そして物語は動き出す
人を救う事の、なんと救い難い事か。
聖ゲルギウスの日記より抜粋。
――――バナー 視点――――――――――
皆で将来の希望を話し合うというのはなんと楽しい事だろう。
バナーにとってこの救いのない世界で一種の清涼剤のような位置付けになっていた。
だからだろう。
彼は何の気構えもなく嵐の中に足を踏み入れる事になる。
バカみたいに、ただなにも考えず。
そしてその一歩こそが、世界を巻き込んでいく事になる。
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「ごめんね、バナード」
母の言葉は何の用意もしていなかったバナーの胸を貫いた。
五歳の子供の胸を借りるかのようにごめん、と泣きながら繰り返すだけの壊れた機械に成り果てた母親を見下ろし、バナーは無理矢理接続した思考回路で一つ思った。
ああ、やっぱりか、と。
家の家計は火の車だ。
いや、むしろ父親が行方知れずの家に生活を成り立たせろ、というのが土台無理な話なのだ。
それも、バナーという足手まといもいる。
バナーも、他所で働いてはいるものの、そんなもの雀の涙であったし、家計の足しになるどころかトータルすれば当然マイナスだった。
いつか限界が訪れる事は知っていた。
その限界が今日だったのだ。
そしてそのごめんという言葉が意味するのは放逐。
もうここには居られないという事だ。
悔しい。
「僕はどこに行けば良いの……?」
バナーは賢かった。
しかしそれは、勉強が出来るといった賢さではなく、世界の絶望を知った大人の賢さだ。
そしてその賢さはどうすれば良いのかを知っている訳ではない。
ただ単に、騒ぐだけでは事態は好転しない事を知っているだけの悲しい賢さだ。
「司祭様に……」
そう言うバナー母親の表情は暗い。
その事は司祭に対して何の話も通していない事を示唆していた。
いくら教会に所属していた所で善人等少ないし、ペテン師ばかりだ。
村だって食い詰め物は幾らでも出てくる。
それをいちいち救済する義務はないし、教会は救済に払う金(寄付金)がない者には見向きもしない。
最早、ただ捨てられたのと同じ事だ。
「分かった……」
バナーは自分の胸に掛かっている母の顔を優しく押し返そうとする。
だが、指は強張り、自分の指ではないかのように言うことを聞こうとしない。
バナーは母の顔に手を置き、その異常な熱に驚き、そして気付く。
母が熱いのではない、自分が冷たいのだ。
見下ろせば、血が全て逆流してしまったかのように青白い腕が見える。
辛うじて残る自分の腕の感覚を頼りに自分の顔に手を当てる。
冷たい。
まるで死んでしまったかのようだ。
いや、やっぱり死んでしまったのだろう。
もし、自分が生きているのなら、もっと心が温かい筈だから。
「じゃあ……ね……お母さん」
何か意味と現実感のない言葉を発して泣き叫ぶ母親から距離をとる。
ガチャ。
安い木のドアを開け、まるで幽鬼のように生命を感じられない動きでドアを閉じる。
バタン。
数歩離れて、一分程待ったが、扉が開かれる事はなかった。
嘘だって言ってほしい。
またあの笑顔で言ってほしい。
そんな都合の良い願望は微動だにしない扉の前に砕け散った。
バナーは逃げ出した。
これ以上扉を見ていられなかったからだ。
どこをどう走ったのか分からないまま走り、気付けばまた、あの秘密基地に来ていた。
もう皆帰ってしまっていたのか、ただの広い野原と化している。
ここに来るためには必ず門を通らなければいけない筈だが、どうやって受け答えしたのか全く覚えていなかった。
もうここには誰もいないが、ここは紛れもなくバナーの核となる場所だ。
草木が、匂いが、全てが仲間を思い出させる。
思い浮かんでくる皆の顔が妙に嬉しそうで楽しそうだった。
バナーは泣いた。
それはもう声を上げてうわん、うわんと。
何が悲しかったのかは分からない。
母親の事だったのか仲間の事だったのか明日の事だったのか。
それでも一つ分かるのは、子供としての最後の涙だったという事だけだった……。