黒の皇子様は戒めがとけ、ない
皇子様視点です。
一部文章がおかしかったので修正しました。
起きると同時に、夢は虚ろになって消えた。残るのは何か取り返しのつかない間違いを犯してしまったような落ち着かない気分だけだった。轟く雷鳴のせいだろうか。アルコールを煽って漸く掴んだ眠りは呆気なく終わった。外は未だ常闇で、吹き付ける風は生者を怨む幽鬼の声にも似ている。
額に手を当てると、汗をかいていた。この離宮に、彼女がいる。もう寝ているだろうか。それとも僕と同じように頼りない睡魔を待っているのだろうか。
最後に見た彼女には似合わない儚げな笑みが瞼の裏にちらついて、思わず舌打ちした。彼女は蓮っ葉で軽薄で自己中心的で快楽主義者だ。僕の嫌う典型的な女だ。苦労を嫌い努力を厭い、義務からは逃げ出そうとする唾棄すべき人格だ。到底好意を寄せていい相手じゃない。それなのに。
欲に塗れているくせに、欲に溺れない。強すぎる自己愛に、強すぎる他者愛。時折熱に浮かされたように僕を求めるくせに、僕の愛は求めない。彼女はどこか歪で、不均衡だ。
もとより彼女を利用するために近づいた。王太子の子飼いの少女。捕まえて無理やり指輪の在り処を、王太子の情報を吐かせても良かった。けれど僕はそれを選択しなかった。寝返らせて二重間諜として使えばいいと。なのに、甘く囁いて口説き落とそうとしても飄々と彼女はそれを躱す。掴めそうで掴めない。それが、苛立たしさを増す。
報告にあったリリアン王女の変貌に早いうちから影武者を疑っていた。影武者だろう彼女が以前より密に王太子と会っていたことから恐らく首謀者は王太子だという事が推測された。王女を僕から遠ざけ、アリアンナを僕に頻りに引きあわせる態度から、彼は国王とは違う企みがあったのだろう。
そして仮面舞踏会の夜に王女と娼婦のリンが重なって見えた時に、確信した。図ったように翌日から病に倒れ面会も叶わぬ王女。僕は、指輪のために行われていたリンの捜索を強化させた。
城下で見つけたリンは、果たしてあの夜のリリアン王女だった。本名をリーンベルという平民の少女。戸籍に不審な点はなく、親族と共に暮らしている。恐らくはその容姿から、影武者として見出されただけの少女。
王太子は国王とメガンの繋がりを断ちたかったのだろう。リンを使って時間稼ぎをし、王から本物の王女を隠した。そして僕とアリアンナの恋物語を利用し王の翻意を期待した。
なんとも腑抜けた継承者だ。そんな回りくどい事をせずとも、王を廃すればよかったのだ。帝国を裏切ったという正当な理由を明らかには出来ないのだから、彼にも苦悩はあっただろう。
けれども国を、民を思うならば父殺しと詰られようとも簒奪者と謗られようとも彼は成し遂げなければいけなかった。己の名誉を評判を犠牲にしなければならなかったのだ。離れた民意はその後の治世で取り戻す機会などいくらでもあるのだから。
しかし全てはもう遅い。昨日やっとウェミンスター公の屋敷からメガン王との往復書簡が見つかった。両国の王の印章が押されたそれは確固たる証拠だ。すり替えた上で盗み出したそれは、帝国の親スーリュア派を頷かせるのに充分だ。
あとは舞台を整えればいい。正式に同盟に調印し、帰国後直ぐさまスーリュアに引き返すように攻め入る。皇太子の出迎えと皇都まで婚約祝いのパレードを行う名目で東の国境沿いに兵を集めるよう指示は既に出した。メガンと同時に起兵などさせない。速やかにスーリュアを落とし、そしてメガンに集中する。
調印は婚約の儀で行われる。本物のリリアン王女がいなくともリンがいれば事足りる。怪我を負って記憶を無くしたリリアン王女らしき女性を偶然にも城下で見つけ、確認のため交流するうちに記憶を取り戻し保護した、ということにする。
実際彼女はリリアン王女として国王とも会っている。そして王太子も自身の行動が露見する事を恐れれば彼女を影武者だとは告発できまい。調印がすめば帝国へ帰還する。それで全ては終わる。
リンは背景を何も知らないのだろう。逢瀬中に部屋を探させたが、指輪は見つからなかった。入浴の際に侍女に確認させたが、身につけてもいなかった。本人の言う通り王太子の手に渡っているのだろう。
成人の折にジュールに贈られた品だったが、今は仕方ない。王太子からは必ず取り戻す。スーリュアに利用されないように手は打ってある。未だどこからも使われた報告は上がっていない。
ジュール、僕より三つ上年長の従兄弟、共に育った兄であり友だった。こんな嵐の夜にはアレクとあいつと三人で朝まで飲み明かした。国の理想を語り女を語り、あの頃は僕らの約束された将来を疑いもしなかった。
僕らは無鉄砲だった。若さゆえの愚かさ、傲慢さ、己の能力を過信し、万能感に酔っていた。それらは誰でも経験する過ちというには、結果払った代償は大き過ぎた。
ジュールは年長にも関わらずいつまでも少年のような男だった。喧嘩が好きで女が好きでふざけた態度ばかり、けれどもその芯は情が深く、よくよく女と問題ばかり起こす男だった。あいつと忍んで出かけた都ではしょっちゅう厄介ごとを引っ掛けてきた。
僕が16で成年を迎えた年、皇帝である父の命でメガンとの国境の砦を視察した。ジュールは国に剣を捧げたいと早いうちから騎士団に入団しており、既に正式に叙任されていた。彼を伴い、僕らは国境へと向かった。
メガンは帝国の頭痛の種だった。国境付近の諍いは絶えない。かと言って現状では攻め入るほどの旨味もない。国土は広くかつては大国であったが、今は荒廃している。愚かな王は享楽にふけり治水を怠り街道は荒れ、仮に併合したとして負の遺産になるのは目に見えている。
監視櫓から見たメガンの村は哀れだった。やせ細った子供達に、覇気のない大人。棒切れのように手足は細いのに、腹部が膨満しているのは栄養失調症の典型的な症状に見えた。僕はその光景に胸を痛めた。
「僕は、あの者たちも救いたい。彼らも救われるべき民たちだ。」
「お前は優しいなぁ。」
思えばそれこそが過ちの始まりだ。僕は帝国の皇太子であって、守るべきは帝国の民。決してメガンの民ではなかったのだ。それからたった半年後、ジュールは物言わぬ屍で僕のもとに戻ってきた。
ジュールは農民の少年に殺されたそうだ。彼の剣は抜かれていなかった。ジュールは強い。それなのにあいつはなぜか剣を抜かなかった。何を躊躇ったのだ。僕は間違えた。メガンは敵国だ。メガンの農民も敵だ、少年と言えど殺すべき敵だったのだ。行き場のない怒りが鬱積して、頭がおかしくなりそうだった。
もしも僕があの時あんな事を口にしていなければ、ジュールは砦になど行かなかった。こんな白いカーネーションに囲まれたジュールを見ることはなかったのだろう。僕らは愚かだった、傲慢だった。己を過信しすぎて何かを失う事など考えもしなかった。
ジュールの国葬で僕は誓った。この国のために剣を捧げたいと言ったジュールに誓った。僕は帝国の皇太子だ。僕の生涯はこの国に捧げよう。義務と責務を決して放棄しない。慈悲の心などいらない。ただただ帝国のために。卑怯な手を使ったっていい。非道と謗られてもいい。全ては帝国の安寧のために。僕の行動原理は、これからもそれだけだ。
それなのに、彼女の屈託のない笑顔を見ると酷く心が騒つく。彼女との会話は軽快で小気味好い。僕には到底受け入れられない価値観が、何故か僕の心を軽くする。何も求めないくせに、その手はその唇は僕に惜しみなく暖かさを与えてくれる。
これは愛じゃない。愛ならば、僕は今夜リンをここへは連れて来なかった。利用することも脅すことだってしなかったはずだ。彼女は帝国に何も利を齎さない。側室にするには身分がない。僕が愛すべき人間じゃない。
「…とっとと抱いておけばよかったんだ。」
身体を暴いてしまえば、肉欲を満たしてしまえば、興味も、この訳のわからない執着じみた感情も薄れただろうか。何故か、そうはならないだろうと確信している自分がいた。僕は彼女と過ごした時間を手放すことを惜しく思っている。…そうだ、何を躊躇っている。愛などなくても、側に置くことはできる。欲しいのならば手を伸ばせばいい。
リンは、僕のものだ。彼女は賢明な選択をした。スーリュアは滅ぼす。彼女の飼い主だった王太子は消す。そして彼女にはどこか家を用意して囲えばいい。皇宮の地下に隠したっていい。あの夜だけ金色に煌く瞳は誰にも見せるつもりはない。
首輪を作ろう。誰にでも尻尾をふる多情な猫が、どこにも逃げないような。身に余る贅沢を与え、奪ったもの以上のものを与え甘やかせば、僕の隣こそが彼女の終の住処になる。愛以外の幸福を与えて、また二人あの日々を送る。
僕には特定の相手はいない。今後我先と貴族たちは娘を後宮に寄越そうとするだろう。それらを断るつもりはない。国の利になる相手ならば迎え入れるし、平等に愛する努力をする。
全てが終われば、また再度正妃選びをしなければと思うと気が滅入る。今度こそ聡明で、弁えた人物でなければならない。ふと無邪気な妖精と呼ばれる人の笑みが浮かんだ。彼女は悲しむかもしれない、そして僕を恨むかもしれない。そう思っても動かないこの心は、本当に誰かを愛することが出来るのだろうか。




