リリーは気に入りの美男は見捨て、ない
困った。非常に困った。別に皇子様のことじゃない。あたしはまださっきの路地にいる。一旦通りに出てはみたんだけど、さっぱりここがどこか分からなかった。
ぐるぐる回ってたからどこから乗合馬車に乗れるのかもてんで分からない。どんどん日は暮れるし、あたしのサーシャが角が生えて鬼になっちゃう。
それにしても、皇子様もやっぱり男なんだねー。アリアンナちゃんが好きでも身体は別ってことか。確かに、アリアンナちゃんとは致せないもんね。健全男子なら致し方ないことだ。うんうん。
こうしててもしょうがないからもう一度通りへ出ようと足を進めたところで、何かをこつんと蹴飛ばした。
屈んで拾ってみると指輪だった。金の土台に彫刻の施された大きな翡翠が嵌め込まれてる。これって…シグネットリング、だよね。封蝋とかに使うやつ。彫刻は精巧な6枚の羽根だった。皇子様のだ。
あたしが昔に貰った手紙に押された封とそっくり。こんな大事なもの落としてくなんて、皇子様ってば以外とうかつ?可愛い。
どーしよーかなー。あたしを蔑ろにした罰として貰っておこうかな。キスをやり返されてちょっと翻弄されたのも悔しいし、そうしよう。精々困るがいい。
「おねーちゃん、いつまでそうしてんの?」
急にアルトの高い声で話しかけられてビクリとする。顔を上げればそこに居たのは小学生高学年くらいの少年だった。
「えーと、おねーちゃんってあたし?」
「それ以外に誰がここにいんのさ。俺、早く帰って夕飯食べたいんだけど。」
さっぱり話が掴めなくて首を傾げちゃう。
「だから、ダナルゲイド司祭に頼まれて、俺、今日1日おねーちゃん見てたの。早く帰ろーぜ。」
なんと。この少年、もしかして1日後をつけてたってことですか?…少年には刺激が強いとこもあった気がするんだけど。まあいいか、うん。天の助けだ。お爺ちゃん、ありがとう。
王都は俺の庭だって豪語する少年ーーテト坊に先導されて教会まで戻った。ちなみにもろもろの口止めとして硬貨を何枚か握らせといた。テト坊はとても少年には見えないあくどい顔でおかわりを要求してきた。くすん。
もう既に夜二つ目の鐘はなっている。お爺ちゃんにまた遊びに来るって挨拶して、あたしはタペストリーの裏に潜った。息を切らしながら走って帰った。ちょっと足の裏が痛くて、豆が出来てるかもしれない。
旧礼拝堂の地下階段まで来たとこで、耳をそばだててみた。人の気配はしないようだ。そろそろと外に出た。
「…おかえりなさいませ。リリー様。」
床を元に戻してると背後からこの上なく不機嫌そうなサーシャの声がした。恐る恐る振り向くと。
何故か、アベル君が、いた。サーシャの後ろで腕を組みながら、こちらも不機嫌そうな顔だ。いつも穏やかな笑みを浮かべる彼にしては非常に珍しい表情だった。
「どちらに行かれていたのか、お聞かせ願えますね?リリアン殿下。」
サーシャは肩をすくめてその目で諦めろって訴えてきた。くそう。
染粉は髪を傷めるから早く落としたくて、アベル君には応接間で待ってもらってお風呂に入った。
どこまでバレてるかなぁ。ヘンリーのこと、バレてなきゃいいけど。ヘンリーは騎士だ。仕事中にあたしに必要以上の視線を投げてこない。隠し通すだけの精神力がある。いくらアベル君が目敏くても、バレてないはず。
まあ大丈夫だろうと楽観的に考えて、お気に入りの夜着を着る。上からシャンパンゴールドの薄いガウンを羽織って応接間に行く。立って待っていたアベル君にソファを勧めて、向かい合って座った。
あたしは夕食がまだだから、サーシャに軽く摘めるものをお願いした。これでアベル君とつかの間二人きりだ。
「リリアン殿下、どちらに行かれていたのですか?」
アベル君がさっきと同じ質問をする。答えた内容はきっと報告されるんだろう。そう言えば、アベル君の上司って誰だっけ。報告相手は騎士団長さん?そこから更に誰に報告が行くのかな。最後は国王だよねきっと。聞いてみよう。
「あたしが答えたとして、アベルは誰にそれを報告するの?」
アベル君は右上をちらりと見てから、もちろん上司である近衛騎士団団長に報告をしますよって言った。
嘘だ、てすぐ分かった。だって今の表情、浮気を誤魔化す時の表情にそっくりだったからだ。何か疚しい事を隠す時のものだ。
あたしがその表情をしないようにどれだけ努力したか。人間、急に嘘をつくと言うのは中々難しいんだ。
「え、どうして嘘をつくの。…誰に報告するの。」
アベル君、どうして嘘をつくの?上司以外に報告する相手がいるってこと?あたしアベル君結構好きなのに。アベル君はあたしの敵ってこと?こんなイケメンに裏切られるとか、泣きたい。もう今日は疲れたよ、あたし。
「…リリアン殿下は大層変わられましたね。先に私の質問に答えて頂きたい。どちらへ行かれてたのですか。」
なにこれ。浮気してるの?って詰め寄る恋人にお前こそ浮気してるんだろう!って返す男並みに下らないやり取りじゃん。もういや。
「王都に降りて、あたしの噂を聞いてきたの。あとは街をぷらぷらして、それだけ。」
「あの抜け道はどこに繋がっているんですか?」
「王族の秘密だから教えられない。」
あたしたちの間の空気が冷えて、嫌な感じだ。そこにサーシャが戻ってきた。野菜がたっぷりのサンドイッチと、ミルクティーを淹れてくれた。困ったときのサーシャ頼りだ。
「サーシャ、アベルはあたしのことを上司以外に報告するんだって。相手は誰だと思う?」
「私はあなたの専任騎士です…!裏切るようなことはしておりません。」
ほらまた嘘。サーシャは少し考えて答えた。
「…失礼ながら一番可能性があるのはアベル様の御実家グルーブリーブ侯爵家、ではないでしょうか。」
グルーブリーブ侯爵家。文官の最高峰、宰相さんを度々拝する名家だ。アベル君は確かそこの次男だったな。宰相さんに報告をするってこと?でも宰相さんって国王の一番側近くにある人だよね。全ての情報は結局国王の手元に行くんだし、そこで分かるよね?意味なくない?
「そのような事実はありません。」
アベル君は頑なに認めようとはしない。指先まで真っ白だ。これ以上は無駄だろう。一応無駄だとは分かってるけど、言っておいた。
「あなたがあたしの専任騎士だって誇りを持って言えるなら、今日のことは上司にも誰にも報告しないで。」
「…御心のままに。」
さて、アベル君が退出してあたしは絨毯に正座した。サーシャのお説教を覚悟したけど、意外にもあまり怒られなかった。それよりも心配したんです、と涙目で言われて罪悪感があたしをグサグサ苛む。本当にごめんなさい。
やっぱり足には豆が出来てて、サーシャに軟膏を塗ってもらった。優男風なアベル君の手も豆だらけタコだらけで騎士の手なんだよなぁ。
「アベルってさ、筋肉付きにくそうな身体してるじゃない?」
「はぁ。」
「実家も文官の家系だし。だから隊長っていう立場になるためすごく努力したと思うんだ。努力するほど、騎士になりたかったはずだよね。そんな人間なら騎士の誇りがあるよね。なのに主を裏切るってさ、よっぽどの弱みでも握られてるのかな。」
「リリー様は彼の裏切りを確信してらっしゃるのですね?」
「うん、間違いない。」
でも何か理由があると思ってる。どうしようもない理由であんなイケメンが苦しんでるとしたら、世の損失だと思うんだよね。助けてあげたいって思っちゃうよね、だってイケメンなんだもん。
「弱み、かどうかは存じませんが、彼は侯爵家次男とはいえ庶子の出にございます。現当主は彼の年の離れた異母兄ですね。」
「現当主って確か今の宰相の…。」
「カイン=グルーブリーブ様ですね。」
…カインとアベルって、悲劇の泥沼兄弟の代名詞じゃん。