9.決断
可愛らしく花に型どられた人参をもぐもぐ食べながら、フィルはいつも以上にその顔から感情を消していた。目の前には思わず涎が垂れそうになる美味しそうなご飯、テーブルの向こうにはいつも忙しく一緒にご飯を食べることができない両親がいる。なのにどうして嬉しくないのか。それは、少し離れた横にいるノアという男が原因だった。
今日家に泊まる客人だと父に紹介されたのはつい先ほど窓から出て言った不躾なノア。フィルは字がへたくそだと言われたことを忘れていない。思わずじとっと睨んでしまった。素直な子供らしい反応に、家の者は大変驚いたのだが部屋で会ったときに同じような反応をされたノアはわかるはずもない。そしてフィルも、自分が珍しく態度に出していることに気づいていなかった。
「そういえばフィルは、ノアちゃんとお部屋で会ったんでしょう?どんなことをお話ししたの?」
ソフィのその言葉にぎくりとしたのはフィルだけではないはずだ。実際、ノアのナイフとフォークを持つ手が一瞬止まった。
何といえばいいのだろう。まさか殺されかけたなんて言えない。いや、実際には殺そうとはしていなかった。言葉に詰まったフィルは苦し紛れに言葉を繋げた。
「手紙を…」
申し訳ないがリアムへの手紙を使わせてもらおう。フィルにとってはムカつく出来事だが、それしか思いつかない。
「リアム様への手紙を書いていて…、字を教えてもらいました」
「まあ!そうだったのね。よかったわね、フィル」
頷きながらノアをちらっと見るとなんでもないように食事をしている。大人げないとは思いながら少し意地悪してやろうという気持ちが沸き上がる。
「僕は字がへたくそらしいです」
がちゃりと食器のぶつかる音と同時に、前にいるルークがぴたりと停止していた。食器の音の出どころはセルジュだ。セルジュもまた身じろぎ一つしない。ルークは固い笑顔をフィルに向ける。
「そんなことないよフィル。まだ5歳なのにすべての文字をかけるんだろう?すごいことさ」
「そうでございます。フィル様はたった3歳ですべての文字を完璧にマスターしておりました。そしてフィル様がお書きになる字はとても美しく惚れ惚れするものでございます。すばらしいことです、フィル様」
二人の眼がじろりとノアを貫く。ノアは居心地が悪そうにもぞもぞ動いた。ソフィがにこにこ笑う。
「フィルはノアちゃんのことが好きなのね。こんなに感情豊かになるなんて、お母さん嬉しいわ」
その感情がすべて負の感情なのは問題ないのだろうか。それにノアが調子に乗ったようでにやにやしている。嫌な男だ。そしてソフィの言葉に反応したのはフィルとノアだけではなかった。フィルの父・ルークだ。
「ソフィ、どう考えてもフィルは嫌がっているよ」
「そうかしら?ふふ」
フィルは極力ノアが視界に入らないように、もちろん目を合わせないように目の前の食事に夢中なフリをして無表情に努めた。
夕食後、フィルはセルジュとともにある場所へと来ていた。父・ルークの部屋だ。夕食のときに言われ久しぶりに父の仕事部屋ということで少し緊張していたのだが、ノアもいるという事実にそんなものは吹き飛んだ。フィルの態度の変わり様にセルジュは笑顔の下でノアに対して舌打ちし、ルークは苦笑いしていた。
「まずは…そうだね、機関について説明しようか」
ルークが話始めたのを遮るのが申し訳ないようにセルジュが手を挙げた。ルークは頷いて先を促す。
「フィル様はおおよそのことはわかっております。詳細な内部の制度まではお教えしていませんが、機関がどういうところなのかは説明しております」
セルジュがフィルに同意を求め、フィルもまた頷いた。
魔術師教育機関、通称「機関」。魔法の才能がある者は必ずそこで戦う術を学ばなければならない。機関には魔術クラスと騎士クラスがあり、魔法に特化している者は魔術クラスに、剣術を主に主体として戦う者は騎士クラスに分けられる。実際は騎士クラスの方が圧倒的に生徒数が多い。理由は魔法だけで戦えるものが少ないからだ。そしてこの機関を卒業後はそれぞれ自由になるのだが、基本的に皆危険だが金が儲かる「騎士団」に入団するのだという。
ルークは白い手紙をフィルに見せた。
「この手紙には、フィルを機関に招待すると書かれている。基本的に機関は年齢制限がないけど5歳の子供が入学するなんて前代未聞、今までにないことなんだ」
フィルは頷く。この国では一人前とされるのが15歳であり、基本的に機関へは11歳から入学する者が多い。15歳の成人と同時に騎士団へ入団、という流れができている。とはいっても特待生は別だが。過去の最年少入学者は8歳と記録されている。ちなみにセルジュはほかの者より1年早く、10歳で入学した。
ルークはしっかりとフィルと目を合わせた。
「父さんは、フィルが寂しい思いをしてまで機関に行くことはないと思ってる。父さんも母さんも、フィルがこんなに早く家を出ていってしまうなんて寂しいんだ」
あくまで自分たちが寂しいのだと言う。機関に入学すれば、4年間寮生活が待っている。もちろん休暇中に実家に帰ることもできるが、長い間親と離ればなれになるのは決定だ。ルークはそれを心配しているのだ。実際フィルの精神年齢はとうに20歳を過ぎているのであまり考えなかったが、確かに5歳の子供が親元をずっと離れるのは辛いだろう。毎日ホームシックで泣いてしまうかもしれない。
フィルは横に首を振った。
「僕、機関に行きます」
部屋に沈黙が訪れる。皆、この少年がそう言うことを薄々わかっていた。フィルは小さなときから人一倍大人びた子供であった。けっして自分の才に満足せず、過信しない、素直な子だ。だからこそ周りは存分に甘やかしたいと思っているし、フィル本人が感じるように過保護に育てられた。その少年が自ら戦う術を持っていながら戦場に出ずぬくぬくと過ごす選択をするとは考えなかった。だがそれでも、断ってくれるかもしれないと少しの期待をしていたのだ。賢い少年はそれらをすべて理解していながらそれでも行くという。
静かな部屋に、唐突にノアの声が響き渡った。
「そういえば、そこのガキと文通してる王子も入学するらしい」
リアム王子が入学する。それは保護者にとっては貴重な情報だ。リアムはまだ6歳であり、入学には早い。だが彼は噂に聞く天才のようだし、機関の訓練についていけないということはないだろう。パーティーのときにはフィルと仲良く話していたし、彼も行くならば少しだけ安心できるかもしれない。そう考えたのだ。少なくとも王子という立場上、おそらく最年少入学となるフィルだけが注目の的となることはないはずだ。
「それに本人が行くっていうなら、反対する理由はないですよ、先輩」
ルークに向けて容赦なく言い放つ。ノアだって彼の心情はわかっているつもりだが、神童の言葉通り”魔物の強襲”が訪れるのなら成長を待つなんて悠長なことを言ってられないのだ。戦う力がある奴は戦う。この世界の常識だ。
フィルにとって親がそこまで心配してくれるのは嬉しいことだ。ただ、自分にはあの幼女から授かった力がある。一対一で戦う力はなくとも、前線に出て戦う者を援助できるようになりたい。そういう思いでフィルは父の目をしっかりと見た。
「父上、僕は女神さまから言われました。僕はこの世界の、最悪の結末を変えるために生まれたのだと。そのための力もあります。心配しないでください」
厳密には少し違うがまあいい。数年後の「魔物の強襲」に耐えられるだけの力を身に付けなければならないのだ。幼いからと言って、時間を無駄にしたくなかった。
ルークは真剣に見つめてくる息子を見て一度だけ深く頷いた。
「フィルが決めたことだ。応援するよ」
「んじゃこれで話は終わりですね」
ノアが懐から青い紙を取り出した。それをテーブルに置き促す。
「先輩とガキはこれに名前を書いて、先輩は印もお願いしますよ」
素早い動作に皆あっけにとられる。ルークは苦笑いした。
「ノア…君ってやつは、やっぱり機関の使いだったのかい?」
「違いますよ。国王様からですって」
ノアは眉間にしわを寄せて嫌な顔をしている。ノアが渡してきた青い紙には、確かに国王の印が押されている。いったいどういうことだろうかと視線でたずねると、ノアは面倒くさそうに言った。
「神童相手だからあちらさんも慎重になってるんですよ。大方、国王様に根回ししてマーティン家が断れないようにしようとしたんでしょ」
なるほどとルークは頷いた。マーティン家の戦力はかなり高い。神童を無理やり機関に引き込もうとすれば反乱される恐れがあった。だから先に国王に同意を求めたというわけだ。
「あとで国王様に謝罪の手紙を書こう。ノア、よろしく頼むよ」
「はいはい」
こうしてフィルはたった5歳で謎の多い機関へ入学することが決まったのだった。家族と離れるまで、あと1週間…。