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リリーは死ぬことに、しない

嘔吐表現あり。ご注意下さい。

 重厚な棚の一番上、右端にあるくすんだ金色の背表紙の本を奥にぐっと押し込めばカチリと音がした。燭台を片手に棚を渾身の力で押す。ズズズと棚が動き、真っ暗な空間を炎で照らせば地下に向かう階段が現れた。


 慎重に一歩一歩を踏み出す。所々に見える黒い染みは数多存在する先祖のうちの誰かの流した血なのだろうか。目の端に捉えながらも、直視する勇気はなく震える足でそれを避けて降りて行った。


 ああ、これであの方は幸せになれる。わたくしに初めての愛を教えてくれたあの方。自分がこれからする事は母を裏切ることになる。けれども、この愛にわたくしは抗えない。


 幼い頃よりわたくしは凡庸だった。ただ王妃腹の第一王女という事だけがわたくしの価値であり、特筆すべき才は何もなかった。父である王はわたくしに興味を示さず、早くから近隣諸国との政略結婚のための駒として存在していた。それはそうだ。同母の兄は優秀な王太子であり、弟も将来兄の右腕となるほど優れた能力の持ち主だ。そして異母妹は王の唯一愛した側妃の忘れ形見であり、類い稀な容姿に聖女のような性根の持ち主だ。王は彼女を殊更溺愛している。国から出すつもりはなく、国内の有力貴族に嫁がせ常に会えるよう側に置くつもりなのだろう。


 わたくしだけだ。わたくしだけが、直系王族の中で血統以外の価値がない。けれどもそれでもよかったのだ。あの方に会えたから。父に目を留めて貰えなかったからこそ、わたくしはあの方の婚約者になれたのだから。むしろわたくしは自らが凡庸であることを神に感謝さえした。


 どこかでぴちゃんと水の落ちる音が聞こえ、漸く階段は終わった。手をハンカチで包み、錆び付いた扉を開ければ黴くさい小さな部屋に出た。燭台を真ん中の卓に置いて部屋を見渡す。


 ここは王族の最期の砦だ。城が落ちるような事があれば、ここに逃げ込むための。そして、敵に落ちる前に王族の矜持を持って死ぬための部屋だ。こんな仕掛けの隠れ部屋が王城には幾つかある事は成人後に王妃より知らされた。


 部屋には簡易の埃臭いベッドと鏡台、そして卓と木製の布も貼られていない椅子が二脚あるだけ。わたくしの生まれる前からもう大きな戦火はなく、ここも手を入れられていないのだろう。こんな侘しく汚いところでわたくしは最期を迎えるのかと思うと、鋼で固めた決意が揺らぎそうになる。けれどもう決めたのだ。遺書もしたため胸に忍ばせてある。


 最期くらいはと鏡台の前に座り、置いてある櫛で髪を梳く。ハンカチで軽く鏡を拭いてじっと見つめればそこにいるのは平民よりは整った造形の、王族としては凡庸な瞳だけ大きい痩せぎすの第一王女リリアン。


 ああありふれた茶色の真っ直ぐな髪だ。この大陸では平民にさえありふれた色。異母妹の珍しい朱鷺色のふんわりと緩く波打った髪とは大違いだ。


 ただ瞳だけは凡庸とは言い難いのかもしれない。平素、明るい所では黄みがかった茶色の瞳もこんな燭台一つが置かれただけの暗い部屋では何故か黄みが強くなり金色に近い色になる。王妃以外に讃えられた事はないけれども。


 わたくしは間違いなく幸せだったわ。ねえそうでしょ、リリー。あの方を思い浮かべてふわりと鏡の女性に微笑む。


 鏡台の引き出しをあけるとそこには金の杯と琥珀色の液体が入った小瓶があった。杯にトロリとしたそれを注ぐ。途端にこれでもかと甘い匂いが部屋中に舞い上がった。スーリュア王国の王族にだけ伝わる、この上なくあまい極上の夢を見せたまま天上に誘う毒薬。


 どんな夢を見せてくれるのかしら。あの方に愛される夢だったなら嬉しい。異母妹に向ける眼差しで、異母妹に向ける甘い囁きでわたくしに愛を紡いでくれる夢が見たいわ。


 千の花の蜜を凝縮したような香りに誘われ、そっと杯を口元に引き寄せ舌でひと舐めしてみる。


 瞼を閉じればあの方の匂い立つような笑みが浮かんだ。新月の夜よりも深い黒い髪に初夏の森よりも瑞々しい緑の瞳の神に愛されたかのような美しい皇子様。声も聞きたいわと夢の続きを求めて杯を傾けて一口こくんと飲み込んだ。


 そうして浮かんだのは。


 黒髪黒目の男性、茶色の髪男性、金色の髪の男性、長髪短髪、色白色黒、性格も様々な男性達がこれでもかとわたくしに愛を乞うのだ。


「え」


 思わず手から杯を落としてしまった。


『りんちゃん!君が好きなんだ!』


『りん、お前は俺の女だろ?』


『りんさん、愛してます。』


『Rin! I love you!』


『りっちゃん。俺、本気になっちゃった。』


『りん、君のためなら俺は全てを捨てられる。この命だって。』


 濁流のように記憶が身体中を巡っていく。毒薬が喉に落ち胃に落ちそこから血液に乗って指先にまで行き渡るかのように何かが侵食していった。身体が震えるのを止められず両腕で自分を掻き抱いたが、零した毒が夜着に染みて、その冷たさにはと我に返った。


 迷うことなく指を喉奥に突っ込み嘔吐を促す。まだ消化しきっていなかった夕餐を胃が空になるよう全て吐き出すまで繰り返す。吐瀉物と胃酸で歯がギリギリしてとんでもなく不快だ。それでもまだ口には甘さが残っている。


 燭台を手に急いで小部屋から飛び出し、ゆっくり降ってきた行きとは違い一段飛ばしで階段を駆け上った。


 本棚から私室に駆け込んだ。ググッと棚を押して隠し階段を塞ぐ。部屋には誰もいないし扉の前に人の気配もない。もう夜半だし今日は人払いをしてあったからだ。ベッドサイドの水差しから直接果実水をゴクゴク飲む。三分の一ほど飲んでお腹がたぷたぷした所で私室に繋がる扉から隣の浴室に向かう。また先ほどの繰り返しで胃が空になるまでげえげえ吐いた。果実水を飲んでは吐く。


 甘ったるい味がしなくなる頃にはもうあたしは疲れ切っていた。あの毒薬は杯一杯を飲みほさなければいけないものだ。たった少量の一口、ここまで胃を洗浄したんだしもう大丈夫だろう。汚れた夜着を脱ぎ捨てて浴室の入口近くの青い石に手をかざせば適温のお湯が石造りの湯殿に湧き出てくる。香油を垂らしたそこにつかってふうとゆっくり長く息を吐いた。


「はぁ、処女のまま死ぬとこだったー。」


 危なかった、本当に危なかった。あそこで前世の記憶が戻らなかったら確実に悲劇のヒロインぶって死んじゃってた。あたしの生まれ変わりの癖してなんてネガティヴな女なんだ。救えない馬鹿だ。まあそのお陰であたしの意思が戻ったんだから結果オーライかな。


「ごめんね、リリー。あんたは死にたかったようだけどあたしは嫌なの。これから先はあたしが生きてあげる。」


 目を閉じて探っても、もうリリーとしての意思は見当たらない。完全に『りん』の意思に喰われてしまっている。前世の記憶が戻ったというよりは前世のあたしに意思だけ乗っ取られた感じ。リリーとして生きた18年間の記憶も完全にある。おめでとうリリー、あんたは願い通り死んだ。良かったねー。


 汚れも落ちて身体も温まった所で、湯船の淵にあるベルをチリンと鳴らした。小さな音だけど、侍女も同じものを持っていて離れていても共鳴するんだ。科学技術のないこの世界特有の魔法による便利道具だ。






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