美しい潜入者
東京駅構内「銀の鈴」の前で、那須禾ミチルは落ち着きなく、少しでも近づく気配のある人影に次々と視線を送っていた。
待ち合わせ時刻にはまだ十五分はあった。三月下旬という肌寒い季節にもかかわらず、ミチルは冷や汗が首筋から胸元へつたっているのを感じた。しかしそれは外からは窺い知れないだろう。藤色のブレザーにチェック柄スカート、その上にさらに漆黒のコートを着込んでいるのだから。
紺のソックスは膝上まで上げてある一方、スカートの丈は、今風の高校生の制服にしては明らかに長く膝丈まで下りているので、立位だと脚から素肌はすっかり隠されている。聖麗女学館本校の制服の標準的な着こなしだった。
それを格好悪いと陰口を利く者もいるかもしれないが、色白の美少女が黒髪を後ろにしっかりと束ね、美しい額と大きな瞳を清楚かつ上品に人目に晒している様子には、だれも面と向かって指摘できないオーラのようなものがあった。
昔からお手の物だった。児童劇団から演劇部でもずっと演じ続けてきたことだ。大丈夫。何の違和感もない。いや、むしろ通りかかりの男達は必ずといっていいほど、見ていない振りして自分に視線を浴びせるではないか。それが完璧な証拠だ。ミチルは自分に言い聞かせた。
「那須禾さん」
うっかり周囲から目を離していたミチルは、耳元で発せられた声に、一瞬驚愕し、体をビクつかせてから声の主の方を振り返った。
「そんなに驚かせちゃった? ごめんなさいね」と、透き通るような声の主は、涼しげな微笑を浮かべて自己紹介した。「引率で来ました聖麗女学館高校美術の鳴海です。よろしくね、那須禾ミチルさん」
鳴海と名乗った若い女性は、二十代半ばであろうか、若いが落ち着いた感じの細面の大変な美人で、大きな目を細めて微笑む様子は、まさに癒しの女神のようだった。
ミチルは、吸い込まれそうになるのを堪えてどぎまぎした。「あ、こちらこそ、よ、よろしくお願いします。那須禾ミチルです」
「そんなに畏まらなくても良いのよ。綺麗な澄んだ眼をしているわね。あなた、本当に純真なひとのようね」
鳴海はくすくすと笑ったようだ。
そういう鳴海の方こそ、何もかも見透かすようなまっすぐな目を持っているように思われた。しかし、気づいている様子は見当たらない。やはり自分は完璧だ。ミチルは意識的に思い込んだ。
鳴海の傍らに、やはり自分と同じくらいの女生徒が控えていた。小さな顎を少し引いてやや上目遣いにミチルを見ながら、口元は少しいたずらっぽい笑みを浮かべている。
「杉咲有美さんよ」と、鳴海はミチルに紹介した。
「こんにちは、はじめまして」と、杉咲有美はぴょこんと頭を下げた。つられてミチルも頭を下げる。
「同級生よ、ふたりとも。一年B組。何も畏まることはないわ」と、鳴海は目を細めた。
同級生。という言葉にミチルは戸惑った。確かに背丈も同じくらい。おちゃめな仕草がまだ高校生らしくないところはあるが、制服とコートに隠された体は、細い脚の割りに肉付きが良く、すっかり大人の体になろうとしている。身長だけ一人前の細い華奢な自分の体とは異なる。明らかに年上だった。
「こんにちは、千葉校から転入の那須禾ミチルです」
ミチルはなるべく狼狽を見せぬよう努めた。まだ試練は始まったばかりだ。この程度のことでどうする。そう自分に言い聞かせた。
「さ、行きましょ」と、鳴海は二人を率いて新幹線ホームへの改札へ向かった。「私も本校へ行くのは初めてだから、緊張するわよね。念願の本校勤務ですもの」
ミチルと有美は顔を見合わせた。緊張の様子は微塵も見られない。悠々と鳴海は二人に背を向けた。
千葉からの編入はミチル一人だけだった。教官の転勤もないため千葉校からたった一人で本校現地へ向かわなければならない。その為東京駅で横浜校から転勤の鳴海が引率するグループ、といっても生徒は有美だけだったが、と合流することになったのだった。
以上はミチルが予め持たされた情報だった。すべてはパソコンのEメールを介して齎された情報なのだ。昨年の十二月から何度もメールでやり取りし、準備してきた計画だった。「那須禾ミチル」という生徒に成りすまし、聖麗女学館本校に潜入する。
相手は「精霊」と名乗る謎の人物で、どこのだれかはもちろん、何の目的でそのようなことを計画しているのかさえわからない。しかし、この計画に参加することを決めたのは、勿論予期せぬ死を遂げた姉の死の真相を知るためだった。
姉は二年前、聖麗女学館本校へ転入してまもなく非業の死を遂げたのだ。あの時まだ小学生だった今のミチルは、姉の遺体を目にして呆然とした。それが現実であることを受け止めるにはかなりの月日を要した。ようやく自分の生活を取り戻しかけたかと思った頃、あの謎の人物「精霊」からのメールが届いたのだ。
「精霊」からの情報によると、本校の関係者に突然死したり失踪したりする人物は以前から多いのだという。しかし、にもかかわらず学校関係者のみならず聖麗の会に至るまで、遺族に対して合理的な説明がなされることはなかった。世間の話題にすらならず、噂も密かに消えていくのだという。
当然本校内部に何かがある。そう睨んだ者も少なくない。彼らのうちの幾人かは実際に本校へ問いかけるアクションを起こしたが、何ら納得できる説明は得られなかった。
聖麗女学館の他校の生徒が、消えたりした友人の動向を知るために本校へ転入していったケースもあったらしいが、ある者は失踪し、ある者は口を噤んでしまい、そのまま音沙汰なくなってしまうのだという。
「精霊」は、くじけずに行動を続けているという。今回のミチルへの誘いもその一つだった。「精霊」は、はっきりとは知らせないが、ミチル以外にも同様の目的で本校へ人を送り込んでいるらしい。そうまでして影で動く理由が理解できないが、一方でどうしてそこまで手をうつことができるのか不思議なくらい、あの守備強固な本校へ人を送り込む手はずを見事に整えるのだ。
今回のミチルの場合でも、「那須禾ミチル」という名前。その人物設定、履歴書および学校の制服からありとあらゆる必要物品まで、見事に揃えた。明らかに本校内部にいる人物。しかも中でも相当力を持った人物に違いないのだ。
「内部でも指示を送るから大丈夫」と、「精霊」は繰り返した。何かあっても十三歳の少年のことだから大した罪にも問えないだろうというのだ。そう「那須禾ミチル」としてこれから本校へ向かうのは、鍛冶翔という十三歳の少年なのだ。
幼少の頃から少年少女劇団に在籍して子役をこなしてきた翔は、当時天才とまで言われるくらいの演技をしていた。まだ男として成長しきれない華奢な体を持ち、女性のような声を出すことができる翔には十五歳の少女を演じることは十分可能だった。「精霊」はそこに目を付けたのだろう。
翔はこの三ヶ月、今回の潜入に対してあらゆる準備と努力をしてきた。女性としての仕草、暮らし方。高校新一年生に相応しい学力。そして那須禾ミチルという人物設定。
「精霊」が用意した那須禾ミチルという人物は、まったくの架空の人物らしい。聖麗女学館千葉校中等部の逸材。控えめで慎ましやかだが、芯の強い努力家。存在は目立たなくても結果を残す。そういう設定だった。
演じるつもりがなくても、この三ヶ月は努力を積んだ。日々の勉強。特に数学と英語には血のにじむような努力が必要だった。一方で女装して街中へ出て行く。幸いにもふつうの少年に見られるような成熟の過程が外見上あまり表れなかったことと、もともと色白細身の美少年だったことが、美少女への変身を容易にしたのだ。
研修期間は二週間。四月の一学期が始まるまでの間に何らかの結果を出さなければならない。さすがに正規の授業が始まってしまうと体育があったりして、正体がばれる可能性が日に日に高まるのだ。「精霊」の手が及ぶ範囲が狭まっていくということだった。今日からの二週間あまりが翔演じる那須禾ミチルの勝負の舞台だった。
新幹線に乗り込んでからも、ミチルはボロが出ないように人見知りする口数の少ない慎み深い美少女の役を演じた。訊かれたことだけを必要最小限のことばで答える。引率の鳴海美夏が多弁であったのが幸いした。
見せてもらった身分証によると、二十五歳の美術教師。横浜校でも美術を教えていたようで中等部も担当していたために杉咲有美のこともよく知っているらしい。
有美も鳴海のことを信頼し、また慕っているようだった。鳴海に向かって時々見せる上目遣いの視線。鳴海がミチルの方に話しかけているときの羨望が混じった眼差し。ミチルにしてみれば、有美は二歳年上の女子高生だが、大人の女性に引けをとらぬ丸みを帯びた体つきとはアンバランスな感じで、どこか幼さが垣間見える美少女だった。
ミチルこと翔は姉のことを想う。生きていれば十七歳。この春から三年生の筈だ。脳裡に浮かぶ姉の姿は高校一年生のままだ。有美ほど肉感はなく線の細い感じだったが百六十八センチの長身で異性のみならず同性からも慕われる美しく自慢の姉だった。
母が聖麗の会に入信したことで、中学から地元の聖麗女学館に入学した。持ち前の頭脳と努力で本校への編入権を勝ち取り、高等部は本校へ入学した。全寮制だったため、研修を受けることになり、丁度今頃の時期に別れたのだ。それが永遠の別れになろうとは思いもせずに。
隣にいる杉咲有美が、年齢的にも二年前の姉に相当する。こんな風に姉も引率の教師や同じように本校へ入校する生徒と新幹線に乗ったのだろうか。期待と不安が入り混じった当時の姉の胸中を察するとミチルの心中は穏やかではなかった。
長野新幹線は一時間ほどで軽井沢駅に到着した。