5.おとぎ話のような存在
フィルが光に包まれ、女神の儀がいよいよ始まった。女神の儀は、人間が一生に一度女神と対話できる唯一の瞬間だ。幼い子供しか女神に会うことは許されないため、5歳に執り行われる。そんな儀を、わが息子フィルが今まさに行っている。
ルークはふう、と息を吐いた。知らないうちに緊張していたらしい。隣でソフィが同じように緊張の面持ちなのを見て、そっとソフィの手を握った。
どれほど経っただろか。時間にすると5分ほどか。ようやく光が弱まり、姿を現した息子は座り込んでいた。家族の前でさえいつもきちんとした姿を見せるフィルに、なにがあったのかと慌ててソフィと駆け寄ると、顔を上げたフィルは二人にこう言った。
「父上、母上。もうすぐ僕に、弟ができるそうです」
不思議そうな表情でこちらをみる息子に驚きを隠せない。そして、どう返せばいいのかわからない。一瞬の沈黙を破るようにして、ヘンリーが声を上げた。いつもの冷静な彼の声ではない。どこか慌てたような声色だ。
「ルーク、ソフィ!大変だ!」
「いかがなさいましたか、ヘンリー様?」
ヘンリーは青い紙を持っている。女神の儀では、5歳の子供が女神の言葉を理解できなかったときの備えとして、女神の言葉を代筆する司祭が存在する。司祭曰く、自分で聞いて書いているのではなく、右手が勝手に動くらしい。今回ヘンリーが引き受けた役目がその司祭なのだが、彼は女神の言葉が書かれた青い紙をもって興奮している。いったい何がどうしたというのだろうかとルークはヘンリーにたずねた。
ヘンリーはすぐに興奮を抑えゴホン、と咳をすると司祭らしく佇まいを直した。
「ここに女神の言葉を示す。フィル・マーティンは光の精霊により授けられし者。その力は多くの者の命を救うとともに、この世界に新たな導きを与えよう。そしてここに、フィル・マーティンに神童の力を授けることとする」
皆、開いた口が閉まらない。国王でさえも読み切ったあと声を出せずにいた。
―神童―
それは、神の童と書く。文字通り、女神に仕える者に与えられる名だ。もっとも最近、神童の名を与えられた者は数百年前にも及ぶと言われており、もはやおとぎ話だと思われていた。
神童の名を与えられた者は女神の言葉を聞き、その者の助言により世界は平和になったという。今、魔物におびえず暮らしていけるのは過去のそういったできごとがあったからだ。
一番に我に返ったのはソフィだった。さすが母親、というところだろうか。ソフィはフィルに駆け寄ると、そっと抱き寄せた。銀色の髪をさらさらと撫でる。
「フィル、よく頑張ったわね。女神さまとお話しできたかしら?」
頷く息子を見て、ソフィは表情には出さないながらも不安に思っていた。それは…
「ねえフィル、ほかに女神さまと何かお話しした?」
神童が誕生するということは、世界が危険に面しているということでもある。これもまたおとぎ話として受け継がれてきたものだが、この世界に危機が訪れたときのみ、神童が誕生するというのは誰でも知っている常識だ。
幼い息子は少し考える様子を見せ、決意したようにまたうなずいた。
「あと数年のうちに、魔物の強襲がはじまります。それによりこの世界は滅ぶだろうと言われました」
「なんと…」
思わず声を上げたのはヘンリーだったが、誰もが同じように項垂れていた。やはり、神童が誕生するということは、そういうことだったのだ。あれはおとぎ話などではなかった。
大人が全員項垂れる中、フィルは無表情でなんでもないことのように口を開いた。
「魔物が襲ってくるときと場所は僕がわかります。ですから、この国が強襲に耐えられるだけの力をつけなければいけません」
実際には女神に言われたことではないのだが、大人たちはてっきりそうだと思い込んだ。5歳の子供が自分で考えて発言できる内容ではない。
「なるほど…たしかに、そうだ。うん、よし!今後の方針は決まった。今晩は神童の誕生という記念すべき日だ!あまり公には出さぬように努めるが、神童の誕生ぐらいは民に伝えてもよかろう」
「そうですね」
ルークは若干不安げな表情でうなずいた。
「それとルーク、今晩は泊まっていくのだろう?もうパーティーの準備は済ませてある。パーティーとはいえ、わが妻と息子、マーティン家とその従者たちの小さなものだが、楽しんでくれると嬉しい」
「ありがとうございます、ヘンリー様。お言葉に甘え、今晩は家族共々存分に楽しませていただきます」
満足げにうなずいたヘンリーはフィルへ向き直るとにやりと笑った。
「私には6歳の息子がいてな。君と同じくらいだ。きっと仲良くなれるだろう」
母に抱きしめてもらいながら、フィルは漆黒の瞳に無表情で頷いたのだった。
フィルは目の前の男の子にじっと見つめられ、どきどきしながらも冷静を装っていた。男の子は一目で高級品だとわかるシルクの洋服を身に付けており、貴族によくあるごてごてした飾りはないものの、どっしりと構えた姿勢と視線からは自身が満ち溢れているように感じられた。瞳が漆黒であることから、現国王ヘンリーの息子であることは間違いない。ただ、フィルは王族のことを深く知ろうとしてこなかったので目の前の男の子が第一王子か、第二王子か、はたまたヘンリーの隠し子なのか見当もつかなかった。
そもそもこんなことになったのは一人で部屋を出てしまったからだ。ヘンリーはルーク、ソフィ、フィル、それからマーティン家に仕える使用人全員に一つずつ部屋を用意していた。ルークは申し訳なさそうに断っていたが、国王はもう用意してしまったと言って聞かなかったのだ。ソフィは「後で会いましょう」という言葉と「パーティーだわ、何を着ていこうかしら!」という上機嫌な声とともに自分の部屋へと戻ってしまい、ルークは苦笑いしながら少し休みなさい、とフィルの頭を撫でまた部屋へ入っていった。
残されたフィルはセルジュと割り当てられた部屋へ入り、セルジュがお茶を用意してくれたので一息ついていた。しばらくするとセルジュが「パーティーのお召し物をお持ちします」と言って出て行ったので、そばに控えていたメイドたちに少し休みたいと伝えると本当に部屋に一人になったのだ。
一応国王に会うため、きっちりとした服装をしていたフィルはふかふかのベッドに横になる気にもならず、しかし暇を持て余した彼はそっと部屋を抜け出したのだ。普段は屋敷の中にこもりっぱなしだから少し冒険してみたい気分だったのかもしれない。
窓から見える町は人が動いているのが見え、本当にここは王城なんだとぼんやり考えていたときだった。前からくる人影に気づかなかった。
「おっと!」
とっさに伸ばされた相手の手がフィルの腕をとらえる。何とか無様に転ぶのを回避できたフィルだったが、そのあとが困った。助けてくれた目の前の男の子が一言も発さず、じっとフィルを見つめてくるのだ。どこかおかしなところがあったかと髪を撫でつけてみるも、特に変わったところはない。フィルはたまらず口を開いた。
「あの、助けていただきありがとうございました」
その声にはっとして男の子はつかんでいたフィルの腕を離し、頭を下げた。
「こちらこそ、ずっとつかんでしまって悪かった。私はリアム。リアム・アシュリーだ」
「僕はフィル・マーティン。マーティン家の長男でございます。リアム様、お会いできて光栄です」
やはり目の前の男の子、リアムはヘンリーの息子で、第一王子だと確信した。屋敷にこもっているフィルでさえ、彼が赤子のときから天才と崇められていることを知っているほど、彼は有名だった。実際に目の前にしても堂々とした立ち居振る舞いと知性に満ち溢れた漆黒の瞳は、時期国王としての素質を十分感じさせる。髪はヘンリーと違い、鮮やかな紅だ。
「君がフィルか!あ、いやすまない。うわさはきいてるよ」
「ありがとうございます。僕もリアム様のご活躍をお聞きしております」
二人が5歳とは思えない会話をしていると、後ろから男の呼ぶ声がした。
「リアム様!ここにおられましたか!まったく、あれほど部屋を抜け出すのはおやめくださいと……と、これは失礼しました。フィル・マーティン殿」
声を荒げながら近づいてきた茶髪の青年は、フィルが目に入るとすぐに背筋を伸ばし、頭を深々と下げた。フィルはなぜ自分の名前を知っているのかと不思議に思いながらリアムへと視線を戻すとリアムはまたフィルをじっと見つめていた。その視線は決して不快なものではなく、子供特有の好奇心に満ち溢れたものだ。
「こんやはフィルの家族とパーティーだときいた。楽しみにしているぞ」
そういうと満足げに彼は青年と去っていったのだった。
そしてフィルの消えた部屋に入ったセルジュが主人不在で驚愕のあまり立ちくらみを起こし、マーティン家のついてきた全使用人に「フィル様が何者かに攫われた!」と伝え、騒ぎになっていたことをフィルはまだ知らない。