15.夕立
がろん、と空から重低音が響く。
見上げた僕らの頭上で、今度は閃光が走る。
発達していた入道雲は、いつの間にやら暗い色へと変わっていたようだ。揃ってくんくん匂いを嗅ぐと、どこか雨の匂いがした。
「あ、降りそうだ。今日の冒険はここまでにして帰ろうか」
「ええ、そうしましょう。そういえば朝の案内でもそんな事を言っていたわね。身体がだるかったのも関係あるかしら?」
案内というのは、毎朝に流れる女性の声だ。
今日の気温や天気を案内してくれて、まったく外れないことも無いから頼りにしつつある。
ほら、田舎のほうの天気予報なんて適当だから。
立てかけていた自転車に姉が乗り、その後ろへ腰掛ける。
筋力は圧倒的に姉のほうが高く、下手な電気自転車なんかよりもずっと早い。みるみる加速してゆく光景に「ステータスの影響って凄いなあ」などと悠長に僕は考えていた。
実際、敏捷を集中的に上げてゆくと身体がみるみる鍛えられてゆくのは分かる。たぶん今なら百メートル走でブッちぎりのベストタイムを計れると思う。
世間でも同じような話題が出ており、身体能力の異様な高さに自称専門家たちを閉口させていた。
僕らはレベル9になったけれど、いったいどこまで強くなるんだろう。
そう思いながら空を見上げると、ばちっと水滴が顔に当たった。
「あ、降ってきた! これ大粒になるよ」
「きゃあきゃあ、一気に来たーー! やだもう、前が見えないい!」
どどおと大量に落ちてきた雨粒に、僕らはやかましくも悲鳴をあげながら家に逃げ込んだ。
ぴしゃりと玄関を閉じると、姉は泣きそうな顔をこちらに向けてきた。
「買ったばかりのワンピースなのにぃ。ぐしゅっ、由希ちゃあん」
ぱたぱたと水滴を落としてゆく彼女は、肌の輪郭が分かるほど布が張り付いていた。白いせいで素肌が透けて見え、僕は慌てて顔を背けた。
どうも姉は顔と身体がアンバランスで困るんだけど……。
そう悩ましい思いをしていると、背後がピカリと輝いた。
――どどん、どんっ! どろろぉぉ……。
「きゃああっ、由希ちゃん由希ちゃん! やーーっ!」
どしんと背中に抱きつかれ、呼吸が止まるかと思った。
背中へ当たる感触は、きっと姉の乳房だろう。のしりと全重量を背中で支えているので、かなりはっきりと分かる。
それだけでなく……。
まずい、絞め殺される。呼吸が止まった原因はこっちだ。
筋力をアホみたいに伸ばしているって、本人は気づいてないぞこれ!
「うごごご、殺され、るぅ……!」
「ひゃあああ、また光っ! いっやああーーっ!」
うん、これは本当に死ぬ。いま背骨がミシッて鳴ったし、次に雷の響いたときが僕の本当の最後だ。
まあ死んでも平気らしいし、ある意味で良かった。
「さよう、なら、地球……」
「あっ、あーーっ、由希ちゃん、由希ちゃああん!!」
ぐったりした僕にようやく気づいたのか、姉は泣きそうな声を上げた。
ぐしゅん、ぐしゅん、という音を背後に、僕はシャワーを浴びている。
しかしこれは何だか気持ち悪い。身体は灰色で頭の上に輪っかが浮いているなんて。
そう、僕は初めて「死亡」を経験し、どのような状態になるのか身をもって知ったのだ。
普通に歩けるしシャワーは浴びれるし服も着れるけど、すごく落ち着かない。
「ごめんなさい、ごめんなさい由希ちゃあん……」
「翠姉さん、しばらく口を聞かない約束を忘れちゃったの? お夕飯が終わるまで、もう返事をしないから」
また絞め殺されたら困るので、こうして罰を与えている。
しかし、ぐしゅっぐしゅっという音が大きくなると、今度は僕の胸にもダメージがやってくる。
言いすぎたかな……。
でも反省しないと同じことをするだろうし……。
身体が灰色で落ち着かないし、すすり泣く声にソワソワしてしまう。
仕方なく温まる前にシャワーを止めると、戸を開いてバスタオルを手にする。
パジャマに着替えてから外にでると、姉は床にしゃがみこんでいた。
耳はぺたんと閉じており、尻尾の先は膨らんでいる。
こちらを見上げる姉の瞳は充血し、うるーっと涙をにじませていた。
「ごべんなさい、ゆきぢゃあん……」
ああ、鼻水まで出しちゃって。
肩に下げていたタオルを下ろし、まだ濡れている姉の髪にかぶせる。そのまま拭いてあげながら、長いまつ毛の瞳を覗きこんだ。
「じゃあ、ちょっと早いけどお夕飯にしようか。それが終わったらお仕置きもおしまい。分かった?」
こくんこくんと姉は頷き、よく見たら尻尾の先端も上下に揺れている。
「すごい土砂降りだ。音が凄いねえ、翠姉さん」
「うん、ちょっと怖かったの。由希ちゃん、手をつないで?」
「いいけど、そうしたら料理できないよ?」
「ん、じゃあシャツを握ってる」
タオルに鼻を当て、ぐしゅんと鳴らしてから姉は立ち上がってくれた。
そのまま身体の温まる料理を食べて、技能の取得について話をし、姉へのお仕置きと夏の夕立は終わった。