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たまこひ

作者: 春日 栞

 駒下駄が鳴る。

 カラン、コロン。カラン、コロン。

 愛しい貴方の元へは、あとわずか。



 ひと月は聞いていないのに、いつまでも耳から離れなかった音が、聞こえた。可愛らしい、軽やかな駒下駄の音。

 カラン、コロン。

 音はどんどん近くなる。戸口に人の気配を感じる。そんなはずはない。そんなはずはないのに。

 カラン、コロン。カラ……。

 音が止んだ。家の前に着いたのだ。戸がゆっくりと開かれる。


 * * *


 駒下駄の音は、彼女の音。

 毎日のように家に来ては、花のような笑顔と鈴を転がすような声で私を癒す、愛しい愛しい彼女の音。

 私の家は武士の家で、彼女の家は百姓の家。一緒になれないことは分かっていたけれども、彼女も私も、この逢瀬をやめることはしなかった。

 彼女はずっと昔から隣の村に住む、百姓の家の末っ子であった。私は一年ほど前にこの小さな村にやってきた、武家の次男坊。父や兄に反発して、家を飛び出してきた。ここらの経緯は、機会があればお聞かせしたいと思う。そんな私であるというのに、父も兄も、未だに私の世話を焼こうとする。妹が時々顔を出すのは、ふたりの命であろう。もっと遠くまで行けばよかったとも思うが、今となってはもう、この村から離れることはできない。

 今日も、明日も、明後日も、彼女がやってくるからである。


 彼女はいつも、日が暮れるか暮れないか、そんな時間にやってきた。

「こんにちは、いいお日和で」

「あぁ、お露さん。こんにちは」

 着物と同じ、薄紅色に頬を染めて。彼女の微笑みは、私の一日の疲れを一瞬にして吹き飛ばしてしまう。私はいつも彼女のために、人より早めに家に戻ってくるのだ。

 これといって大事な用があるわけでもない。ただ、その日のことや明日のことを話すだけ。毎日毎日、それの繰り返しであったが、私はその時間が一番楽しかった。何よりも愛おしかった。たとえ一緒になれずとも、誰に何と言われようとも、私は彼女を愛していた。彼女以外を娶るつもりなど、毛頭なかった。

 そんな私たちの日常を壊したのが、父と兄であった。

「父上も兄上も、兄さんのことを心配して言っているのよ」

 ある昼時のことである。いつものように妹が私を訪ねてきた。昼食にしようと思って帰ってきた私を、妹が迎える形となった。

「私は大丈夫だと伝えておいておくれ」

「でも、もう向こうに声を掛けてしまっていると」

 あろうことか、妹が――いや、父と兄が持ちかけてきたのは見合い話だった。我が家と同じく、武家の血筋の娘さんであるという。

 いつかはやるんじゃないかと思っていた――そうやって自分たちの決めた相手と結婚させるつもりであったから、私が家を出ていくのを黙って見ていたのだ。

「なんて家族を持ってしまったんだ……」

「そんなこと言わないで? 会ってみるだけでもいいって言ってらしたし」

 ……そんなもの、会ってしまったが最後だというのに。我が妹ながら、何も分かっちゃいない。この子も父や兄の決めた先に嫁に行くのだと思うと、胸の奥が沸々と煮えくり返るようだった。しかし、それを妹自身に伝えたところで致し方ない。私の胸の炎は紅から青へと色を変えて、静かに燃えた。

「とにかく、自分の嫁くらい自分で決めると伝えておいておくれ」

「分かった……」

 妹がおもむろに立ち上がり、家を出る。そのとき、かすかに音がした。

 カラン。

 ……あれは駒下駄を履いていただろうか? 歩いていったのに一度しか音が鳴らないのはおかしいのではないか?

 しかし、今の私はそれどころではなかった。気のせいだ、と頭を振って、再び家を出た。

「見合い話など持ってこられる前に、身を固めておくべきだったなぁ」

 私の呟きは誰に聞かれるでもなく、高く広い青空へと消えていった。


 * * *


 その日の夕方、彼女は家へ来なかった。その次の日も、そのまた次の日も。

 何故だろうか。まさか身体を壊しでもしたのだろうか。彼女が来なくなって四日目の夕暮れ時、私は彼女の家を訪ねた。

「お露は、三日前に――」

 パリンッ、と、甲高い音が響いた。彼女の母親の言葉を拒否するかのように。

 それは私の手から滑り落ちた硝子細工のかんざしが割れた音だと、一拍遅れて気がついた。


 妹が来た日の帰りであった。

 もう見合い話など持ってこられぬようにと、私はその日のうちに決意を固めた。

 ――お露さんに、求婚する。

 私と彼女は身分が違う。そんなもの、知ったことか。見合い話を持ってこられて、分かった。私は彼女以外と結婚する気はない。そして、彼女と結婚したい。なんと贅沢になってしまったのだろう。ただ彼女とともにいられれば、それでいいと思っていたのに。

 私は、彼女でなければ、駄目なのだ。

 ……などと、つらつらと並べてみたものの、私はなかなか臆病者であった。いきなり求婚などする勇気がなかった。

 「身分が違う」。自分の言葉がちくちくと胸に刺さる。もしかしたら、彼女に迷惑をかけるだけかもしれない。

 今になって、不安が胸を渦巻く。結局、私は町のほうへ足を運び、桃色のかんざしを買って帰ってきた。次は櫛を買いにきてみせるよ、と、店主に宣言してだ。


「そんな、なんで」

 言葉らしい言葉も口にできず、私はそれだけ吐き出した。母親がそっと顔を伏せる。しかし、すぐさま顔を上げた。はっと息を呑む音が聞こえた。

「お兄さんが……お露の好い人かい?」

「好い、人?」

 母親の言葉をそっくりそのまま返した。好い人? 私が? 何故、今それを?

 しかし、母親の顔は真剣そのものだ。自惚れだったかもしれないが、私は小さく頷いた。それを見て、母親が続ける。

「見合い話があったのかい?」

 今度は私がはっとした。

 突然、行方をくらませたかと思ったら――自ら、命を絶っていた彼女。母親の口から出た「見合い話」。あのとき聞こえた、駒下駄の音。

 まさか彼女は全部聞いていたのか。それで、早とちりか勘違いか、このようなことを――

「……ありました。その場で断りました。でも、私のせいだ……私がもっと早くに、こうしていれば……」

 割れたかんざしに視線を落とす。彼女の薄紅色の頬を思い出させるような、淡い桃色。まん丸だったそれは今や見る影もなく、粉々になってしまった。

 これを渡して、ただ好きだと伝えるだけであったのに。私が好いているのは貴方だけだと、伝えるだけであったのに。

 私が臆病だったからだ。これを買って、次の日には自ら彼女のもとへ行けばよかったのだ。夕刻には来てくれるだろうなどと考えていたから。私のせいだ。私のせいだ。

 握りこぶしを地面に叩きつける私の肩を、母親が撫でる。まるで自分の子供にするかのように、優しく、ゆっくりと。

「ごめんね。責めるような言い方をしたね。お兄さんだけの責任じゃない。ごめんね」

 ますます泣きたくなった。本当の母親を思い出して、縋りたくなった。でも、それはできない。彼女の母親にとって私は「娘殺し」であろうと思ったから。

「悲しいのはお兄さんも一緒だろうね。ごめんね」

 母親の「ごめんね」が私の胸を締め付ける。居たたまれなくなって、あと少しで涙が溢れそうで、私はその場を逃げ出すように去った。

 家へと駆ける途中、駒下駄の音が聞こえた気がした。彼女はもういないというのに。私はなんて愚かなのだろうか。


 * * *


 あれから、ひと月。私はろくに家から出ていなかった。

 何をする気にもなれない。本当なら三日としないうちに飢え死んでいたであろうが、妹がそれを許さなかった。彼女とのことを知ってからというもの、毎日やってきては私に何かを食わせていく。もういいのに。彼女を殺した私に、生きる価値などないというのに。

「そんなことないわ、兄さん。お露さんの分も生きて、幸せになりましょう?」

 妹の言葉も私を苦しめた。彼女の分も幸せにと言われても、私は彼女がいなければ幸せになれないのだ。

 彼女と、幸せになりたかったのだ。


 妹が帰って、数刻。すっかり日も落ちて、空には星が瞬きだした。月は見えず、暗い夜であった。

 カラン、コロン。

 私は勢いよく顔を上げた。駒下駄の音だ。

 カラン、コロン。

 彼女の駒下駄だ。しかし、何故。幻聴だろうか。

 音はだんだん近づいてくる。戸の隙間からは淡い光が漏れ、ゆらゆらと揺れている。橙色の優しい光。提灯だろうか。

 カラ……。

 音が止んだ。光もゆっくりと動きを止める。駒下駄の主が家の前にたどり着いたのだと考えるのが妥当であった。

 誰何することも忘れ、私はじっと戸に見入っていた。戸が開くのを待っていたのかもしれない。

 そんなはずはないと思いながらも、そうであってほしいと思っていた。

 そして数拍の間のあと、戸が音もなく開かれた。真っ暗な闇の中に浮かぶ提灯の眩しさに、私は目を細める。しかし、ぼんやりと見えた薄紅色に、私ははっと息を呑んだ。

「お露さん、なのか……」

 薄紅色の着物に、真紅の駒下駄。ひと月前のままの彼女が、そこにいた。

 確かに、この目で見た。しかし、それでも信じられなかった。彼女は死んだのだ。このように顔を合わせられるはずがない。それとも、もしや私が死んでしまったのだろうか。はたまた、これは夢であろうか。

「お露でございます。もう、忘れてしまったのですか?」

 微笑みも、ひと月前のまま。漆黒の美しい髪も、淡く染まった頬も。しかし、ひとつだけ、ひと月前と違ったところがあった。

「似合いますか? 貴方が選んでくれた、かんざし」

 それは、彼女に贈るべく買ったかんざし。桃色の硝子玉の――ひと月前に、割れてしまったはずの。

「あぁ、よかった。とても似合っているよ」

 私は自分の言葉に瞠目した。己の口が、勝手に動いたのだ。

 確かに似合っている。私が、彼女に似合うと思って選んだのだ。似合わないはずがない。しかし、今はそんなことを言っている場合ではないはずだ。何故、割れたはずのかんざしが、死んだはずの彼女の髪を彩っているのか。何故、何故。

「嬉しい。ねぇ、いつまでもこんなところにいないで、早く帰りましょう?」

 何を言っているんだ。ここが私の家だ。そう言いたいのに、口が動かない。ぱくぱくと空を切り、何の言葉も紡げない。それどころか、私の身体は勝手に頷いて立ち上がろうとする。

 かすかに沸き起こっていたはずのときめきが、消えた。すっと背筋が凍るようであった。怖い。目の前で微笑む彼女が怖い。差し伸べられた手の白さが、何を考えているのか分からないその目が、怖い。声が出ない。力が入らない。

 逃げられない。

「今度はちゃんと櫛を贈ってくださいね」

 彼女の手が私の手を掴んだ。自分より大きな身体を軽々と引っ張り上げるなんて、女子の所行ではない。彼女は――誰だ。

「私だけに」

 その言葉を最後に、私の意識は途絶えた。


 * * *


 とある村で、ひとりの青年が死んだ。彼を発見したのは、彼の妹だった。

「えぇ、私がいつものようにお食事の用意をしに行ったときには、もう……。お昼間とはいえ、とても恐ろしかったわ。兄さん、誰かのお骨を抱きしめながら事切れていたの。正直、お骨は心当たりがあるのだけど……兄さんには傷も何もなかったわ。自害するにしても、どうやったのか。やっぱり、無理矢理でも連れて帰るべきだったのね……!」

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