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親友の裏切り

作者: べんけい

      親友の裏切り


 肇は何かにつけて不遇を託つに伴い故郷(K町)での輝かしい交友が懐かしくなってK町の旧友の事を強く思慕する様になった。殊に幼馴染の中で一番気心の知れた間柄であった秀君の事を思慕していた。但、当然、小学生の時とは訳が違って中学一年の時の彼は、勉強に追われていたし、関係が無いにしても異性への関心にも追われていたし、乏しいながら目先の人間関係にも追われていたから旧友を思う暇なぞ、そんなに有る訳では無かった。けれども、冬休みになって追われるものが勉強だけになると、秀君の事を思慕する時間が多くなり、正月になって、「元気にしてますか?僕は元気です。お互いに頑張ろう!」というメッセージ付きの秀君の年賀状を見た日には愈々以て秀君への思いが募るのだった。だから会いたいと強く願ったが、自分に自信を持てない彼は、現状の自分を見られたくないという思いも強く、結局、踏ん切りがつかず、回避してしまい、冬休み中に会いに行く事は出来なかった。けれども、同じアパートの子だったし、秀君が引っ越してしまう恐れがあるので引っ越してしまわない内に会っておかないと後悔すると思って中学一年を修了して春休みになった或る日、一念発起して会いに行く事にした。


 K町へ向かう中、電車に揺られながら秀君に会うべきか会わないべきかと肇の心は揺れに揺れた。一つの乗り換えを無難にこなし、七つの駅を経て恙無くK駅に着き、下車してK駅を出てから新鮮な春風に吹かれ、麗らかな日差しを浴び、馥郁たる新芽の香りを嗅ぎ、楽しげな鳴禽の囀りを耳にしながら約三年半ぶりに故郷のK駅前や商店街やK南小学校沿いの思い出深い通りの風景を目にしても相変わらずアパートへ歩を進める間、彼の心は揺れに揺れた。そしてアパート周辺に辿り着き、秀君の住んでいたアパートの部屋の玄関前に恐る恐る近寄って行き、表札を見ると、川上の儘なので、まだ引っ越していない事が分かり、取り敢えず安堵の胸を撫で下ろした。が、それも束の間の事で直ぐに呼び鈴を鳴らすべきか鳴らさないべきかと商量し、再び彼の心は揺れに揺れた。而して暫く逡巡していると、中から秀君と秀君のお姉さんと思しき声が聞こえて来て、その途端、それこそ風声鶴唳に戦くが如く怖じ気立ち、その場から即刻、逃げ出してしまった。それ位、彼は自分に自信が無く臆病になっていたのである。序でに自分にとって三大親友の一人であった比呂志君の家の前にも行ってみたが、矢張り素通りするだけだった。同じく自分にとって三大親友の一人であった卓生君の豪邸に至っては、恐れ多くてとても行く気にはなれなかった。彼は転校前は大勢の友達に囲まれ自信に満ち溢れた少年だったが、転校後、内向的な性格が祟って新しい環境に順応できず友達が出来ず苛められっ子になったばかりか土地っ子から一転余所者になった引け目のお陰ですっかり卑屈になってしまったのである。

 会う勇気は無いし手紙を出す勇気すら無い、それならせめて年賀状の遣り取りだけでもと思い、師走に秀君宛に年賀状を出してみたら明くる元旦に秀君の年賀状が届いて、その年の師走にも秀君宛に年賀状を出してみたら今度は明けて三箇日が過ぎても梨の礫だったし、秀君以外の旧友らも去る者は日々に疎しで肇に親しみを失ってしまい誰も年賀状を寄越す者はいなかったので、「遂に秀君も疎遠になった僕の年賀状が鬱陶しくなったんだ」と思い、酷く落胆した。

 肇は仕様が無いから引っ越し間際に秀君が言ってくれた「向こうで友達を作るには未練を絶たないといけないから僕の事をいつまでも思ってたら駄目だよ」という助言を思い起こし、「秀君は僕の事を思って敢えて年賀状を出さなかったんだ」とこじ付けようとしたが、土台、無理な話で無駄骨に終わり、結局、託つ事になった。

「僕は中学一年生の時に宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読んでいたら秀君がカムパネルラで僕がジョバンニに思えて来る位、秀君の事を思慕していたのに全く裏切られてしまった気がして悲しくて堪らない。慮ってみれば、秀君は僕が転校後も友達が一杯いて、その交友に満足していたから僕を思慕する必要が無かった・・・一方、僕は転校後、友達が出来なかったから、いつまでも秀君を思慕する必要が有った・・・嘗ての親友同士が悪夢の引っ越しに因って距離を隔てて僕の片思いみたいな関係になって親友に裏切られたという思いを僕に抱かせる仕儀となったのだ。これは早くアパート暮らしから抜け出してマイホームに住みたい、早くマイホームを構えていっぱしの男と認めてもらいたいと利己的に願う余り、我が子の極度に内向的な性格を顧みず考慮せず斟酌せず蔑ろにして土地が安いからと言ってK町の学区内から遠く離れた所に急いで家を建て引っ越しを断行し、我が子の馴れ親しんだ土地と幼馴染とその他大勢の友達を奪って我が子を不遇に陥れた愚かな親父の無謀な軽挙妄動が齎した悲劇だ!」 

 肇は無性に虚しくなった。それで誰にも見られず郷愁に浸りたくなって明けて五日目だから冬休みが終わる三日前の蒼茫と暮れ行く黄昏時に、こっそりと電車でK町へ出掛けた。誰にも会う勇気が無いから、せめて母校の様に慕うK南小学校とコンタクトを取ろうと思って行く事にしたのである。

 前回同様、恙無くK駅に着いた肇は、プラットフォームに降り立つと、前回の新鮮な春風に吹かれる代わりに肌に突き刺す様な凍てつく北風に吹かれ、ダウンジャケットの下にニットセーターとシャツを重ね着しているにも拘わらず尋常でなくひんやりして身震いした。と同時に前回来て以来二年も経っていないのに矢張り故郷の駅には特別な物を感じ、ノスタルジックな気分になった彼は、丁度、地下通路に通じる階段前に降り立ったので、いの一番でプラットフォームを後にして逸る気持ちを抑え切れなくなり、階段をどたどたと駆け降りて地下通路をすたすたと歩いて行き改札口をするすると抜け出すと、冬のダイヤモンドの一角を担うシリウスが他の星を従えているかの様に一際青白く煌々と照り輝く星空の下、すっかり夜の帳に包まれたK町の大地に立った。

 早速、肇は駅前のロータリー沿いに在る雑貨店へ歩いて行き、店先に吊るしてある鳥籠の中の店の名物となっている九官鳥に、「肇が来たよ」と話し掛け、「はじめがきたよ。はじめがきたよ」と九官鳥が繰り返したのを聞き届けてから商店街のレトロな裏通りではなく、至って平凡な表通りに通じるロータリー沿いの歩道を懐かしく思いながら西へ十五メートル程、歩いて商店街に進入した。

 肇は年明け早々営業を開始した店舗の照明だの様々な看板を照らし出す照明灯だの僅かに点在するネオン看板だの菓子の「きのこの山」を連想させる街灯だのに照らされた明るい人通りの疎らな歩道を店先の福引ガラガラ抽選器や福袋や初売りの文字が躍る立て看板なぞを横目に新春を感じつつ店先の門松を見た時、「門松は冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」という狂歌を連想して一休さんみたいに髑髏を掲げて歩いてみたいと風狂の念に駆られたりして西へ百メートルばかり歩いた所で独特の匂いに誘われ、大好きだった大判焼き屋に立ち寄り、思い出深い匂いに包まれながら大判焼きとたい焼きを二個ずつ買った。

 更に肇は西へ五十メートル位、歩いた所でタマコシという総合スーパーの屋台が建ち並ぶ敷地内に進入し、賑やかな人込みを掻き分け香ばしい匂いを嗅ぎながら、まず、お好み焼き屋でテイクアウト出来るタイプのうぐいす紙に包まれたお好み焼きを一つ買い、次に御手洗団子屋で御手洗団子を五串買い、仕上げに自販機で缶ジュースを一缶買うと、コカコーラの白いロゴが背凭れに描かれた赤いベンチに、よっこいしょと腰を下ろした。

 肇はタマコシのBGMや客の声や商店街を走る車の音なぞで騒々しい中、櫛の歯を挽く様な人の往来を眺めつつ、「この大判焼きとたい焼きの衣も餡子も大好きだった」「このぱりぱりとしたお好み焼きの食感、大好きだった」「このモチモチとした御手洗団子の食感、大好きだった」なぞと懐かしい味に舌鼓を打ちながら夕食を取った後、ごみごみとした人込みを縫いながらタマコシの敷地内から歩道に出て、西へ五メートル程、歩いて交差点の横断歩道前に立つと、信号待ちしている間、日本の町並みらしく電信柱や電線や看板が鬱陶しく感じられ、種々雑多な物が参差錯落として折り重なり、味噌も糞も一緒にして混ぜこぜにした様な乱雑な煩雑な猥雑な風景を眺めて見ても矢張り特別な物を感じ、ノスタルジックな気分になった。

 肇は信号が青になってから車のグリルに飾られた注連縄を横目に猶も新春を感じながら横断歩道を渡り、向かいの歩道に移った後、小学四年の頃から通い始めたゲームセンターや父が若い頃、勤めていた大島屋というスーパーを横目に我知らず溜息をついたりして東へ十メートル程、歩いてから改めて、「ひょっとして、あいつ、村瀬だったかなあ・・・」「もしかすると、あいつ野木森だったかなあ・・・」なぞとタマコシで夕食を取っている間に見掛けた何人かの同年代の青年を思い浮かべ、記憶にある面影とオーバーラップさせながら東へ六十メートル程、歩いた所で電信柱の電灯がぽつんぽつんと灯る仄暗く人通りの無い、ひっそりかんとしたK南小学校へ通じる細道に折れた。

 肇は建ち並ぶ民家を眺め、「この辺りは昔と変わらないなあ」と前回歩いた時と同様に思いながら歩いていると、何処からともなく野良犬と思しき寂しげな遠吠えが聞こえて来て嘗て幼馴染の正君と飼っていた野良犬を思い出し、「ポラ(犬の名)だ・・・な訳ないか」と思ったりして休まず歩いて行き、細道に出てから物の二三分でK南小学校沿いの通りに入ったので、「こんなに短い通りだったのか」と前回歩いた時以上に短さを感じた。

 そう感じるのはそれだけ自分の足が伸びたからだろうと半ば自惚れて思った肇は、冬枯れた枝を寒風に晒し、ざわざわと音立てて震える様に揺らしながら寒々と立つソメイヨシノや八重桜やヒトツバタゴの落ち葉をさくさくと音立てて踏みしめて行き、通りから奥まった所にあるどっしりとした鉄の門扉で閉ざされた正門まで到頭、辿り着くと、鮫肌の様にざらざらとした御影石の門柱を酷く懐かしみながら撫でてみて独りでに、「嗚呼、僕の母校だ・・・」と呟いた途端、堰を切った様に万斛の涙が溢れ出て来て楽しかった思い出が走馬灯の様に蘇り、矢も楯もたまらず駆け出して生け垣に沿って冷たい空気を物ともせず白い息を吐きながら疾風の如く駆けて行き、生け垣の間の出入り口の前まで瞬時に駆け付けた。

 すると満天の星空に照らし出されたお陰でアルバムの中の幾つかの白黒写真を繋ぎ合わせ、パノラマ化し、実物大に拡大化したかの様なK南小学校の全貌が目に飛び込んで来た。

 その正に夢の中に出て来る様な光景に心を打たれファンタスティックな気分になった肇は、まるで夢遊病者の様になって、そろそろと歩き出し、校庭内に吸い込まれる様に入って行くと、思う存分、涙を流しながら学校中を端から端まで隈なく見て回り、思い出の詰まった遊戯施設や校舎に手で触れてみたり頬擦りしてみたりして精一杯、コンタクトを取った。

 精根使い切り綿の様に疲れ果てた肇は、ブランコに座り、冬のダイヤモンドの中のオリオン座を始め色んな冬の星座をぼんやりと眺めている内に斜めに淡く白く帯状に走る銀河に惹き込まれて行き、「なるほど~、乳色に見える。ミルキーだあ・・・乳流れだあ・・・神聖なる永遠なる母乳だあ・・・嗚呼、ミルキーウェイ・・・けれども、日本人はやっぱり天の川って言った方がピンと来る。天の川と言えば、織姫と彦星かあ・・・えーと、織姫星、織姫星、あっ、そっか、冬は見えないんだ」と呟いた所で夏の夜空に光り輝く織姫星を思い浮かべようと目を閉じると、不思議にも転校前に仲良くなった早苗ちゃんのキュートな笑顔が瞼に鮮烈に蘇り、その儘、仲を深める事が叶わなかった、許されなかった自分に与えられた切ない運命を思い、寂しさの余り、虚しさの余り、悲しさの余り、他の男子と契りを結んでいるに違いないのに未練がましく、「早苗ちゃーん!」と泣き叫んで号泣した。

 肇は余りにも寂しく虚しく悲しくなったから学校を出ようと生け垣の間の出入り口の手前まで来ると、出入り口の脇に郷愁に駆られる余りか亦しても不思議にも下校の時、いつも優しく微笑み掛けながら見送ってくれた、大好きだった佐竹美智子先生の幻影が視覚に映ったので思わず抱き着こうとすると、虚空を泳いで空足を踏んで勢い膝から崩れ、その場にへたり込んでしまった。その拍子に桜の枝の間から洩れ射す月影に幽かに照らされた冷たい砂を掴んで握り締めながら大粒の涙をぽたりぽたりと落として嘗て佐竹先生に励まされた場所であった砂場を熱くそして冷たく濡らして行った。

「嗚呼、佐竹先生、もう励ましてくれないんですか・・・」

 肇はそう呟くと、万感、胸に迫り、寂しさと虚しさと悲しさをこの上なく感じ、一層、涙が溢れ出て来て声を上げて激しく慟哭した。

 気持ちが幾らか収まってから砂を握り締めた右手を目の前に持って行き、五本の指を開いて指の間からさらさらと落ちる砂を見て、「嗚呼、佐竹先生・・・」と呟きながら寂しさと虚しさと悲しさをしみじみと感じ入り、掌に残った砂に白い息を吹き掛け、煙の様に消えて行く砂を見ても、「嗚呼、佐竹先生・・・」と呟きながら寂しさと虚しさと悲しさをしみじみと感じ入り、砂の無くなった掌をじっと見て、「義に喩れど義に喩れど猶、我が努力、報われず。ぢっと手を見る」と啄木の短歌を捩って呟き、踏ん切りがつくと、項垂れた儘、力無く亡霊の様に立ち上がり、物凄い寂寥感と虚無感と悲哀感に襲われながら萎れた向日葵の様な格好で、しおしおと学校を出た。

「よし、こうなったら駄菓子屋さんを見に行こう」と肇は思い、「そう言えば、ワクワクしながら、この道を通ったものだなあ」と佐竹先生への思いを振り払おうと強いて思いながら正門の方へ歩いて行き、正門前を右に折れ、少し進んだ所で何やら好い薫りがそこはかとなく漂って来るので、何だろうと周りを見渡してみると、民家の庭先で星明りを浴びながら幻想的に咲き乱れる赤い山茶花が目に留まり、あれだと気づいた途端、心を奪われ、立ち尽くし、見惚れる内、佐竹先生のほんわかとした笑顔を連想してしまい、学校を出る前の心境をぶり返してしまった。

 肇は再び佐竹先生への思いを振り払いながら歩いて行き、ガラス引き戸とカーテンで閉ざされて中が真っ暗な駄菓子屋さんの前に辿り着くと、友達とお菓子を買ったり玩具を買ったり文房具を買ったりして駄弁った日々が胸中を去来し、「嗚呼、何と豊かな交流を持てた社交場であった事だろう!嗚呼、何と楽しみの詰まった素晴らしい社交場であった事だろう!」と思い、それに引き替え、現状の交友が如何に薄っぺらな物であるかを痛感し、あの頃が恋しい、あの頃に帰りたいと恋い焦がれる内、再び万斛の涙が溢れ出て来て、懐かしいあの頃を恋忍んでいると、秀君との事が偲ばれて来て、いつしか駄菓子屋さんの傍らに座り込み、天の川を眺めながら自分がジョバンニで秀君がカムパネルラだった頃を思い出し、空想を逞しゅうして想像を逞しゅうして秀君と銀河鉄道に乗って天の川を旅するのだった。

 肇はファンタジーな世界に浸る内、「もしかすると秀君一家が引っ越して引っ越し先に自分の年賀状が転送されなかったから秀君は返信をしてくれなかったのかもしれない」というせめてもの希望が生じ、「引っ越していれば、幾らか心が救われるのだが・・・」という寂しい虚しい悲しい希望を抱きつつ秀君の住んで居たアパートへ行ってみる事にした。

 肇は元来た道を戻って行き、K南小学校を素通りして猶も真っ直ぐ少し歩けば、もう自分の住んで居たアパートが見えて来る、そんな短いルートを歩いている間、建ち並ぶ民家を眺めながら矢張り、「昔と変わらないなあ」と思っていたが、正君の住んでいたアパートの前に辿り着いてからアパート界隈を歩いてみると、自分が住んでいた頃は集合住宅と言えば、木造二階建てのアパートしか無かったのに元、空き地だった所に鉄筋造四階建てのマンションが建っていたり、元、錆々のトタン張りの木造二階建てのアパートが建っていた所に色鮮やかに塗装された鉄骨造二階建てのアパートが建っていたりと大分、様変わりしていたし、元、野原だった所に建築中の家や何かの土台が築かれているのも目にしたので、「桑田変じて滄海となるかあ・・・」と思ったりしながら辛うじて残存する古惚けて今にも崩れそうな自分が住んで居た木造二階建ての古色蒼然たるアパートの前に辿り着くと、月影さやかなる所為で更に淡く見える色褪せた淡いクリーム色のモルタル壁に月影さやかなるお陰で辛うじて確認出来る黒のペンキで記された「吉原壮」という掠れた文字を瞼に焼き付ける様に眺めながら、「後、五年もすれば、この辺りの思い出深い風景は雲散霧消跡形も無く消え失せてしまうだろう。そして此の僕を育ててくれた吉原壮も・・・」と諸行無常の思いに耽るのだった。

 此の世の儚さを胸一杯に感じ取った肇は、吉原壮の西向かいに建っている、それよりは新しめの木造二階建てのアパートに目を転じてから秀君の住んで居た一階の部屋の注連縄が飾られた玄関前に恐る恐る近づいて行き、表札を見ると、それは幼年の頃から引っ越すまでの間に見飽きる程に見慣れていた紛う方なき川上の表札だった。覚悟してはいたものの彼は最後の頼みの綱がぷっつりと切れた様な気がして、其の儘、がくんと項垂れ、失意に沈み、「嗚呼、秀君、君もかあ・・・」と呟くと、友情というものが信じられなくなるのと同時に友情というものも儚いものだと思った。

 肇は悲しくて悲しくて堪らなくなり、泣きに泣いて、もう何にも見たくなくなった。それでK町を去ろうと意を決し、K駅へ向かうべく、一層、冷え込みが増した、元来た冬の夜道を顔が凍り付くかと思う位、涙を流しながら歩いていると、ふとアパートに風呂が無かった頃、銭湯に通っていた事を思い出し、「嗚呼、小さい頃はこの夜道を歌を口遊みながら家族と手を繋いで楽しく歩いたものだが、今はどうだ、泣きながら独りで歩いているではないか。何という変わり様だ。何という儚さ・・・嗚呼、あの幸せだった時はもう帰って来ない。嗚呼、あの温もりに浸る事はもう出来ない。嗚呼、何もかもが朝に咲き昼に萎む露草の如く儚い」と大粒の露を流しながら露の世を愁い、「嗚呼、温かだったものが何もかもひんやりと冷たくなって行く・・・」と寒気も手伝って顔だけでなく全身全霊が凍る思いをしながら星斗闌干たる夜空の下、涙闌干と泣き続けるのだった。

 肇はどの店舗も店仕舞いして射干玉の闇と化した商店街の表通りに出てからも人がもう歩いていなかったので泣き続け、K駅に着いてからも中は閑散としていたので泣き続け、電車に乗ってからも自分が座った周りには人がいなかったので満目蕭条たる車両内同様、心中も蕭然となり、涙を潺湲と流しながら泣き続けるのであった。

 家に帰ったのは十一時過ぎだった。肇の両親はこんな事は初めてだから酷く心配して待っていた。理由を聞かれた肇は、真っ赤な目をして、「友達と遊んで来た」とぽつりと呟くだけだった。


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