1.勇者判定
気が付くと、眩しい程の陽光が見えた。
周囲は、刈り込んだ草の匂いがする。
身体の脇の地面に手を触れる。と、よく手入れされた芝の感触が心地いい。
――芝生?
樹ははっとして起き上がった。
自分は昨夜、児童公園のベンチに座っていた筈だ。ベンチの周囲は砂だらけで、芝など一本も生えていなかった。
おまけに、寄り掛かった背凭れが壊れて――
そこまで思い出した樹は、背後になんとなく嫌な気配を感じて振り向いた。
自分と三十センチも離れていない位置に、そいつは居た。
顔は、人間の三倍はあるだろう。豚そっくりの鼻に口、下唇からは大きな牙が突き出ている。
咄嗟に名前が出て来ない。
醜悪なモンスターは、牙のある口をくわぁ、と開けた。
まるで腐った肉が入った、生ゴミのポリバケツを開けたような臭気が、もろに樹の顔に掛かる。
「お……っ」
この世のものとは思えぬ臭気に失神しそうになるのを堪えて、樹は涙を浮かべながら必死で目を開けていた。
でなければ、間違いなく、殺される。
案の定、モンスターは樹を齧ろうと顔を突き出して来た。樹は、寸で背を逸らし、避ける。
その勢いのまま、樹はモンスターから離れるべく飛び上がった。
二メートル程。
間隔を取ってみて、初めてモンスターの姿が分かった。
服とは呼べないボロボロの布で、辛うじて見せてはいけない部分だけは覆っている。
巨大な豚とイノシシの中間のような姿だ。、右手に巨大な石斧を持っている。まさしく石斧。太い木の枝に先の尖った石を、葛の蔓で巻き付けてある。
「……オーク、だ」
やっと、敵の正体を思い出す。
遠い昔にゲームでは見たが、久しぶりに、しかもこんな間近の3Dで見るとは思わなかった。
本当に豚鼻と豚耳をしてるんだな、などと、のんびり観察している場合ではない。
オークは、巨体に似合わぬ素早さで、樹の頭を石斧で刈り取りに動いた。
咄嗟に、樹は頭を沈め、横に転がる。
幼い頃、祖父から柔術と剣術を習っていたのが、こんな時に役に立つとは思ってもみなかった。
に、しても、やけに身体が軽い。
いや、この状況で軽いのは有難いが、次撃が来た瞬間、樹は無意識にバック転で飛び退いた。
我ながら驚いた。バック転など、高校生以来だ。
どすっ、という鈍い音を響かせ、オークの石斧が芝に食い込む。樹は素早く、何か武器になるものはないか、と、周囲を見回した。
だが、綺麗に手入れされた芝生の庭の上には、木の枝一本落ちていない。
オークが迫って来る。
死にたくなければ、相手の武器を奪うしかない。樹は白い建物の側にある、御影石のような大きな石碑らしきところまで下がる。
と。
石碑の上に、一本の大剣が刺さっているのに気が付いた。
もし、これが台座から抜ければ、応戦できる。
樹は迷わず柄に手を掛けた。満身の力を込め、剣を抜きに掛かる。
が。
大剣はびくともしない。
「……ちっくしょっ!!」悪態をついた直後、オークの斧が頭上に振り下ろされる。
樹は剣を諦めて、台座の反対に回り込む。
間一髪。オークの石斧が、がきぃんっ、という大音響で台座の石を叩く。
何度攻撃しても逃げる樹に、焦れたのだろう、オークが咆哮する。
モンスターの雄叫びは、人間の戦意を萎えさせ恐怖を呼び起こすという。 しかし、樹にはうるさく吠えまくる近所のイヌと同じに聞こえた。
とにかく、どうにかオークにタックルを仕掛けて、斧を奪うしかない。
樹は、台座を回って来たオークの足運びに注視しつつ、体制を低くして機会を待った。
その時。
ふっ、と、モンスターが消えてしまった。
「はぁ……?」
オークが魔法を使うなんて、考えられない。
いや、この世界のオークは賢くて、姿隠しの魔法くらい使えるのかもしれない。
が、消える時、呪文を唱えた声は聞いていない。
樹は、信じらない出来事に、助かった安堵より逆に警戒心のほうが強くなる。
絶対、モンスターを自分にけしかけた人間が別に居る、と確信した樹は、台座の角を掴んだまま、中腰で周囲を窺う。
「申し訳ありません。勇者様」
「うおあっ!?」
突然、背後という、思いもよらない場所から声を掛けられ、樹は無様に尻餅をついた。
心臓が、壊れるんじゃないかと思うほど、バクバクと鼓動を早めた。
「驚かせてしまいましたね。重ねがさね、お詫びいたします」
低めの柔らかい女声のしたほうへ顔を向ける。そこには、踝まである長いワンピース型の服を着た、中年の女性が立っていた。
「あんた……、誰?」
若い頃はそれこそ後ろを男がくっついて歩いたんじゃないか、というような容姿の熟女は、淡い笑みを浮かべて樹に軽く会釈する。
「わたくしは、この総合大神殿の長を務めます、アーガリル・ルドルと申します。勇者様には、突然の異世界への召還に、さぞ戸惑われておられると思いますが」
「い……、異世界?」樹は、芝の上に座ったまま呆然とした。
確かに、自分の居た世界、地球には、物語やゲームの中にしかオークなんてモンスターは居ない。
しかし、現に今、自分はモンスターに襲われた。その声を聞き、臭い息まで嗅いだ。
「ここって、本当に、異世界なん? 俺がいた、その……、地球っていうか、世界じゃなくて?」
「はい。ここはカルトゥール異界に属するフルーレラ銀河内連珠惑星メラニの、レテシア大陸の南西、エジン王国です」
聞き慣れない言葉に、樹の頭は混乱する。
「ええと……。カ、カルトゥール、異界?」
「はい。勇者様の居られた世界――我らはアルシオン異界、と呼ばせていただいておりますが、アルシオン異界の神々は、極力人間との接触を控えていらっしゃると、お聞きしております。
しかし、ここカルトゥール異界の神々は、常に人々に教えを解き接触していらっしゃいます。なぜなら、」
言葉を切ったアーガリルは、急に険しい表情になった。
「この世界はあるものに脅かされているからなのです」
******
ここが天国だったら、本当によかったのに。
樹は、エジン国の首都アーケンの、真昼の青い空を仰いでそう思った。
樹は今、大神殿の中庭から出され、エジン王国の王都アーケンの街並みにある、一軒の飲食店にいた。
地球でいうオープンカフェのような店の、石畳の上に置かれた、かなり年季の入った椅子の背凭れに寄り掛かり、空を仰ぎながら中庭でのアーガリルの話の続きをぼんやりと脳裏でなぞっていた。
「この世界を統べる神々は、我ら人間を善きほうへお導き下さいます。ですが、神々を信じず精進を怠れば、たちまち妖魔に取り憑かれ、人間は堕落の道へと向かいます」と、アーガリルは言った。
「勤勉を怠惰へ、節制を放蕩へ、果ては友好を争いへと。混乱と戦いと死を、妖魔は好みます。その妖魔の中でもっとも巨悪なものが魔王です。魔王が現れ、世界を混乱と恐怖に陥れようとするのは、決まって五百年の間隔なのです」
で、今年がその五百年目だという。
予言の女神テテラが、アルシオン異界から勇者が来ると予言したその日に、樹は大神殿の中庭の芝生に転がっていたのだと。
勇者かどうかの判定をするには、オークに襲われて樹が抜こうとした剣が使われる。
『魔王の剣』は、これまで五度戦い四度勇者に退けられた魔王が、負ける度にあの石に突き刺して消えていく。
実はあの剣、普通の人間は誰でも抜ける。試しに大地の神の神官が抜いたところ、あっさり台座から抜けた。
どころか、別に呪いのようなものも無かった。
掃除係の下男にもやらせたが、同様だった。
だが。
勇者に選ばれた者だけは、あの剣を抜くことが出来ないのだ。
「魔王にとって勇者様は最大の敵。その敵にだけは、魔王の剣は逆らうのでしょう」
試しに台座から抜いて神殿の保管庫に入れ、厳重に鍵を掛けて置いたこともあったが、翌日には剣は台座に戻っていたという。
で。
そんな厄介な武器を持つ魔王と戦わねばならない勇者のほうは。
「勇者様には、残念ながら、これ、という強力な武器が、現在はございません」
代々の勇者は皆、テテラの予言で魔王が現れる時期を知り、その間に自分の最強の武器を探し出してきた、という。
「ただ……、四番目の勇者様だけは、魔王が剣を手にする前に自分の武器を見付けられず、エジン国の隣国が灰燼と化してしまいました」
樹は内心、間抜けな奴、と思ってしまった。
が、見付けられなければ、自分も間抜けな勇者になってしまう。
そこで、樹ははたと思い付いた。
「魔王の剣って、勇者じゃなけりゃ抜けるんでしょ?」
「え? ええ」いきなり妙な質問をして来た樹に、アーガリルは驚いたような顔をする。
「なら、俺じゃない人があの剣を抜いて、俺に渡してくれればいいんじゃん?」
「それは……」
アーガリルは、他の神官達と顔を見合わせる。
「魔王の剣なんだから、相当強いんでしょ? なら、魔王が使う前に勇者がその剣を自分のモノにするっていうのは、アリなんじゃないの?」
「そんなことをお考えになる勇者様は、初めてでございます。――確かに、他の者が抜くことは出来ますが、他の者が扱っても、魔王の剣は羊皮紙一枚も切れません。もしかしたら、魔王が手にする前は、ただのなまくら剣なのかもしれません。ですが、勇者様が手にされたなら、あるいは」」
やってみましょう、と、アーガリルは神官に魔王の剣を抜かせた。
渡された剣の柄を、樹は握る。
途端。
「おわっ!?」
剣は柄の部分から、あっという間に崩折れた。
金色の欠片となって風に乗り、跡形も無くなる。
どういうことかと、樹は焦る。
――やっぱり、魔王の剣だから勇者は持てないってことか。
がっくり頭を下げた樹の耳に、神官達の驚きの声が聞こえて来た。
「ゆっ、勇者様、魔王の剣が……」
頭を上げて台座を見た樹は、あんぐりと口を開けてしまった。
魔王の剣は、ちゃっかりと台座に刺さっていた。
「……そこまで「魔王じゃなきゃ嫌よん」ってか、このクソ剣」思わず悪態が出てしまった。
樹の言い方がおかしかったのか、幾人かの神官が頬をひくつかせていた。
どちらにしても、樹の提案は無駄たと分かった。
あとは、前任の勇者同様、魔王が倒せる自分にとって最強の武器を探さなくてはならない。
「は―――――っ」
「どどどっ、どうか、なさいました?」
樹の隣には、星の女神の巫女だという少女エステルが、年季の入ったカフェの椅子に腰掛けていた。
エステルは十六歳だという。背中の中程まで伸ばした浅緑色の髪の両サイドを取り、捩じってうなじの辺りで纏めている。留めているのは、星の女神の巫女である証の銀の髪飾りだった。
最初に樹に事情を話してくれたアーガリル――総合大神殿の長は、なんとこの世界中の神殿の総本山のトップ、バチカンで言ったら法王に当たる大神官だった――も、黒髪をエステルと同じように伸ばし、太陽の神官の証である金の髪飾りで留めていた。
「俺さ、女房と子供が居るんだよ」
十六歳のエステルに言っても仕方ないのたが、こんなことになって、余計に気掛かりになる。
「ヤミ金の借金取りに追っ掛けられて……。離婚したんだけど、仕事見付けたら、また一緒に暮らすつもりだった。――帰れんのかな? 自分の世界に?」
「それは……」エステルが、沈んだ声で答えた。
「もしかしたらムリ、かと」
「なんで?」樹はがばっと起き上がり、少女の藍色の瞳を見詰めた。
エステルは引き気味に作り笑いをすると、「たっ、多分、あちらではもう、勇者様は、お亡くなりになっているかと……」と言った。
「……へっ?」
自分でもおかしいくらい、樹は頓狂な声が出てしまった。