第1章 動物のお医者さんは人間嫌い
1
ひらひらと、何か白いものが舞い上がっている。
「今日は風があるな」と僕は独りごちる。
シャツの襟が検討違いのほうに折れ曲がり、天然の茶色い前髪が逆立って額が出る。もっとも僕は髪が多少乱れようが気にしない。女の子なら、髪だけでなく、スカートがひるがえるのを気にしていることだろう。
梅雨が明け、夏の到来を予感させる時分、こういった風は心地よい。
眼前では、相変わらず白いものが宙を舞っている。まるで踊っているかのように、遊んでいるかのように、空中をひらひらと。
僕はようやくそれが白い紙であることに気づき、何となくその紙をキャッチした。
白くて控えめに思えた紙は裏だけで、表は鮮やかな、はっきり言ってしまえば、けばけばしい原色の文字で、次のように印字されていた。
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…………。
「千円ポッキリ!」って……。風俗? いや、最後の「フード50個プレゼント」は、パチンコ屋の「出玉プレゼント50個」の謳い文句を連想する。
それに、文章のいたるところに傍点があるため、何を〈いちばんウリ〉にしているのかよくわからない。
動物病院?
風俗かパチンコのチラシかと思ったが、どうやら動物病院の宣伝らしい。
何だかいかがわしそうな動物病院だな、と思いながらも、僕は興味をもってしまった。こんなふざけた広告を打つ、その〈若手で腕のいい〉らしい「動物のお医者さん」をちょっと見てみたいと思ったのだ。
そんな平凡な高校生男子(僕)の小さな好奇心が、退屈な日々の中の些細な非日常への期待が、あんな事件に遭遇することになるとは、このときは思いもしなかったのだが。
ここは、駒込。
東京を代表する路線の山手線の駅なのだが、必ずと言っていいほど忘れている人が多々いる町である。
駅前に最近できたホテル以外に高い建物はなく、昔ながらの商店、延々と続く住宅、小区間ごとにあちこちにある小さな公園……そんなふうな土地の利用でできている、きわめてありふれた町である。
住民は老若男女さまざま。もっとも、ここは他の東京の町と比べて、やや高齢者の数が多いかもしれない。そのことが、この駒込を地に足のついたような落ち着きを与えているように僕は感じる。忘れられた、東京の昔ながらのよき町。
僕はこの町で一七年前に生まれ、一七年間育った。
僕は、都会の喧噪から隔離されたかのようなこの町が好きだ。騒々しい都心から戻って、駒込の駅に降りると、ほっとする。この町の道を歩く帰路で、都心で狂った歩行リズムを取り戻す。
例の動物病院に向かう道すがら、そんなことを考えながら歩いていると、塀の上で寝そべる猫に気づいた。
そう、この町のもう一つの特徴は、動物、とりわけ猫をよく見かけることだ。猫は小店が続く道や路地裏をのっそりと歩いていたり、塀や軒下で気持ちよさそうに寝そべっていたり、公園で遊んでいたりと、いたるところで見かける。
居心地よさそうに暮らしている猫をたくさん見かける町はいい町である。僕は町について、そんな独自の判断基準をもっている。
猫が安心して住めるということは、木々などの自然環境があるだけでなく、その町に住む住民の温和な性質を表していると思う。
「お前もいい町に住めてよかったな」
塀の上でうつらうつらと船を漕いでいる猫に、微笑みならが僕は声をかけた。
駒込はいい町。本当にいいま……
「ギャアァッッー!」
?!
突然の耳をつんざく叫び声に、僕の穏やかな想いは吹っ飛ぶ。
何、今の? 猫? 猫の声?
まるで断末魔のような猫の悲鳴だと思ったのも束の間、前方からものすごいスピードで走ってくるものがいる。
牙を剝きだし、涎を垂れ流しながら、必死の形相で猫が走ってくる。まさに猪突猛進。
耳は頭にくっつくほど平面になり、尻尾は通常の倍以上の太さになって逆立っている。尻尾だけでなく、全身の毛が総立ちである。
こうした状態にある猫に近づくの危険である。──ぶっちゃけ、怖いでしょ? 猫の本気の引っ掻きは本当に痛いんですから。引っ掻かれて僕の柔肌に傷がついたら大変。
そんなわけで、僕は迫り来る脅威(猫)から身をかわそうとした。
が、
「つかまえてくれ!」
え?
「早く! その猫をつかまえてくれ!」
つかまえる? 誰が?
「おい! そこの茶パツの少年!」
きょろきょろと辺りを見渡してみた。……誰もいない。──やっぱり、僕のことですよね。
僕は走ってくる猫の正面に身構え、猫を見事キャッチした。
抱き上げると猫は案の定、暴れまくり、僕をあちこち引っ掻く。
「いててっ! こら、暴れるな」
何とかそれでも猫を抑え込んでいると、ようやく捕獲依頼をした人が追いついたようだ。
「よし! そのまま抑えてろ」
と、言うやいなや、手に持っているケージの中に猫を手際よく放り込んだ。猫はケージの中で唸り声をあげながらも、観念しておとなしくなったようだ。
消毒剤の匂いが僕の鼻をついた。
顔をケージから上げると、白衣を着た、二〇代半ばくらいの青年が僕の傍にいた。
寝ぐせなのか、くせ毛なのか、判別しづらいぼさぼさの黒髪。一八○センチはあるであろう、高めの身長。長めの前髪から見える切れ長の目。
こういった描写から、身なりを気にしないイケメン風と思われるかもしれないが、ここではあまりにも身なりがひどかった。白衣のあちこちについた血と糞尿の跡が、靴を履いていない泥にまみれたよれよれの靴下が、外見の第一印象を決めてしまった。
そして何より、消毒剤だけなく、動物の糞尿の匂いが漂ってきたのが最悪だった。
思わず、ウッと顔をしかめた。一七歳という年齢にとっては、いや正直者の僕には、咄嗟に内面の感情を隠し、外面を繕うことは難しい。
その薄汚れた白衣の青年は、僕のそんな失礼な素振りに気を悪くした様子はなく、こちらを見てニコッと笑った。
寛大な人なのかもしれない。──人を見た目に判断しちゃダメですよね。
しかし、ふと気づく。……先ほどのはもしかして、笑ったではなく、嗤った?
僕は自身の身体を見下ろし、ようやく気づく。
僕の着ているシャツが、血と糞尿にまみれていることを。動物の糞尿の匂いが僕から漂っている。
2
「これにでも着がえてくれ」
ショッキングピンクのシャツが僕に放り投げられた。──何、この色……。
僕は、その青年に連れられて動物病院にいる。先ほど見た例のチラシの那尾動物病院の中である。へー、この人が〝イケメンの動物のお医者さん〟ね。へー。
その派手なシャツをキャッチすると、少し勢い余って僕は後ろに傾いた。背後の雑多に積まれていた書籍に背中が当たり、ダダダッと音を立てながら本の雪崩が起きた。
「おい、気をつけてくれよ」
だったら、投げるなよ、と内心つっこみを入れながらも、「すみません」と僕は謝った。
素直に謝ったのは、崩れたのが本でまだよかったと思ったからだ。あっちのほうにある病院の器材などを落として壊していたら、しゃれにならん。誰だって物を壊されたくないだろう。
と思っていたら、それとは違う点を注意された。
「大きな音を立てないでくれ。動物は耳がいいんだ。特に猫は人間の四倍は聴覚がいい。そんな大きな音を立てると、怯えるだろう」
猫がそんなに耳がいいとは知らなかった。少し自分勝手で変な人だけど、やはりこの人は獣医師なんだ、動物のことをいちばんに想っているのだなあ。
そう思い、何気なく、先ほど捕らえた猫の入っているケージを見ると、
「あ!」
と、その動物想いの獣医師は声をあげた。
「そうだ、おまえ! 着替える前に、この猫の治療を手伝え!」
はい?
何、でかい声を出してるんですか? あなた、さっき……。
というか、手伝う?
「この猫の治療をするから、おまえ、こいつを抑えてくれ。暴れてまた汚れるかもしれないから、着替える前に」
ええっ?
状況が読めない僕にかまわず、彼は猫をケージから出す。
「こう、後ろから両腕を抱えるように持って。親指で肩甲骨の下を押すようにすると動けないから」と指示を出す。
彼が持っていたとおりに猫を背中から覆うように持つと、彼はすぐさま猫に消毒を開始した。アルコールの匂いが鼻につく。
消毒剤の痛みで猫はうめき声をあげ、僕の手から逃れようと激しく身もだえする。
「そのまま抑えてろよ」
彼は注射器を用意し、患部の近くに打つ。
「麻酔だ」
患部はすでに剃ってあり、よく見えた。
猫の脇腹のあたりにするどい切り傷がある。長さ15センチほど。内臓には達していないようだが、そこそこ深い傷に見える。
「ひどい……」
思わず呟いてしまった。
患部に何かの薬を手早く塗り込み、傷口を縫いながら、彼は言う。
「ああ、刃物で斬られたらしい」
ハモノデキラレタ?
縫合し終えた糸をプツンと切りながら、彼は少しだけ補足して言い直す。
「これは、誰かがわざと斬った傷だ」
「よくがんばったな」と猫の頭を撫でながら、さらに衝撃的な事実を続けた。
「しかも、三頭めだ」
3
「最初は、今月に入ってすぐだ。三頭とも野良猫だ。一頭めも脇腹だったが、刺してすぐに刃物を抜いたような傷痕だった。まだ斬ることにためらいがあったのか、それほど大きな傷ではなかった。二頭めは、先週だ。同じように脇腹だが、今度は刺したうえにそのまま横に引いていった痕があった。そして、今日、この猫を見つけた。今度がいちばん傷跡が大きい」
僕の手に付けられた引っ掻き傷に、消毒液の付いた綿をポンポンとピンセットで置きながら、彼は淡々と述べた。何となく、さっきの猫の治療に比べて、乱暴でぞんざいな気がするのは気のせいだろうか。
「俺が治療したのは三頭。他にも傷を負ったものがいないか探しているが、今のところ見つかっていない。だが、見つけていないだけで、他にも被害に遭った動物がいるかもしれない」
「この町で、そんなことが……」
僕は、動物がわりに好きだ。犬でも猫でも、その可愛らしさに、ついじーっと見てしまう。もふもふの毛を撫でると癒される。
だから、この穏やかな駒込の町で動物を虐待している人がいることが、たまらなくショックだった。
「何でそんなひどいことをするんだろう……」
「さあな。何らかの問題をもつ人間が、己の卑しさに気づかずに、か弱き動物を的にしてストレスの解消をしている、っていうのが一般的な意見だな。野良猫はどこにもでもいるから、攻撃の的として最適なのだろう。あくまでも一般論だが」
やはりそういう人がいるのだろうか。
「被害に遭う猫の傷の度合いがひどくなっている。次に被害が出れば……」
彼は唇をかみしめる。
次の被害猫も出るのだろうか。今日の猫よりも被害がひどいとしたら、今度はどうなってしまうのだろう。大量の血を流して倒れている猫の姿を想像してしまい、僕は気分が少し悪くなった。
すると、唐突に彼は叫んだ。
「だから、人間は嫌いなんだ!」
へ? この人、話題がころころ変わるな。
で、人間嫌い? そして、その言い方だと人間一般論になっている気が……。
「動物を虐待するなんて、許せないですよね」
とりあえず、人間にもいろいろいるという意味を込めて、僕は返答する。
「人は自身のつまらないプライドを守るためという、このうえなくくっだらない理由で、弱者を攻撃する。アホか、つーの」
彼は「くっだらない」の「く」にアクセントと入れて、強い口調で言う。
「プライド守れなくてつらいなら、自分を殺せっつーの。自分が消滅すれば、つらいことも永久に消える」
「それじゃ、自殺を勧めていることになりますよ」
「おお、死ね死ね。動物を傷つけるヤツなんか死んでしまえ」
気持ちはわからなくもないが、極端だなあ。
「だいたい、地球に人間が増えすぎだろう。いらねー。俺、人間嫌い。代わりに動物だけの世の中になればいい」
人間絶滅推進宣言? 極端を超え、極論になっている。
「でも、先生も僕も人間ですよ?」
ささやかなつっこみを入れてみる。
「俺は、動物に役立つからいいの。動物のお医者さん。動物のヒーローかつ救世主だもん。動物の神といってもいい」
救世主や神はともかく、ひとまず「なるほど」と納得。動物を助けていることは間違いない。まあ、あなたはそれでいいことにしましょう。
で、僕は?
「……で、おまえは……」
「……」
「……おまえは、……犬?」
「!?」
「おまえ、犬みたいじゃん。茶色い柴犬。ほら目とかも黒目がちだし。従順だし」
「な!?」
「そんなに尻尾振って、元気だな、おまえ」
彼は今日初めてみた、やさしく爽やかな笑みを浮かべた。
「尻尾なんて、ないですよ!」
「ああ、そう? 俺には見えるんだけどなあ、茶色い尻尾が。おまえ、柴犬だよなあ」
──そういえば、クラスの女子に「柴犬に似てて、かわいい!」なんて言われたことがある。……何で女子って、すぐ「かわいい!」って言うんだろう。僕はそんなことを言われても、ちっともうれしくないんだけど。
「そうそう、俺、そもそも人間なんかの治療しない。動物の医者だから。さっきおまえの傷の手当てをしたのは、おまえを犬だと思ったからだ。ところで、動物の医者って、医療費を勝手に決めて請求できるの、知ってる? 人間に対しての治療は診療報酬って全国共通の金額があるけど、動物に対してはないんだぜ」
え、そうゆうもんなの? 動物の治療は保険が利かないぶん、治療費が個々の獣医師の良心に任されているということなのだろうか。
彼は不適にニヤリと笑う。
「おまえが犬なら、治療費は無料でいいけど、人間なら百万円ってことにしようっと」
えええっ!?
「……おまえ、犬だよな?」
…………。
「……はい(わん)」
那尾動物病院を出た僕の手には、真新しいプラスチック製の診察カードがあった。そこには、こう記載されていた。
名前:リク 犬(雑種) ♂ 17歳
リク。──僕の名前は早坂陸。誠に遺憾ながら、僕の名前は犬っぽい。
4
「ははははっ。リク、犬にジョブチェンジか」
シロウが僕の動物病院の診察カードを手に持って、涙目になって笑いこけている。
シロウ、本名・鹿苑寺史朗とは腐れ縁だ。幼稚園から今の高校まで、ずっと一緒だ。おまけに家も近所で、母同士も仲がよい。不本意ながら、幼なじみというヤツだ。
──何でコミックやライトノベルのように、僕の幼なじみは女の子でないのか。幼なじみといえば、同学年のかわいい女の子なのが当然だろう、まったく。
「わっははははっ。マジ、ウケる。俺が飼ってやるよ。首輪とリードでつないでやるよ。そうすりゃ、野良犬ではなく飼い犬だぜ。俺のおかげで保健所行きを免れるぜ。よかったな。リク、ほら、おすわり! お手! 飼い犬なら、それくらいできなきゃ。ははははっ」
笑いすぎて、腰かけている机からズリ落ちそうになっている。──そのまま落ちてしまえ。
「鹿苑寺君、危ないよ」
かわいい声が聞こえた。
ちっ。見殺し、失敗。
「お、サンクス。愛菜ちゃん、今日の髪型も可愛いね。俺、ツインテールって大好きよ」
シロウは水森愛菜に礼を言い、後傾になっていた姿勢を正しつつ、さりげなく彼女の容姿を誉める。「かわいい」とか「大好き」とか、よくそんなことを恥ずかしくもなくさらりと言えるな、こいつ。しかも、女の子の下の名前を普通に呼ぶし。
もっとも、水森さんは本当にかわいいが。というか、かなりかわいい。このクラスでいちばん、否、学校一かわいいかもしれない。濡れたような大きな瞳、その瞳を縁取る長い睫毛、細く華奢な身体つき、透き通るような白い肌、長く艶やかな栗色の髪──美少女の典型といってもいいかもしれない。しかも、性格もいいと評判。誰に対しても分け隔てなく平等で、気さくで愛想がいい。当然、校内の男子の人気バツグンである。
「ありがとう、鹿苑寺君。後ろの分け目が斜めになっていないか、ちょっと心配なんだけどね」
照れもせず、素直に返すところが、誉め慣れていることを感じさせる。
「ところで、犬って何の話?」と首を傾げながら聞いてくる。女の子らしいしぐさとともに、ふわりとフローラル系の香りがする。
「ああ、リクのヤツ、動物病院の診察カードを作ってもらったんだよ。……ぷぷ。
──犬として!」
笑いをこらえながらシロウが説明し、僕の診察カードを見せる。
「わっ! 早坂君、犬にされてるの?」
はいはい、そうですよ。僕はわんこです。水森さんにまで笑われたら、明日から四足歩行で教室移動しようかなあ。
「でも、この診察カード、かわいいね。普通の病院病院っぽい質素でシンプルなのじゃないから、冗談にしか見えないよ」
慰めてくれる。さすがやさしい水森さん。
那尾動物病院の診断カードには、犬や猫のアイコンが付いてあり、使われているフォントも色とりどりである。平たくいえば、女の子のウケがいいデザインになっている。
「でも、何で動物病院に? 早坂君んち、ペット飼っていないよね?」
僕の家にはペットはいない。犬や猫はもちろん、兎、亀、金魚さえいない。動物好きの僕としては寂しいことこのうえないのである。そんなことを前に何かの折にちらっと言ったのを覚えているあたりも、さすが気配りの女の子である。
「ああ、昨日、治療途中で脱走した猫を追っかけている獣医師に出くわしちゃってね」
僕は昨日に那尾動物病院に行ったことを簡単に話す。
もっとも、動物虐待が起こっている話は言わなかった。女の子を怖がしちゃいけないからね。しかし──
「そう……」
水森さんはそう呟き、目を伏せた。
動物が怪我をしていたという話を聞いただけでも、彼女は悲しく思ってしまったのだろうか。
「あ、ほら! でも、も、もう元気になるよ。何針か縫ったけど、傷口は完全に治療したから!」
あわてて僕は言う。
「そう、よかった」
彼女はにっこり笑い、自分の席に軽やかな足取りで戻っていった。
よかった。悲しい気持ちにさせずにすんで。
ほっとしていたら、シロウの人の悪い笑みに気づいた。
「今、愛菜ちゃんを『やさしい子』と思っただろう?」
僕の肩に手をかけ、顔を寄せ、耳にささやく。
男同士で顔を近づけてるのってむさ苦しいから、離れろよ。
なのに、シロウの野郎は何と、ふっと生温かい息を僕の耳にかけてきた。
「!」
な、何だ? 気持ち悪いぞ。鹿苑寺史朗ルートとか、勘弁してくれよ。
「いや、犬って、耳に息ふきかけると、ぶるぶる顔ふるじゃん。それ、するかなって」
「するか! キモいだけだ」
軽く引いていると、シロウはまた爆笑し出す。この、笑い上戸め。
「ところでさ、その動物病院の先生って、『にゃお先生』って呼ばれているの知ってる?」
にゃお先生?
「それ、マジ?」
「マジマジ。那尾先生から文字って」
「『那尾』から『にゃお』って、ひねりがないなあ。でも、あの人が……にゃお先生ね」
あの傍若無人で唯我独尊な人が、にゃお先生。きっと本人はいやだろうな、と思うと犬扱いされたことがどうでもよくなってきた。だって、あっちは猫扱いされてるじゃん。
「母親が言ってたんだよ。『新しくできた動物病院の先生ってイケメン! にゃお先生!』って。花さんも知ってるじゃないの?」
花とは、僕の母の名である。──母の名前も犬っぽいかもしれない。
シロウの母親と僕の母は高校の同級生でとても仲がよいので、たしかに『にゃお先生』の話を一緒にしたかもしれない。きっと二人で盛り上がったにちがいない。ミーハーだからな、僕らの母たちは。昨夜、僕が母に那尾動物病院に行ったことを言っていれば、どんな反応をしたか……。
「それでね、俺の母親が言うには、にゃお先生って〈獣医師〉じゃないらしいんだ」
「えっ!? まさかの動物版ブラックジャック?」
無免許獣医師なのか、あの人? あんなに手際よく動物を治療していたのに。
「ちがうちがう。ちゃんと獣医師免許は持ってるよ」
「は?」
「にゃお先生本人が言っているんだよ。『自分は獣医師じゃない』って。──『ただの動物の医者』だって」
意味がわからない。獣医師じゃなくて、動物の医者? ノット・オンリー獣医師、バット動物の医者……つい、英語の構文を思い出してしまった。
「何か獣医師って、動物の治療だけでなく、その飼い主への治療説明や指導義務など、人間に対してにも何らかの責任があるらしいんだよ。でも、にゃお先生は人間に関してはまったくノータッチなんだって。たとえば、極端な例でいうと、人獣共通感染症とかあるじゃん? 動物と人間が同じように感染する伝染病。あれのケアは動物にしかしないんじゃないの?で、動物しか診ないから、〈動物のお医者さん〉なんだって」
──ああ、納得。あの人、かなりの人間嫌いだった。
きっとその人獣共通感染症とやらにある飼い主とそのペットが同時に罹ったら、飼い主に対しては「知るか、ボケ。どうせ自業自得だろう。勝手に病んでろ」あるいは「人間の病院にとっとと行け。他の動物に害だから、ここには来んな」とか言って追い出し、ペットだけを丁寧に診察するんだろうな。もちろん、人間の医学上の治療はしなくていいと思うけど、獣医師義務であるはずの、その感染症の説明や再発予防のための衛生上のアドバイスなどもしてあげないんだろうな。
そんな状況をぼんやり想像していると、教室の戸の向こうから発するするどい眼光とぶつかった。その視線の主は、僕と目が合うやいなや、すぐに背を向けて去っていった。
赤毛が印象的な女の子だった。
あの子、誰だっけ?
というか、僕、にらまれていた? 何で?