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プロトタイプBBB

作者: 銀丈

第一話

ある晩秋


 人は、利便で(なま)り、不便で研ぎ澄まされる。

 目覚まし時計の電池が切れて以来自力で起床している、()(じょう)(れん)の持論である。

 まずは髪を枕元のゴムで束ねる。伸びの早さを持て余している長さは視界の邪魔だ。

 布団を這い出すと、椅子の背もたれにかけておいた暗灰色のファイヤーマンコートを室内着代わりに羽織った。

 気に入りの一張羅だ。分厚い生地には防水のためオイルが染み込ませてあり、重いがその分暖かい。

 晩秋の季節柄、足跡代わりに漂う白い息が、コンクリートや鉄骨がむき出しの壁に、寒々しさを塗り重ねる。

 階下に顔を出してみると、応接用兼食事用のテーブルに、空の茶碗と皿、ラップ、それに写真と書類が数枚あるだけで、人影はない。

 家主(ぬし)のために夜食を用意しておいた食器は乾き、寝具も見当たらない。家に戻っては来たものの、夜食を済ました足で出て行ったようだ。

 探偵という職業柄、家主は基本的に外を走り回っているので、決まった時間には顔も合わせられない。

 スイッチを入れておいたストーブが、温風を吐き始める。石油臭に混じって吹き付ける別の臭いに気付き、廉は眉を寄せた。

 この苦さは・・・煙草(たばこ)だ。点火直後の甘さはともかく、それ以降の臭いは我慢ならない。

「家の中は禁煙と散々言っているはずなんだがな・・・」

 ぼやきながら、エプロンを身に付け、ガスコンロに点火。朝食の準備を始める。

 実質、一人暮らし同然だが、元々自活能力の低い家主に代わって廉自身が家事全般を担当しているので、特に困ることはない。

 手早く朝食を済ませ、夜食のそれとまとめて食器を洗い終えると、身支度を整える。(えり)元をしっかり留めた学生服の上に改めてファイヤーマンコートを着、外へ。

 表札は「立花(たちばな)探偵事務所」。鉄筋コンクリートの倉庫を改造した外観は重厚かつ硬派な印象をかもし出している。

 ドアの戸締まりを確認すると、廉は朝もやに分け入った。



 朝は好きだ。特に、冬に近い時期。指先の感覚が薄れ、顔が引き締まる、静寂の中に張り詰めた微かな緊張感。そして、生命の気配がしない安心感――と考え込む廉の頭を、鈍い衝撃が抜けた。

 反射的に半歩後退、のけぞり気味に重心を安定させながら、衝撃の来た方向に向き直る。

 行く手には・・・電柱。 気を抜くと、(まゆ)を寄せながら頭を押さえる。

「ん・・・んんんんん・・・!」

 とっさには()(まん)してしまうものの、痛いものはやっぱり痛い。

「気を付けねばなるまい」

 上の空で歩くのは、危険だ。

「あ――」

 歩みを再開する背に、覚えのある声が触れた。振り返ると、セーラー服にフライトジャケットを羽織った少女が、駆け寄ってくるところだった。

「九条さん、おはようございます」

 揺れるショートボブに、廉も()(しゃく)を返す。

「はい、おはようございます、日名子(ひなこ)さん」

 少女の左頬ほおには、鋭利な傷痕が一筋。険しい印象を伴う修飾はしかし、生真面目(きまじめ)な表情を引き締めこそすれ、すさんだ(かげ)を落としてはいない。

「あの、よろしかったら、途中までご一緒しませんか?」

 断る理由もないので、うなずく。

「うん、よろしいです」

「よかった」

 少女――日名子は、表情をほころばせると、背負っていた竹刀(しない)袋と一緒に(かばん)を胸元に抱き直し、廉の隣りをしずしずと歩き出した。

「こんな時間に会えるのは意外でした。九条さんはいつもこの時間帯に?」

「ええ。家より教室の方が暖かいものですから」

 立花探偵事務所は、元が倉庫だけあって、むやみに広く、気密性も低い。間近で暖房の恩恵にあずかれる教室とは、もはや比較するのもおこがましい。

「いつもぎりぎりまで寝ていると思っていました?」

「・・・思ってました」

 ばつが悪そうに軽くうつむく日名子。

「だって九条さん、いつも眠そうですから」

「いつも、ですか」

 否定はしない。実際、眠いのだ。

 月に一度の「人狼症」は、特に動かずとも体力をえぐりとっていく。疲労が最高潮に達する翌朝も人並みの生活を送れるのは、日々、体に力が入らなくなるまで続けている、体力づくりの賜物(たまもの)である。

 つまり、九条廉はいつでも疲れている。

 疲労が眠気とつながらない道理はなく、結果的に、目を閉じているか机に突っ伏しているかのどちらかが当たり前だった。

「日名子さんに言われては、返す言葉もありません」

 神妙な顔でうなる廉。

 高遠(たかとお)日名子。始業前と放課後、朝夕(あさゆう)欠かさず練習に精を出しながら疲れた顔も見せない、剣道部の次期主将である。その口を通せば、こと疲労に関しては単なる感想も重みが違う。

「早く寝てるだけですよ。特にやることもありませんし」

 むしろ、毎日、体を酷使し続けられるのは、ものすごいことだと思いますけど。

「まあ、早寝すれば早起きできるのは道理ですね」

「ええ――あ、そういえば」

 ふと、日名子が話題を切り替えた。

「九条さん、朝練にいらっしゃいませんか?」

「突然ですね」

「朝練の参加者って、あんまりいないんです。久我(くが)先輩、朝からいつもの調子だから」

「なるほど」

 全国区に通用する実力を持つくせに、引く手あまたのスポーツ推薦枠を蹴って正攻法で公立高校に入る人間だ。主将という立場にある以上、()(もん)の目さえなければ自身の実力の更に上を志向する特訓くらいは平気でやりかねない。

「九条さんがいらっしゃれば、練習のレベルも上がって、きついのを承知で来てる人たちのやる気にも(こた)えられると思うんです」

「残念ですが、僕は右利きとして剣を()るわけにはいきません」

「・・・?」

 即答にしても唐突な理由に首を(かし)げる日名子に、廉はばつが悪そうに言葉を()ぐ。

「僕が自身に課した誓約です。わがままと思って見過ごしてください」

 それを聞いて、日名子も微苦笑で追及をあきらめた。

 剣道のルールでは、竹刀の握りは右利き優先。左利きでも、右手が上で左手が下になる。自身の誓約がそれと対立するから競技自体に参加しないという論理は、九条廉の理由としてであれば納得できる。

「九条さんって、自分のルール最優先で動きますからね」

「すみません」

「いいですよ。わたしもそれくらい頑固に生きられたら、って思うことがたまにあるも――ありますから」

 崩れた敬語をあわてて言い直し、何食わぬ顔で言葉を続ける。横目でうかがった廉の横顔には今の失敗に気付いた様子はない。

「――今のは、ちょっとわたしの希望で、後は久我先輩の分。九条を呼んでこい、ってさんざん言ってましたから」

 とたん、廉の表情が渋くなる。

「まだ僕を追いつめる気ですか」

 対して、日名子は首をかしげる。

「久我先輩は、九条さんに負けたって言ってましたけど。確か「消える魔球」ならぬ「消える魔剣」がどうとかってムチャな話と一緒に。でも実際、負けたと思わない限り、リターンマッチにこだわりませんよね?」

「試合に勝って、勝負に負けた。そういうことです。客観的にどうあれ、僕にとっては負けなのですよ」

「・・・よくは分かりませんけど、深そうな話ですね」

 詳しく聞けないということは、話したくないのだろう。あいづちを打って、日名子は話を切り上げた。

「まあ、一応は誘ったし。先輩への申し訳も立つかな」

 呟いた矢先、廉の姿勢が傾いた。

「く、九条さんっ?」

 よろめく廉に伸ばされた日名子の手を、当人は器用にも泳いだ体勢のままよけ、一回転してしりもちをついた。

「いけませんね、ポイ捨ては」

 自分がつまずく原因となったビンを視界に収め、ぼやく廉。

「・・・あ」

 廉の反射的な動きに困惑していた日名子も、さりげなく右半身全体を遠ざけている廉の姿で、理由に思い至った。

 廉は、右腕に触られることを、極度に嫌っているのだ。幼い頃に遭遇した事故の古傷が残っているらしく、包帯が解かれた様も見たことがない。

「大丈夫ですか、九条さん」

「はい。お陰さまで」

 日名子との間に距離を保ったまま立ち上がると、廉は、コートの袖口からのぞく、包帯の巻いてある右手に視線を落とした。

 右腕の赤い呪いは、解放の言葉と収束の言葉で起動する自己暗示の制御下にある。満月の夜さえ越えれば、制御は万全と言っていいが、触るだけで脅威として発現する以上、今なら安全、と簡単に割り切れるものでもない。

 なにしろ、呪いは自身にすら及ぶ。制御が不完全な場合、頬杖(ほおづえ)をついているだけでも脱力を伴うため、自然、右腕の管理には、対象の自他を問わぬ細心の注意が、条件反射の域にまで染み込んでいる。

「――――」

 かぶりを振って、脳裏にちらついた夜を追い払い、過剰反応を()びる。

気遣(づか)いを無視してすみません」

 柔らかな物腰は普段通り。しかし、開いた間合いは明確な隔絶を示している。大抵の人間であれば、多少なりともひるんで、主導権を手放しそうなところだが、少なくとも高遠日名子は、九条廉に対して無防備ではなかった。

「うん、それじゃ以後気を付けるようにしてくださいね」

 言って、傷痕のある左目でウインク。

「はい・・・(かな)いませんね、日名子さんには」

 廉は困り顔で眉を下げると、歩みを再開した。

「ふふ、絶対に主導権を握らせてもらえないのは、ちょっとくやしいですから」

 少しくらい余裕がないと。明るい表情にふさわしく軽い足取りで、数歩だけ廉を追い越し、日名子。

 目指す校舎は、そろそろ間近だった。



 間延びした予鈴が、薄く散っていた意識を呼び戻す。

「おや、起きたな」

「・・・はい?」

 突っ伏していた机から顔を上げると、鼻先に含み笑い。

「おやおや。顔が黒いぞ九条」

「――藤宮(ふじみや)さん。おはようございます」

 見慣れた姿を認め、指摘通りに顔をぬぐいながら背筋を伸ばす。顔が黒いのは、読んだ後に枕にしていた新聞のせいだろう。

「ああ、おはよう」

 少女は、椅子の背もたれに上体を預けたままあいさつを返し、目を細めた。

「まったく、からかいがいのない。せっかく()(ぼう)が間近にあるんだ、ちょっとくらい赤面してくれないと傷つくじゃないか。なあ、大仏(おさらぎ)

 廉越しに伸びた藤宮の視線の先、教室最後列の席で教科書を眺めていた巨躯が、一瞥(いちべつ)で応え、岩のような仏頂面を傾ける。

「――ほらな。やはり九条、おまえは思春期の男子として間違っているぞ。それとも、」

 にやり。藤宮の顔に四六時中にじんでいる含み笑いが、深まった。

「お気に入りのことで頭がいっぱいかね?」

 対する廉は首を傾げるばかり。なにしろ、何を言われているのか、さっぱり判らない。

「お気に入り?」

 廉の反応に、藤宮は眉を下げ、深々とため息。

「まるで反応がないんじゃつまらん。忘れてくれ」

「はあ」

「二人そろって、脈があるんだかないんだか。まったく、不整脈どもめ」

 ぶつぶつと(つぶや)き始めたのを機に、廉は彼女から意識を離したが、不意に。

「いいか九条」

 呟きが対象を求め、真面目な響きを帯びた。

「?」

「おまえはいつか絶対困らしてやる」

 にやり。波紋の錯覚を起こさせる深い含み笑いを残し、正面に向き直る藤宮。

 後ろを振り返ってみると、大仏は先程と同様、教科書に目を落としていた。

 目と教科書との間隔は広く、当然、姿勢もよい。二メートルを超える巨躯が絶壁のごとく後続の視界をさえぎるため、彼の席は常に最後列なのだが、黒板が見えず困っているという話も聞かない。体格のみならず、視力にも恵まれているのだろう。

 視線に気付いたらしく、大仏は目を上げ、次いで教壇の方へと視線を移した。きっかり一秒後、視線が示していた教室の引き戸が開く。どうやら、注意を(うなが)したかったようだ。

 現れた担任によって、朝礼が始まった。



 チョークが、黒板をこする。

 静寂の中、時折、寝ぼけた生徒が机を突き飛ばし、携帯電話が机を内側から乱打する。

 授業につきものの騒音が、次第に弱まり、一瞬だけ途絶えた。

 昼放課を告げるチャイムが、校舎に響き渡る。息を吹き返したかのように、校舎全体が騒がしくなった。机を寄せたり、購買や学食へ走り出したりと生徒が複数で動き出す中、廉は一人。

 弁当を取り出し、コートを羽織り、教室を後にする。視界に藤宮や大仏の姿はない。昼放課の始まりとほぼ同時に学食へと走り出していったので、自分の昼食を確保している頃だろう。

 校内の活気が反響する階段を上り、一年生の教室がある三階を通過。四階はなく、屋上へ続く重い扉だけが、来訪者を待っている。

 古びたちょうつがいの(きし)みを背に見渡す屋上には、人の気配がない。北風の吹き抜ける今の季節では当然か。

「――へちっ!」

 ぐすり、喉の奥に弾けたくしゃみではみ出た(はな)をすする。

「・・・うかつだった」

 前を留めていないのでは、コートを着ている意味がない。留め金を止めつつ、給水タンクの脇に入り込む。風を避けて腰を下ろすのに手頃な段差があるのだ。

 腰を落ち着けると、右手をコンクリートの地肌に伸ばした。

 手の平で押したり、拳をぶつけたり、五本の指で表面をつかもうと力をこめたり。どんなに触っても、冷たく固い手触りは確かで、変わらない。

 ため息が漏れる。疲労や困惑、(あきら)めではなく、(あん)()。コンクリートなら、右手でも遠慮なく触れる。いかに赤い呪いと言えど、生きていないものは、殺せないのだ。

 それにしても、人間でありながら、同じ人間から離れ、石に安堵を覚えるとは――。

「なんて、不毛」

 この調子では自作の彫像を妻にした古代王(ピュグマリオン)も遠くない。低くうめきながら、絵にもシャレにもならない悪夢の幻視を追い払う。

 気を取り直して、弁当箱を包むバンダナをほどき、ふとさっき自分が入ってきた方向を向く。ちょうど、にゅっと横から生えてきた藤宮の顔と、目が合った。

「ち、ばれたか。鋭いやつめ」

 心底つまらなそうに、全身を現す藤宮。その後ろには、当たり前のようにそびえる、大仏。

「人間嫌いもほどほどにしないと風邪をひくぞ」

「嫌いでは、ありませんよ」

「ま、言うのは自由だ」

 廉の隣りに腰を下ろし、藤宮が箸をとる。そのまた隣りで、やはり大仏が箸をとる。

 結論としてくくられては言葉の返しようがなく、廉は黙って弁当箱からおにぎりを取り出し、アルミホイルをはがした。

 しばらく、アルミホイルと箸の動く音だけが続き。

「・・・相変わらず器用だな」

 カツ丼(大盛り)をかっ込みながら、藤宮。視線の先、廉の弁当箱には、きれいな三角形のおにぎりが、現在進行形で欠けているものを除いて三つ、つけ合わせには油で炒めた赤と黄色のパプリカにししとう。色使いは華やかだが、肉はない。全て廉自身の手になるものだ。

「慣れの問題ですよ。うちの場合、自分でやらなければありつけませんし」

 ついつい苦笑。足が命の探偵に家事能力はない。最近はいつにもまして外出しっぱなしなので、廉一人で行う家事はむしろはかどっている。

「分けてやるからコツだけでも教えてくれないか」

「!」

 身を乗り出してどんぶりを差し出す藤宮を、廉が大げさにのけぞってよける。

 一瞬だけ片眉を上げて首を傾げた藤宮だが、おとなしく引き下がり、もう一口どんぶりをかっ込んだ。

「悪いな。涙が出るほど肉がキライなのを忘れてた」

 一声だけ静かにわびると、再び声のトーンが上がった。

「特技の一つでも物になれば、コンプレックスも少しは(まぎ)れるからな」

 興味深げに降り注いでいた大仏の眼差しが、途絶えた。

 大仏の身長は暫定で――三ヶ月前は二センチ低かった――二メートルと五センチ。未だ成長を止めずにいる巨躯の(そば)で目立たないが、藤宮は長身の持ち主である。男子高校生としては平均的な廉と並んで立っても(そん)(しょく)なく、そのくせ座高はより低い。

 同性の中で頭一つ分高いことを気にしていることは想像に(かた)くないものの、自分から口に出すのは、本気なのか冗談なのか、見当がつかない。

 ほんの少しだけ思案して、廉は首を縦に振った。

「構いませんよ」

「よし。なら悪は急げだ。さっそく今日の放課後に」

 すかさずの変化球に、廉が首をかしげると、藤宮はぱたぱたと手を振った。

「部活なら気にするな。たぶん今日から全校の下校時間が早まる。部活動なんぞ当然休止だ、休止」

「???」

「この近所で、人体の残骸らしきものが見つかったそうだからな。そろそろ校内放送でもあるんじゃないか」

「残骸とは剣呑(けんのん)な――しかし耳が早いですね」

 にやり。廉のつぶやきに応え、藤宮は懐から携帯電話を取り出した。ぶら下がっているのは、それぞれ異なる()(しょう)のビーズ細工が二種類と、歯をむき出したギョロ目の(多分)ウサギ。後者はお世辞(せじ)にも可愛いとは言えそうにないが、所有者の独特の好みを反映しているようで、お似合いと言えなくもない。

 ウサダーというんだ。面白いだろ。と廉の視線に応え、改めて携帯電話を開く。

「ニュース速報板といってな。ネット上には耳の早い連中の集まる掲示板があるのだよワトスン君」

「は、はあ」

真贋(しんがん)は自分で見極める必要があるが、当事者の身辺から直接情報が流れてくることもあるからな。下手なニュースよりも早くて細かいぞ」

「便利ですね、そんな使い方は考えもしなかった」

 思わず、懐の感触を確かめる。出ずっぱりで連絡手段の確立しづらい家主の意向で、携帯電話は半ば強制的に持たされているのだ。電源は入っているが、無音、無振動、のマナー設定で、周囲への配慮も万全である。肝腎の発信者への配慮を忘れかけているのはご愛嬌。

「ま、便利は便利なんだが。ひねくれ者ぞろいだからな、一見(いちげん)さんにはおすすめしない」

「そう、ですか」

 食事を再開する。手元の一つを片付け、新たなおにぎりを手にとったところで、廉の脳裏を疑問がよぎった。

「藤宮さん」

「何だ九条」

「料理の話ですが、日時はともかくとして、場所と食材はどうするのでしょう」

 言われて、藤宮は手を打った。

「そういえば、考えていなかったな」

 やりとりを見守る大仏は、相変わらず無言。藤宮の反応自体、予想の範囲内なのだろう。

「考えておくさ。後のお楽しみってことにしとこうじゃないか」

 かかかかか、とカツ丼の残りを手早くかき込み、懐から取り出したティッシュで口元をぬぐって立ち上がる。

「日課があるから、また後でな」

「久我の相手ですか」

「ああ。これでも副主将だからな」

 答えて、にやり。

「九条も欲求不満がたまったら言え。相手してやる」

「・・・誤解を招きそうな表現ですね」

「ふふふ、想像力は健全に機能してるらしいな。結構だ。――行くぞ、大仏」

 黙ってうなずくお供を連れて、少女は去っていった。

「欲求不満・・・か」

 人の気配がうせた屋上に、独りつぶやく。

「たまっていないと言えば、嘘になる」

 対象を問わぬ脅威が、肩から生えているのだ。効果範囲内では防御手段などないので、誰かと手合わせするにしても、不用意な発動を恐れるあまり、間合いを空けた消極的な姿勢になってしまう。人と直接触れ合うなど、それこそ論外。鼻の下を伸ばしながら異性と手をつないで歩くなど夢のまた夢である。

 沈黙の後、廉の肩は上半身ごと、がっくり下がった。

「・・・ああ、もう。余計なことを。せっかくの食事が、おいしくいただけないではないか」

 恨みがましくつぶやきながら、残りの弁当を矢継(やつ)(ばや)に片付ける――と。

「ぐッ・・・ぅげふ、げほっ!」

 むせた。胸をひとしきり叩き、涙目で深呼吸を済ますと、渋い顔で改めて立ち上がり、屋上を後にした。



 紙パック入りの牛乳にストローなどという面倒なものは使わない。直接注ぎ口に口を付けてあおる。むせた胸のつかえが取れて人心地つくと、購買のおばちゃんに会釈して歩き出した。

 昼休みの廉は図書室に入り浸っている。

 接触に関して細心の注意を欠かせない右腕を持っていると、どうしても人間関係を限らなければならないため、いろいろな意味で欲求不満がたまりやすい。

 手っ取り早く雑念を払うには激しい運動がいいのだが、さすがに人目が気になるので、手当たり次第の読書に集中することで紛らわせているのだ。

 言葉遣いが難解な文語調になってしまい、人との会話がしづらくなるという問題はあるが、他人、特に異性への関心を、保ったまま抑え続けて暴走するよりはまだましだろう。

 一階の購買から最上階の図書室へ、特に急ぐ必要もなく、時折足を止めては牛乳をあおる。昼休み明けに体育の授業が控えているのだろう、運動着姿の生徒たちが数人ずつのかたまりですれ違っていく。

 ふと、声が聞こえたような気がして、踊り場から上を見上げた。

 目を大きく見開いた女生徒が、前のめり気味に宙を泳いでいる。伸ばされた手足の先に支えになりそうなものはない。

(踏み外したか・・・!)

 深呼吸をひとつ。

 吐き出し、吸って、つんのめるように踏み出す廉の行く手で、視界は色を失い、空気は粘度を増す。支えを失った紙パックはそのまま空中に張り付いた。

 音すら塗りこめる無色の蜜に満ちたモノクロの背景をすり抜けて、のんびりと自由落下を続けている女生徒を抱き上げて引き返し、踊り場に降ろす。ことを済ませた足で最上階まで駆け上がり、鮮やかな灰色の非常扉の陰にもたれて座り込んだ。廉を追いかける形で、階段の吹き抜けを暴風が一陣駆け抜ける。

 じわじわと浮かぶそばから流れ落ちる汗は、半分ほどが湯気になって立ち昇る。深呼吸を繰り返して息を整える中、鋭さの残っていた聴覚が階下から女生徒の不思議そうな声を拾い上げた。少し無理して急いだ分、姿は見られていないはずだ。

 常人の動体視力を凌駕する、暴風の挙動。それは月夜からもたらされた。

 月が満ちるごとにうずく右腕は、まず最も身近な廉に牙をむく。生命そのものを吸い上げられる極限状況に、肉体は生存を渇望かつぼうし、設計限界を無視して全能をしぼり出す――俗に言う「火事場の馬鹿力」である。月ごとにそれを引きずり出されていれば、自分の意思で駆動する「人間離れ回路」の形成はもはや必然だろう。

 軽くきしむ肺を押さえて汗をぬぐった廉は、のどの渇きを覚えると共に手元に寂しさを覚えた。

「・・・あ」

 牛乳パック。階段を駆け上がるときに放り出していたのだ。

 助けた当人と顔を合わせるのは気まずいので、取りに戻るわけにも・・・と寂しい手を眺めて考えをめぐらせたところで、廉は客観的な事実に気付いた。

 この手についさっきまで、何を触っていただろうか。人・・・女生徒。つまるところ異性である。廉の頭に、瞬間的に血が昇った。(とっさに気が付かなかったけどあれって女の子だよなってことはうわどうしようお姫様だっこしちゃったよ僕そんな通りすがりなのにでも助けたことを口実にお近づきになれば最初から好印象だろうから結果オーライ付き合えるかも付き合いから先に進んだ男女って何するんだろ何ってやっぱりナニいやそもそも具体的にどんな)

「――いかんいかんいかん!」

 沸騰する妄想で過熱する頭を左右旋回強制冷却。鼻先からはみ出していた血液が猛烈な慣性を受けて少量にもかかわらず派手にしぶく。

「ふ・・・不覚」

 視界がぐらぐらするのは仕方がない。邪念を抱いた報いというものだ。懐から取り出したティッシュで床や壁をぬぐううち、頭がだんだん冷えてくる。

 そもそも、今の女生徒を助けた加速能力は、見境のない殺害能力に根ざすものだ。触れただけで死に至るような脅威に、誰が好意を持てるというのか。我ながらなんと浅ましい高望みだろう。 肩を落とすと、歩みを再開し、図書室の引き戸に手を掛けた。



 終礼の終わる間際、担任は、部活動の休止と集団下校の励行(れいこう)を告げた。

 ちょっと嬉しそうにざわめく教室の中、一足先にそれを示唆(しさ)していた少女は、相変わらずにやりと()んでいた。

「言ったろ?」

 竹刀袋と鞄とを手に、藤宮。もちろん、後ろに控える巨躯も忘れてはいけない。

「さすがですね」

「ふふふ。機嫌が良くなるからもっとほめろ」

「うん、素晴らしいです」

「ふふふ、うふふふふふふ」

(本当に嬉しそうだな)

 実際、周囲が振り返ったり身を引いたりするほど良くなった機嫌に、廉は微笑ましさを見いだしていた。

「それで、昼の話はどうなりました?」

「ああ、もう数分もすれば進展するから少し待て」

 話を引き伸ばす藤宮の眼はきらきらと輝いている。こういうとき、彼女は何かを(たくら)み面白がっているのだが――。

「?」

 ふと、廉の耳は駆け足と(おぼ)しき間隔の短い足音を(とら)えた。教室へと近づいてきたそれは、入ってくるかと思いきや、そのまま引き戸付近をうろつき始める。

「??」

「さて、帰るか」

 視界外の挙動不審者を振り返る廉を見て、藤宮は大仏を従え歩き出した。

「藤宮さん?」

「何してる、九条。さっさと来い来い」

 巨躯の陰から、顔をのぞかせる。

「掃除の邪魔だろ」

「はあ」

 とりあえず後に続くと、見慣れたフライトジャケットが藤宮の前にいた。

「待ってたぞ、高遠」

「あっ、藤宮先輩こんにちは――って、待ってた?」

 きょとんとした顔で問い返す日名子の視界に、廉の姿が入る。

「九条さんっ」

「日名子さん?」

 もの問いたげな廉の視線は、背中で弾かれた。

「まあ、歩きながら話そうじゃないか」

 半数が状況を飲み込めないまま、四人そろって歩き出す。

「そうそう、高遠」

「ん? なんですか、藤宮先輩」

「脇で待っててもあんまり意味ないぞ。九条は行く先しか見ずに歩くからな」

「なるほど、言われてみればそうですよねぇ」

 言葉をそのまま受け取り、思案顔でうなずきながら一年の下駄箱へと向かう日名子の後ろ姿を見送り、藤宮は渋い顔。

「つついてるんだから、少しくらいは動揺してもらいたいもんだ。なあ、大仏」

 こくり、と傍らの巨躯。 時刻としてはさほど遅くないものの、空は既に赤く焦げついていた。残照を受けて伸びる三つの影に、残る一つが加わり、並んで動き出す。

「さっきから話してたんだが、今日、材料費はワリカンで夕食の自炊をしようと思ってるんだ。乗らないか?」

「急な話ですね・・・、まあ、門限さえ守れればわたしも参加したいですけど、場所はどうするんですか?」

 廉の抱いた疑問を繰り返す日名子。

「そこで高遠に相談が――」

「ご、ごめんなさい」

 言わんとするところを察したのだろう、日名子は即座に頭を下げた。

「いくらなんでも今日さっそくは無理です」

「やっぱりそうだよな。ちっとばかし短絡(たんらく)的だった。急に悪かったな、高遠」

「いえ、まあ、元々うちは道場だし、昔は住み込みの門下生さんたちもいたし、(ちゅう)(ぼう)も広くて、知らないお客さんは珍しくないんですけど、いきなり複数は・・・その」

 ちらちらと横目を走らせながらしどろもどろに語尾を小さくしていく。原因はというと、話を聞いているうちに含み笑いを深め、今やあふれんばかりにたたえている藤宮。

「あの・・・藤宮、先輩?」

「いや、楽しいな。場合によってはちゃんと意識するのか」

「はい?」

「招く分にはやぶさかじゃあないが、余計なのはお呼びでない、と。ふふふ、野暮(やぼ)なマネをしたようだな」

 話に置いてきぼりを食った形の廉と大仏を振り返る。

「使える場所がないんで、お開きだ。さ、帰るぞ大仏」

 理解しかねてか首を斜めに振るお供を連れ、藤宮は足早に立ち去った。困惑のうちに長い長い影を見送った二人が、我に返り顔を見合わせる。

「藤宮先輩、いったい何が言いたかったんでしょう?」

「分かりません。彼女はしばしば僕の理解を超える」

「ですか」

「はい」

 藤宮の話題は続かず、手持ち無沙汰(ぶさた)に歩き出す。

 互いに無言、あるかないかの足音が余計に強調している沈黙をさえぎってまでは話しかける気になれず、日名子は廉の様子をうかがった。

 懐から取り出した携帯電話に目を落としている横顔は、赤い陰影を帯び、まぶしさからか普段よりも厳しく見える。

 携帯電話をしまい、藤宮の言う「行く先しか見ない」歩みを続ける廉は、今朝日名子と合流した路地にさしかかっても止まらない。

「あの、九条さん?」

「なんです?」

 ぴたりと止まり、振り返る。その表情は普段通り穏やかだ。

「ここから、九条さんの家とわたしの家とは別方向ですよね?」

「ええ、そうですね」

「そっちはわたしの家の方向ですよね?」

「はい」

「ああ、父に御用なんですね」

「いえ、残念ながら。立花さんからメールが入っていたので、すぐ動かねばなりません」

 それならなぜ、と眼で問う日名子に、廉は問いで応えた。

「送られるのはいやですか?」

「へ? ――じゃない、なぜですか?」

「部活が休止させられるような事態です。先輩の端くれとして、目の届く限り、後輩の危険は低減すべきである、と僕は考えます」

「・・・ありがとうございます」

「いえいえ。それに、日名子さんに何かあったら師範にも申し訳が立ちません」

 言葉に詰まってうつむく日名子に背を向け、廉は歩みを再開した。照れくささを振り払って追いつくと、日名子はさっそく廉に話しかける。

「今思ったんですけど、九条さんと久我先輩って、意外と似てるんじゃないですか?」

「・・・なぜです?」

「今日の部活動休止、久我先輩が「部長である自分には部員の安全を図る義務がある」って生徒会とか先生がたにねじ込んだかららしいですよ。これって久我先輩のルールですよね」

「なるほど・・・確かに彼も自身の流儀を通していますね」

 苦笑いしながら、廉は足を止める。

「さ、着きましたよ」

 顔を上げる日名子の視界を、古びた武家屋敷の門構えが占拠した。「高遠」とこれまた古びた木の表札の脇には、剣術の道場であることを示す大きな看板がかかっている。聞くところによると、古くは大名の剣術指南役も務めていた家らしい。

「ありがとうございました、九条さん」

「はい。師範によろしく伝えておいてください」

 頭を下げる日名子に軽く手を振って応えると、廉は足早に視界から消えた。

 廉の背中を見送った日名子の懐から、振動を伴って軽快な歌声が流れ出した。あわてて取り出した携帯電話にぶら下がっている狐のマスコットが弾み、銀の鎖がさらさらと音を立てる。

 通話ボタンを押しながら、発信者の名を確認。

「もしもし、(よう)ちゃん?」

 相手の声を聞くなり、日名子の表情からは生真面目な印象を演出する緊張感が消え、入れ代わりに、歳相応の弾けるような笑顔が咲いた。

「久しぶり~! うん、いいよ、大丈夫。ちょうど今日は部活がなくてさ」

 携帯電話を片手に、空いた肩で門を押し開ける。

「あははっ、そうなんだ~。わたしもね、うん、それ!

」 既に空の色は赤を越え、紫が色濃い。そろそろ、濃紺の(よい)が訪れる頃合いである。



 パソコンのモニタと、肥満体のバインダーとを見比べ、キーボードを叩く。

「この様子では、日課もつぶれかねんな」

 ロングネックの黒い長袖ティーシャツと濃紺のジーンズに身を包んだ廉は、カーテンの隙間に見える漆黒を横目にぼやくと、仕切り直しに深呼吸。伸びをして、脇に用意しておいた湯飲みの冷めきった緑茶で一服。

 受けたメールは『報告書ヨロシク。』の一行きり。

 立花探偵事務所において、九条廉は助手として(やと)われる形で住み込んでおり、主にデスクワークを任されている。要する時間が長く、学生の本分を侵しかねないことから、尾行や聞き込みといった実務を手伝うことはあまりない。

 学生服から私服への着替えは、仕事に(のぞ)む際のけじめである。

 伸びをして、キーボードの脇に用意しておいた湯飲みをとり、すっかり冷めてしまっている緑茶で一服。

 以前、訊いたことがある。未成年を雇っていいのか、と。

 探偵は、他人の生活に直接関わる以上、守秘義務はより堅くあるべきである。そこに、社会人にさえなっていない者を立ち入らせて、仕事はまっとうできるのか。

 探偵は答えた。

 だっておまえ、わがままだろ。

 いわく、わがままとは自分のルールで動くこと。自身の基準を最優先する人間は、外的要因に左右されないため、味方にすれば、いかなる契約よりも信頼できる。

 プロに歳は関係ない。保証してやるよ。

 そうして、探偵助手・九条廉が生まれたのだ。

「あれは嬉しかったな。さて――」

 空になった湯飲みを置き、改めてモニタに向かう。

 調査を終えた件の最終報告書はあらかた出来上がっている。残る仕事を()いて()げれば、現時点で判明していることをまとめた中間報告書の作成くらいか。

 背表紙に「進行中」と書かれたバインダーを取り、目を通す。

 身辺調査に()せ物捜し、ストーカー対策に痴漢撃退、広いようで意外と狭い探偵の仕事の幅が、最近は更に狭まっているようだ。飼い猫捜しや妻の浮気相手の調査といった、普段の主流が添え物になり、人捜しの依頼の割合が増えている。

 ふと、眉がひそめられる。

 人捜しの調査記録の中に、奇妙な目撃証言がある。

 赤い何か。

 捜査対象である人物が最後に目撃された地点の付近で、一瞬だけ目撃されたものだ。

 一瞬の出来事に関しては目撃者の憶測が混じる可能性が高く、鵜呑(うの)みにすべきではない、とも書き添えてあり、夜という時間帯、目撃者が当時酔っていた可能性を踏まえ、信憑性に疑問を呈しながらも、情報の一つとして確保しておく姿勢はさすがプロのものだった。

(赤い・・・何か)

 証言を要約すれば「形の不明瞭な赤い発光体を夜の街で見た」である。怪しいことこの上ないが――何か引っかかる。

(まずいな)

 気分を切り替えようとはしたものの、作業は結局、大幅なペースダウンを経て完了した。

 最低限仕上げておく必要のある分をまとめると、作業の完了と外出の(むね)を伝えるメールを打ち、事務所を後にする。

「まさかとは、思うが・・・」

 無意識に堅く握りしめていた右手で、包帯が(きし)んだ。


(第一話・了)

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