リンは皇子様を誑かすことに、した
皇子様は馭者にゆっくり適当に走らせてくれって指示を出す。正直あたしの頭は今パニック状態だ。まずいまずいまずい。かなーりまずい。
この人、あたしがリリアン王女だって気付いちゃうよねぇ?馬車の中は暗いし、今のあたしは地味化粧。あの日の夜会仕様の化粧は盛り盛りだった。髪も雰囲気も全然違うけど、皇子様なら気付いちゃう、気がする。
表向きリリーは塔に隔離されて治療中なんだから、ここにいるのがバレたら超まずい。もうさっきまでの酔いなんて一気に醒めちゃったよ!
「そんなに怯えないで。取って食おうとしてるわけじゃないから。ただ聞きたいことがあってね。」
聞きたいこと…?君はリリアン王女なのかいってこと?伺うように見るあたしと対照的に、皇子様はご機嫌良さげでニコニコしてる。
「あの日、君と会った夜に落し物をしてね。何か拾わなかった?」
ああ。シグネットリングのことか。確かにあたしが拾ったけど。きょとんと首を傾げて知らんぷりする。
「えと…何を落としたの?」
別にあたしが拾ったって返してもよかったんだけど、なんか返したくなかった。なんでか説明出来ないけど、なんか嫌だった。それにあの指輪は中々に役に立ったんだ。返すのは惜しい。
「いや、知らないならいいんだ。そう言えば、君のお店の名前ってなんだったっけ?」
ぎっくーり。
「…あたし、あの日自分が娼婦だなんて一言も言ってないよ?」
今度は皇子様がきょとんとした。
「お兄さんと仲良くなりたかっただけなのに娼婦って聞かれてちょっとからかっただけ。本当は娼婦じゃないし…怒ってる?」
そうそう、勝手に勘違いした皇子様が悪いんであって、あたしは悪くないもん。
「…確かに僕の勘違いだったかもしれないね。じゃあリンは何をしてる子の?」
「ふつーにしがない花屋の店員だけど。どうして?」
あたしを探したって本当にシグネットリングのためだけに?なんであたしのこと知りたがるの?
「どうやら僕は君に一目惚れしたみたいでね。好きな女性のことは知りたがるものだろう?君も僕に興味を持ってたと思うんだけど、それももしかして勘違いかな?」
嘘くさーーー!いや、素晴らしい笑顔なんだけど。完璧なポーカーフェースで読みにくいんだけど。でも、これは絶対に嘘でしょ。
「…お兄さんの顔は確かに好みだけど、あたしお兄さんの名前も知らないよ?」
「ガルスだよ。ガルって呼んで?これからもっと知り合えばいい。」
いやいやいやいや、今のあたしはあなたに関わるのはリスキーなんです。なんなの、この人。あんなに夜会でアリアンナちゃんとラブラブだったじゃん。そんなにあたしのキスに中毒性があったの?
あたしが押し黙ってると、皇子様は対面からあたしの隣に移動してきた。左手を取られてさわさわされる。ちょ、指の間はやめてってば。醒めた酔いが復活したみたいに、身体に熱が巡る。
「まずは手っ取り早く身体で知り合ってみる?」
なにこのエロエロ皇子様。耳元で囁かれるエロボイスが腰にくる。
「あたし、本当に好きになった人としか一線は超えない信条の持ち主だから!」
頭が回らなくて馬鹿なことを口走っちゃう。なにそのあたしからかけ離れた信条は。皇子様も一瞬止まったのちくすくす笑いだすし。見た目よりも柔らかな髪があたしの頰をくすぐってムズムズする。
「あんなに熱いキスをした仲なのにつれないね。」
確かにあのキスはよかった。腰に回された手の動きに流されてもいいかもなんて思っちゃうけど、ダメだダメだ。
「…あたしのこと、好きだって言うなら大切にしてよ。」
「もちろん大切にするよ。毎日デートしよう。残念ながら昼間は時間が取れないけど夜なら会いに来れる。」
断ろうと口を開いたところで皇子様に口付けられた。うなじに回された手で押さえられて身動き出来ない。皇子様の高貴な舌で縦横無尽に口の中を好き勝手される。いっらー。
「っ」
ガリリと噛んでやれば、弾かれたように皇子様が離れた。口に残る鉄の味が気持ち悪い。
「大切にして、って言ったでしょ。」
皇子様は親指で口端の血を拭うと笑った。けど、その目はあたしを射抜くように鋭い。拒否は許さないって言ってる。彼はあたしを逃す気はないようだ。多分これ以上抵抗しても無駄なんだろう。どうやってもあたしを捕まえるだろう。彼の望むままに。
皇子様の考えてることがちっとも分からない。けれど、あたしには彼の意のままになる気はさらさらないし、そんな義理だってない。何を企んでるのか知らないけど、彼から逃げられないならあたしが出来ることはひとつだけ。
…全力で誑かしてやる。あたしの足に縋り付いて涙をこぼしながら愛を請わせてやる。
あたしが案内してもいないのに、馬車は花屋の横に止まった。皇子様は毎日これくらいの時間に迎えに来るそうだ。送ってくれた礼をする気もなくて、馬車を降りてあたしは振り向きもせず外階段から三階へ登った。
「帝国の皇太子様の情報、とな。」
翌朝あたしは王都の東外れにある教会にいた。ジェイクさんと朝食を済ませた後、駅馬車に乗って向かったのだ。
「そうそう。お爺ちゃんなら長生きしてるし色々知ってそうじゃない?」
あたしは城下で生活しだしてからすぐにダナルゲイドお爺ちゃんに会いに行った。キリアンとの連絡の取次をお願いしに。
王女様の家出にお爺ちゃんは大笑いした。そしてキリアンにあたしの所在を知らせてくれた。今日はキリアンがこの教会に視察にやって来る日だ。
お爺ちゃんの司祭室で紅茶をいただく。王城のものより劣るけど、なかなかに美味しい。
「リリー様も恋する乙女ということでしたか?」
お爺ちゃんは飄々として皇子様情報を語った。彼は帝国の第一皇子で弟が二人いること。皇子様の評判はよく、次代の皇帝として期待されていること。民の評価も高い。あとは寵妃はいない、ということ。
「皇帝家族については何か知ってる?例えば皇妃との夫婦仲。」
「二人おられる弟皇子も同腹ですし、他に子がいるとは聞きませんなぁ。円満ではないかと。」
うーん。敵を落とすにはまずは弱点を知ることから、なんだけど。愛されなかったトラウマだとか、人間不信女性不信とかあるならそれを取り除いてあげれば大抵心酔してくれる。皇子様にはそういうのはないのかな。
「皇子様の身近で誰か若くして亡くなった人は?非業の死を遂げた人物とか。」
貴族の葬儀や婚姻には聖職者が立ち会う。基本的に下位の聖職者は各地の教会を転々とする。彼らの所属は公国になるから王国帝国問わず配属されるのだ。
「身近、ですか。何年か前に傍流の皇族が亡くなったと聞きましたな。騎士として有望な若者でしたが、メガンとの国境付近での諍いで命を落としたと。」
「高貴な身分なのに、戦に出たの?」
「帝国のものは武勇を尊びますから。国葬で弔われたそうですが、皇太子様は酷く憔悴されていたと聞いた覚えがありますぞ。」
やっぱりお爺ちゃん、さすが元首座総司教だけある。今も聖職者うちの人脈があるのだろう。若くして国のために散った友人、ね。
コンコンと扉がノックされ、助祭君がお爺ちゃんを呼びにやって来た。これから色々仕事があるんだろう。あたしはのんびりしてていいって言われたからそのまま司祭室で過ごすことにした。
一人になった部屋で、することもないから本棚の本を手に取る。ほとんどが宗教関係の本だ。宗教史に宗教学、聖書の解釈解説本。どれも読む気がしない。適当に手に取った一冊を戻そうとした時、重厚な背表紙だらけの棚からは明らかに浮いている日焼けた絵本が奥に見えた。
一匹の迷子の子羊という題の絵本だった。愛に溢れた羊飼いが群れから離れた荒野を彷徨う一匹の子羊を探す話だった。そういえばキリスト教にも似たような話があったなと思う。100匹の羊をもつ羊飼いが野原に99匹の羊を残し、見失った1匹を探す話。
あたしはこの羊飼いを愚かだと思う。どうして野原に99匹の羊を残し、たった1匹を探しに出れるんだろう。羊飼いにとって特別なのはたった1匹だったのだろうか。これは神様の愛についての説話なのだから、人間の愛とは違うのかもしれないけど、あたしは羊飼いが嫌いだった。
リリーだってそうだ。皇子様への愛に身を焦がして自死を選びサーシャの愛を、母の愛を裏切った。国王もオリヴィエを、その娘のアリアンナちゃんだけを愛し、母を愛さなかった。あたしは盲目までに一人だけを愛する人を恐ろしく思う。そして、哀れに思う。
春は本番で、東に誂えた窓から陽光が差し込んでくる。昨日あまり眠れなかったから、とても眠い。絵本を広げたままソファにもたれて、あたしは心地よいぬかるみの中にすとんと落ちるように眠った。




