8.女性は怖い
フィルに紅茶を入れた後、セルジュはルークの部屋へ向かっていた。扉の前につくといつものようにノックをしジョセフが開ける。中へ促され入るとセルジュは固まった。知らない男がソファーに座っている。いや、それ自体は驚くことではない。客なんて毎日来る。親しい者であればこうしてルークの部屋に通すこともある。問題なのは部屋に入って男を見るまでその男の気配を感じなかったことだ。セルジュは自分の腕に多少自信がある。なにせ機関をトップで卒業し、騎士団で働いていたのだ。そんな自分が、視界に入るまで男を認識できなかった。悔しいより先に、何者だという思いでいっぱいだ。
「やあセルジュ。フィル宛に荷物が届いていたと聞いたから、おそらく機関関連かな?」
男の向かいのソファーに座っているルークは特別変わった様子もなく話す。セルジュははやる気持ちを抑えながら懐から手紙を出した。ルークはそれを受け取るとさっと流し読みし、目の前の、偉そうに座っている男に苦笑いした。
「さすがに来るのが早くないかい?まだなんの準備もできていないよ」
その言葉で気づいた。彼は、黒い男は機関の人間なのか。手紙を先に読んだセルジュだからこそわかる。男は手をひらひらと振った。そしてやる気のなさそうな声で話し出す。
「俺はそれで来たんじゃないですよ。先輩だって、俺がそんな奴らに従うなんて思ってないでしょう」
「まあ、そうだね。君はひねくれ者だから」
笑いながらルークが返す。だがセルジュはそんなわけにはいかない。男のそれはマーティン家の当主に対する態度ではない。あまりにも失礼だ。口を開こうとして隣にいたジョセフにくいっと裾を引っ張られ、止められた。振り返ると二、三度首を横に振る。邪魔をするなということだ。
「いくら金を積まれても機関の駒になんかなりません。それなら先輩に雇われた方がましってもんでしょ」
「たまには可愛いこというじゃないか。ああ、そうだ。セルジュは彼を知らなかったね。紹介しよう。ノア、彼は私の息子の側近、セルジュという。セルジュ、彼はノアだよ。聞いていた通り、機関の者じゃない」
セルジュは深々と頭を下げる。だがノアはちらっと視線を寄越しただけで軽く会釈しただけだった。
「先輩の息子、ねぇ…」
ノアが意味深げに呟く。
「そうだ、ノアは機関の用事じゃなかったのなら、今日はどうしたんだい?」
「久しぶりに先輩の顔でも見ようかなーと思っただけですよ」
「へぇ。で、本当の理由は?」
間髪入れずにルークが返す。ノアはバツが悪そうに唸っている。迷う素振りを見せ、ルークが視線を外さないのがわかるとしぶしぶといったように口を開いた。
「…最近王都の方で妙な動きがあるんですよ。とある筋からの情報によると、なんでも“神童”について嗅ぎまわってるとか。しかもその親玉が騎士団内部にいるかもしれないっていうね」
「騎士団が!?」
セルジュは思わず声を出してしまった。なにせ数年前まで勤めていたのだ。反応してしまった。それに対してノアは首を緩く振った。
「あんたの所属してた水銀の騎士団じゃねぇ。情報では、鳳凰の騎士団。あそこは頭のキレる奴が多い。だからただの噂にはしておけねぇってことで、とりあえず俺は元凶であるマーティン家を見てこいって言われたんですよ」
「深淵の騎士団長、自らかい?」
ルークがくくっと笑いながら言う。セルジュはその言葉に驚いていた。深淵の騎士団と言えば、現騎士団の中でも最強と名高い。たった数十人からなる、団と呼べるかもわからない騎士団だ。そのたった数十人で隣国を制圧したと聞いたこともある。そして深淵の騎士団はその戦闘能力だけでなく情報収集にも優れていると聞く。そんなどこにも弱点がないような騎士団の団長が、目の前のやる気なさそうな男なのかとあっけにとられた。
「君が使われるってことは、国王様かな?」
「その通りです。まったく、相変わらず人使いが荒いってもんですよ。先輩も注意しといてくださいよ。俺はそこまで暇じゃないんですからって」
「君そこまで仕事してないじゃないか」
「え、先輩までそんな酷いこと…」
軽口を叩いていたノアが突然、ばっと立ち上がった。それと同時にルークの扉がカチャと開く。ノックはなかった。ということはルークの妻、ソフィである。
「まあノアちゃん、どうしてそんなところにいるの?」
ソフィから目を外しノアを見ると、彼は窓の縁に足をかけている状態で止まっていた。今にも脱出しようとしている泥棒のようだ。
「あ、あー…どうもお久しぶりです、ソフィ先輩」
「お久しぶりね。なんだかノアちゃんがいるような気がして来てみたのだけど…よかったわ、帰るところだったのね。少しお茶しましょう?」
女性からのお誘いは断ってはならない。貴族の暗黙の了解である。ノアはゆっくりとギクシャクした動きでソファーに戻った。ソフィは上機嫌でルークの隣に座る。
「いつも思うんだけど、ソフィはどうしてノアがいることがわかるんだい?彼、まったく気配がないから私も隣に立つまでわからないのに」
「そうそう、俺の面目丸つぶれ……あ、いやなんでもないです」
ソフィがにこりと笑い、ノアはすぐに口を閉じる。
「うふふ。『女の勘』ですわ。ところでノアちゃん、私たちになにか隠してることがあるんじゃない?」
「そうなのかノア?」
ぶんぶんと勢いよく首を横に振るノア。しかしソフィは畳み掛けるように言う。
「ノアちゃんが私から逃げるときは大抵、悪いことをしたときなのよねぇ。ふふ、隠しても無駄よ。さあ、吐いてしまいなさい」
「いやいや、本当になにもないですって」
ノアはへらへら笑う。そして沈黙が訪れる。ソフィもノアもお互い視線を外さない。これでは平行線だと思ったのかソフィはふぅ、とため息をついた。
「あれはいつだったかしら。ルークと一緒に私のお父様に挨拶に行ったときだったわね。ルークのことを何も知らないお父様に…」
「ああー!!…ッ…ゴホゴホッ……」
「大丈夫かい!?」
大声をあげて咳き込んだノアは生理的な涙を乱暴に拭いソフィを見て笑った。頬がひくひくしている。
「ソフィさん、すみません。嘘つきました。あなた方の息子さんと会いました」
勝った。ソフィの表情がそう語っているのに全員気づいた。女性は敵に回してはいけない。セルジュはそう心に深く刻み込んだ。
「まあ、可愛かったでしょう?あの子は天使のようだから」
「まあ見た目は。だけどあの歳のガキに暗殺の仕方なんて教えるのはちょいと非常識かと思いますよ」
「暗殺?どういうことだい?」
ルークが険しい顔をする。ノアは面倒くさそうに頭をかいた。
「…いや、俺の勘違いかもです。たぶん本でも読んで知ったんでしょ。気にしないでください」
「ふむ。セルジュ、先ほどまでフィルのところにいたんだろう?ノアについて何か言ってなかったかい?」
セルジュは注意深く少し前のことを思い返していたがまったく見当がつかない。フィルに変わったところはなかったし、部屋もいつも通りであった。しいて言えば窓が開いていたことぐらいだが、今までもフィルが自分で窓を開けるなんてことは数回あった。特別なことはなにもなかったはずだ。
「何もおっしゃっていませんでした。フィル様も、部屋の様子も特に変わったところはありません」
ルークはノアに向き直る。
「君、フィルに何かしてないだろうね?」
「してないですよ」
はは、と笑いながら言うノアにルークはため息をつく。何度目のため息だろうか。
「信用できないな。でもまあ、情報提供には感謝する。元凶を見てくるということだけど、まだしいばらくここに居座るつもりかい?」
言葉の節々から早く出ていけという感情が滲み出ている。さっきまでそんなことなかったのに、無断でフィルに会ったのがよほど嫌だったのか。
「そうさせてほしいんですけど。最低でも2日潜らないと、見えるもんも見えなくなりますし。ま、お世話になります先輩」
両手を膝にあて頭を下げるノアを見ては断れない。なにせ彼は国王様の使いだ。無下にはできない。こうして、フィルにとってはまったく嬉しくない客人が招かれたのだった。