最後まで読んでも、何の疑問も問題も解決しない。でも私の中でひとつ、片付いた気はした。
委員会が終わり、松本創太は教室へと向かった。鞄は持っていたが、教科書を一冊忘れたことを思い出したからだ。
髪を両側で二つにくくった女子生徒が通り過ぎるのを目で追った。知らない生徒だ、多分二年生。彼女は、髪を結ぶ位置を下げていたけれど、あの艶やかな髪は相変わらずだった。それを思い出す。
教室には誰もいなかった。窓から夕焼けの赤い光が差し込んでいた。それには特に感慨を抱かずに、自分の机に行き、椅子を引く。
教科書は彼の机に入っていたけれど、乱暴に突っ込まれたようにはみ出していた。無論、彼はそんな入れ方はしない。誰かが触った?
一枚のメモ。
いぶかしげにメモに目を通した彼は、一瞬目を見開いた。もう一度注意深くメモを見て、
そして並ぶ机に突っかかりながら教室を飛び出した。
「ありさ!!」
叫ぶように呼びながら、ドアを開けた。
そこには人影はない。
「ありさ?」
もう一度注意深く見回して、やはり人影はない。
ここじゃなかった?
じゃあ、どこに。
冷静じゃない頭でとにかく違う場所を探そうと振り向いた瞬間、目的の人物がそこにいるのを見つけた。
「……ありさ」
「うん」
屋上に出る扉のノブを掴んだまま、彼女は微かに笑った。その手には、彼が置いてきたメモ。
彼はため息をついて、体ごと私に向き直った。
「間抜けな僕の姿を見ていて楽しかった?」
「間抜け?」
「血相を変えて、かけずり回る僕をさ」
怒ってしまったのかと、少し不安になった。
「ごめんね。悪趣味だった」
けれど謝ると、彼は力なく笑った。
「本当だよ」
また、飛びたくなったんじゃないかと。小さくぼやいた。そこで初めて私は申し訳なく思う。
「ごめん」
「うん」
「でも、わかってたでしょ?私、こんなふうに構ってもらいたがりのめんどくさい女だよ」
「僕は君を構いきれてなかったのかな」
「……吉見加奈子、美人でしょう」
「え?」
こうして口にすると、私の動機は結局ただの嫉妬だ。浅ましいったらない。でも譲る気もない。
「告白されなかった?」
「…された」
「ふうん」
「断ったよ」
「どうして」
聞くと、不思議そうな顔をした。そんな顔をしたいのは私の方だ。
「……僕は、君と付き合ってるつもりなんだけど」
「私を言い訳にしたの?」
「だめだった?」
「どう考えても『付き合ってる』なんて状態じゃなかったでしょ。言ってよ。一言言えば、別れられるでしょう?卑怯だよ」
「好きじゃなくなってなんてない」
「そのうえ嘘つき」
困ったように頭に手をやった。その仕草は洋画の俳優のように大げさだった。
「どうしたら信じてもらえる?」今の彼に、『信頼』なんて寄せられるはずもない。
「死神ってなに」
目を見開いて黙った。知っているとは思わなかったんだろう。
「誰の話をしてたの。私は私しかいないよ」
「わかってる」
「でも、『自分がどっちを好きなのか、分からなくなった』って言ったよね」
「言った」
私はもはや彼を睨んでいると思う。彼が少し後ずさったのは、私の視線に怖じ気づいたのか、言葉にすることに戸惑ったのか。
「なんと言うか…死神は、僕が恐れていたものなんだ」
「比喩?」
「そう思っていいよ」
苦笑した。
「僕はそれを心から恐れていた。それが大きく心を占めていたから、なくなってしまったときにどうしていいかわからなくなった」
心から恐れるものなんて、そうそうない。私には、ない。それがなくなったらどうなるかなんて気持ちも、だからわからない。
「それが君と重なるところがあったから、混同した。でも今はわかってる。あいつと君は違うもので…僕はあいつをやっぱり恐れていた。僕が好きになったのは、あいつじゃない。あいつは確かに僕の中で大きな存在だったけれど、あいつに向けていた感情はきっと、僕自身への感情だったんだ。……もしかしたら、あいつは僕…いや、ごめん、何でもない。…というか、ごめん。この説明も、よくわかんないだろうし」
「そうだね」
私がはっきり言うと、いっそう笑みを深くした。
それからいったん無表情になって、真面目な顔で私を正面から見た。
息を吸う。
「僕はありさが好きだ」
つられて私の呼吸が一瞬止まった。
「三年前もそう言った。相手を間違えただけで」
「なにそれ。聞いてない」
彼の口からそんな直接的な言葉を聞いたことはない。
「僕らは確かに共依存だった」
お互いに、自分たち以外を見下して、世界に自分たちしかいないような気になっていた。
「死」なんてことの意味すらよくわからずに、死がどうだとか、死にたいだとか抜かす。
「でもそれ以外の感情も、確かにあったんだ。それは本当。屋上に飛行機部品が落ちてきたときだって、僕は君を守りたかったし、君と生きたいと思ったから、あの廃病院から飛び降りたんだ」
そんなこと。今さら言われたって。
「僕はありさが好きだ。今も。今だから、かもしれない」そもそも、なんで僕がありさを振って吉見さんを選ぶっていう発想になるのかが不思議だよ、と言われて、力が抜けた。
座り込むと、創太も自然に私の隣に座る。
「どうして、あそこに連れて行ったの?」
「…見せたかったの」
「何を?」
何を、見せたかったんだろう?
何だったっけ?
私は彼と共有したかった。
「たから、ものを」
「たからものを?」
「『あの街』、見せたかったの」
夕暮れ。あの建物があった丘は、火事の後ぐるりと柵が巡らされて立ち入りができなくなってしまった。所有者がきちんと管理することになったらしかった。
「わかってたんだよ。本当は」
あの街に行くことなんて、できない。
あの街に行くことなんて、簡単。
周りの音が、少し鈍くなった。私は私の思考に集中する。
『たからものだったの?』
それでも彼の声は私に届いた。
創太ならわかってくれるって、思ってたの。
(私の理由を、ばかにせずに。この手首を哀れみじゃなく見てくれると思った)
『一緒に飛んでくれるとでも?』
ばかにしたような響きだったから、少しむかついた。
『ごめん』少し声が小さくなった。
でも、飛んでくれた。ほんとうに。
『あの街に、じゃなかったよ』
それで良かったの。(だって、わかっていたんだもの)
『あの街に行った?』
ううん。行ったことなんてない。
『行ってみる?』
きっと私は怯えた表情をした。
『駅からバスが出てる。今日、これからだって行けるよ』
いい。行かない。
『それは、逃げてるんじゃなくて?』
逃げてるんじゃないの。
ようやっと、創太の顔をまっすぐに見た。
「こっち見た」
創太は年相応に悪戯っぽく笑っていた。
「もう、いいの」
何が変わったわけではない。変わったとしたら私たちが離れていた三年間の間のことで、たった今を境に彼が変わったわけじゃない。違ったふうに見えるのは、私の認識が変わったからだ。
彼は再び『信頼』に足ると。本当はずっと、そうだったんだと。
「私は、この街にいる。いつか、出て行くかもしれないけど」
「うん」
「私も、創太のこと、好きだよ」
「うん」
「あんなキスは、もうやめてよ」
「ごめん」
「素直になったね」
「子どもになったのかも」
「大人になったんだよ」
「僕らまだ、子どもだけどね」
創太がおかしそうに言った。
「本当はお父さんもお母さんも、大好きなの」
「本当は父さんの顔も母さんの顔も、もうあまり思い出せない」
「もう手首の傷、無くなんないかもしれないけど、二度と切らない」
「でも新しい家族のこと、本当に愛してる」
「担任の先生のことも、本当は嫌いじゃない」
「まわりの奴らは無知で考えなしだけど、僕だって彼らの一部だってこと、気づいているよ」
「私たちだってただの高校生なのにね」
脈絡のないことを打ち明け合って、笑った。
屋上の鍵をかけて、降りて、それから二度と上がらなかった。
「合鍵はどうしたの」
「捨てたよ」
「ふうん」
見上げた屋上に、人影が見えた、気がした。