結局私は何のしがらみからも逃れられずに、地べたに這いずり回っている。
すごく嫌な気持ちなのに、体だけは健康で、少し前までは食事時の吐き気といういいわけもあったけれどそれも自然と治ってしまった。
いっそのこと病気でもしてしまえば、学校にも行かなくていいのに。
いっそのこと怪我でもしてしまえば、しょうがないねって言ってもらえるのに。
いっそのこと?
死んでしまえば?
そうやって、死にたくもないくせに、死ぬことを考えるな。
「中二病って知っている?」
「インターネットのスラングだ」
「模範解答、つまらない」
「結構」
「私、中二病みたいだよ」
「そう」
「私、自分のこと『大人びてる』と思ってた」
「恥ずかしいね」
「松本くんはつまらない人間になっちゃったね」
屋上の扉はなぜか開いていて、そしてそこに彼がいた。
どうしてと聞くと、委員会の特権と言った。嘘を吐け。
ただ彼がどういう経路だか合鍵を持っているのは確かで、小学生のときみたいに私たちはそこでだらだらと話をした。
「他に誰かがいると、私たちお話しもできないのかな」
「シャイだからね」
「どの口が言うんだか」
現れた私を、彼は穏やかな笑みで迎えた。後ろ暗いことがあるのはあちらの方のはずなのに、私の方が戸惑ってしまった。そしてあまりに彼が普通に話すから、私もつられて普通に返答してしまう。
驚くほど、私たちは再会以前の和やかな雰囲気に戻っていた。
あのキスもなかったことにしたみたいに。
そもそも私たちの間に空白の時間なんてなかったみたいに。
小学生の頃から、屋上という場所は私たちから本音を奪った。
本当のことを、たとえば、弱音、不安、過去を話すことは許されなかった。本質を知らずただ流行に流される当時のクラスメイト達の幼稚さを見下しながらも、私たち自身、上辺だけでずるずると会話を続けていた。
(そういえば、あのとき、翼が落ちてきたんだ)
「あの先生、大丈夫だったのかな」
「あの先生?」
しまった、と思った。これはきっと、核心を突く言葉だ。
「ううん、何でもない」
核心を突くことを、どうして嫌がるんだろう?
私たちはこのままでは、一生向き合えないのではないか。
『昔ね、私が、もっと小さかった頃、あの街は本当に隔絶されていて、翼がある選ばれた人しか、行けないんだって、信じていた。…私は、選ばれなかったんだなあ、って、思っていた』
この屋上からは、角度のせいか「あの街」が見えない。
『あの街』になにがあるわけではない、知り合いがいるわけでもない、山を切り開いたただの住宅街、その名前すら知らない。ただ幼い頃の私が眺めていた、それだけ。
勝手に憧れて、勝手に焦がれて、飛びたいと願った。
私は飛びたかった。
現実がいやだったんじゃない、と思う。
家族は優しく、勉強につまずくこともなく、人間関係も円満。金銭的にも裕福な方だろう。
ただそれ以上に『あの街』に行ってみたかった、それだけだ。ふわりと浮き上がって、飛んでいきたかったんだ。
死んでるみたいに、気配を消して、全てのものを、ふるい落として、生命活動すら、邪魔だと振り切って、自我だけの存在になって、そしたらきっとあの街にも行ける、きっと、楽になれるって。
楽になれる?
しんどいことなんて、何一つなかったのに。
「こんなところにいて、いいの?」
「何が?」
屋上は普段立ち入り禁止なだけあって、汚い。塗装の剥げたようなものと、ホコリと土が混じってひからびたようなものと、そんな中で図太く生える雑草。私たちは構わずその汚い地面に座り込んで話していた。
「松本くんにも付き合いがあるでしょ?昼休みにいつもどこかに消えるようじゃ、仲間はずれにされちゃうよ」
「そのまま返すけど」
「どうでもいい」
自分が思うより鋭くなってしまった声音に、彼も苦笑した。
「そう」
「…そう」
どうでもいい。もうみっちゃんたちとも、仲良くないし。
「じゃあ僕も、どうでもいいな」
「どうして?」そんなはずはない。「松本くんは、今は誰かと一緒にいる方が楽しいんでしょう」
「どうして最近、僕のことを名字で呼ぶの?」
「そっちから言い始めたんだよ」言うと、ちょっとばつの悪そうな顔になった。
「ほんの、冗談だったんだけど」
「嘘つき」
しょうがないなというふうに彼は私を見た。
「もう君は僕の言葉を、何だって信じられないんだろ」
図星だった。彼は意を得たりという表情をする。
「君は僕のこと、信頼してると言ってくれたじゃないか」
「前はね。今は、松本くんは変わってしまった」
頑に私は、彼を名前で呼ばない。
「僕は何も変わっていない。君が一方的に信じられないだけだ」
その言葉すらも信じられない。
移動教室だというのに、彼の机には授業で使うノートが残されていた。
女子トイレは異様に混んでいて、移動に出遅れた。私は何となく孤立してしまったから、一緒に移動しようと待っている人もいなくて教室はがらんどう。それもそのはず、次は時間に厳しい先生で、予鈴がなる数分前という時間に教室に残っていたのでは間に合わない。私も心持ち早足で教室を出ようとして、無造作に置いてあるノートに目が行った。
1−5、松本創太。
手に取ったことにはあまり意味はない。こんなところに置いておいていいのかな、というくらいの気持ちだったはずだ。
几帳面な字で丁寧にノートがとられている。勤勉タイプなんだ、知らなかった。そういえば、この高校には特待生制度があったことを思い出した。それを利用しているのかもしれない。
しばらくぱらぱらとめくったけれど面白いものは何もない。パラパラ漫画とか、描いたりしないのかな。
予鈴が聞こえた。そろそろ行かないと本当に遅刻してしまう。閉じようとした刹那、罫線ときれいに平行をたどるはずの文字列が乱れた気がしてもう一度開いた。
ノートの後ろからめくった数ページ目に、走り書きがあった。斜めに乱暴に書かれている。
彼女に恋したのか、死神に恋したのか、わからなくなってしまった
あんなに憎んだ、恐れた死神がいなくなってしまって、僕は恐ろしいんだ
彼が呟いた言葉を思い出した。
『いなくなってしまったんだ』
しにがみ?
彼女というのは、私のこと?
私じゃなければ困る。私以外の誰かに恋するなんて、許せない。
でも私だったとしても、「わからなくなってしまった」と言う。
『死神』というのが比喩なのかあだ名なのかわからないけれど、もうひとり登場人物がいるはずだ。
おそらく、私の知らない。
足音が聞こえ、振り向くと彼が小走りで教室に戻ってきた。
「あ、それ」
「あ、これ?やっぱり忘れてたんだ」
「うん、ありがとう」
彼は私にあの走り書きを見られたなんて少しも思っていないようだ。そもそもそれの存在を覚えていないのかもしれないけれど。
「字、きれいだね」
にっこり笑ってノートを手渡した。
あまりに居心地が良くて、私は毎日昼休みに屋上へ上がった。これではきっと小学生のときと同じだ。そう思っていても、やめられなかった。
彼は来るときもあったし、来ないときもあった。来ないときに何をしているのか知らない。学生の自治を奨励しているこの高校では、委員会活動も活発で、しょっちゅう彼がよしちゃんや他の委員と一緒にいるところを見た。友人達と笑い合っているのも見た。
でも私だけは、知っている。彼のことを、彼の過去を。そしてこの場所を。
そんなあってないような優越感だけで、私はこの場所にいた。考えなくていいことは楽だった。
何よりこの場所にいれば、前みたいに彼は笑いかけてくれた。
今日も私は、母親が作ってくれた弁当を持って、階段を上る。昼休みは短いから、あまりのんびりしているとすぐに教室に戻らなくてはならなくなってしまう。
屋上の扉を開けて、人影が見えたから私は彼がもう来ているのだと一瞬思った。
人影は笑顔で私を振り向き、そして驚いた様子で固まった。
「ありさ?」
そこにはよしちゃんが立っていた。何をするでもなく、立ったまま、まるで誰かを待っているみたいだった。
実際、待っているんだろう。
屋上に入れるのは私たちだけだと思っていた。
いかにも予想外だという顔でこちらを見てくるよしちゃん。
背後から階段を上ってくる足音。
ああ、そう。そういうこと。
「ごめん」
言って、すぐに来た道を戻った。予想通り彼とすれ違って、彼は驚いた顔をする。
「え、深垣さん」
この期に及んで名字呼び。
はあ、ばかみたい。
私だけが浮かれていたみたいだ。
私だけ、小学生のあのときのまま。
彼は大人になってしまった。
こんなに授業は退屈で、まじめに聞く価値もない。同級生の話はとても幼くて、合わすことすら苦痛だ。両親は古い人間だし、教師は生徒になめられているし、
なのに私だけが、ばかで、子どもで、周りから取り残されているような気がしてならなかった。
授業中に思い立って、ノートを破った。
罫線と垂直になるように、シャープペンシルを走らせる。
深い意味はなかった。