一年生のときに新たにきょうだいとなった姉真奈美のものだった。

 当時五年生だった真奈美は実年齢以上に年下の子に対する面倒見が良く、翔は手を引かれて登校した記憶がある。初めて身近に接した女きょうだいは、母のものとはまた異なるいい匂いがした記憶がある。

 石鹸やシャンプーの匂いといった月並みな表現では言い表せない良い香り。具体的にどんな匂いかは表現することも、また今それと同じ匂いのものを探すこともできないが、匂い自体は忘れても姉真奈美の優しい顔や声かけ、いろいろと諭してくれたことなど、断片的ではあるが映画のワンシーンを観るかのように蘇ることすらあるのだ。

 それは翔が小学六年生に上がる頃まで続いた。その頃中学生になっていた真奈美は、すでに大人の女性に見紛う程の早熟で、背丈も百六十を超えていた。同じ中学に通う男子生徒たちが常に注目する存在で、中には気を惹こうとして真奈美の前でお笑いタレントの真似をしたり、スポーツ部のユニフォームのままわざわざ遠回りして姿を現したりするものまでいたが、真奈美のほうはそうした幼稚なモーションに興味を示す積もりもなく、超然と生徒会の活動や自らの勉学にいそしむ毎日を送っていた。

 その一方で児童劇団の活動を続ける翔の面倒も見てくれたのだ。台本の読み合わせに付き合ってくれたり、現場へ通うときの送迎に付き合ってくれたりしてくれた。特に舞台やテレビのロケ地などに母が立ち会えないときは必ず真奈美が付き合ってくれた。そんな時必ずといっていいほど、真奈美は現場の人間の注目の的になり、あるいはプロダクションのスカウト達の目に留まり、いろいろと勧誘を受けたが、決して惑わされることなくすべてに丁寧に断りを入れ、一人の家族として翔の支援を続けてくれたのだった。

 大人に混じって子供の翔の保護者のように立ち振る舞った姉真奈美の苦労は大変なものだったろう。自宅への帰りの電車の中で姉が眠り、翔の頭に向かって頭を傾げてもたれかかり、長い髪が翔の顔に掛かったときなど、何ともいえない気持ちのよい癒された気分にさせてくれるいい匂いが翔の鼻腔を満たしていくのだった。

 その頃気づかなかったことだが、すでにあの頃から姉に対して異性への憧れの気持ちが湧き上がり、一人の女性として真奈美に愛情を感じていたことを、今になって思い知らされる。

 現在(かける)が思い描く理想の女性の姿は、あの頃最も身近にいた真奈美の姿であることは間違いない。真奈美の印象があまりに強烈であったために、その後翔はどのような可愛らしい少女が出現しても決して恋心を抱くことはなかった。

 特に児童劇団に所属していた頃など、現場にいくらでも美しい女性たちがいたが、彼女らに単なる女性の体への興味というものは抱くことはあっても、それが恋心に発展していくことはなかったのだ。たとえば既にアイドルとして人気絶頂の時期にあった姉より一つ年下の伊佐治紘香(いさじひろか)がどんなに美少女として全国に知られ、翔と同世代の小中学生たちに女神のように崇められていたとしても、雑草のように逞しく狐のように賢く、大人たちの中にあって要領よく立ち回る紘香は、決して姉真奈美に取って代わることはなかった。

 この世から消えてしまっただけにますます真奈美は翔にとって絶対の存在になっていた。今後も真奈美に勝る女性は出てこないだろう。外見だけ美しい女性はいくらでもいる。単に優しいだけの癒しの存在もいくらでもいる。しかし、姉真奈美は後にも先にも世界でたったひとりだ。それが翔の中心教義だった。そしてその姉の死の真相を知ること、それが今回のすべてを掛けた潜入の動機だった。

 仮入部の書類を書くミチルの傍に控える大賀亜季子からほのかに感ぜられる匂いはどことなく姉を思わせる安らぎを与える香りであったが、やはり真奈美の匂いではなかった。翔にとっての聖なる女性ではなく、単なる美少女の一人に過ぎない。姉の死の真相を語ってくれるかもしれない一人の登場人物に過ぎないのだった。

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