精神のせいで死ねるなら死んでしまいたいけれど、私の精神はあいにくと私を殺すほどに弱くない、或いは強くないみたいだ。
間の悪いことに、席替えで彼のひとつ後ろの席になってしまった。
新しい席に着く間際、彼はちらりとこちらを振り向いて、控えめに会釈した。その態度もやはり親しくないクラスメイトへのものに思われた。どう見ても今の彼は私に好意を持っているようではない。他の人に関係を知られたくないようだし、この高校へきた目的も私ではない。
じゃあなんであんなことするの。
あれはキスで間違いないんだろうか。
あんな乱暴な、ただ唇と唇を押し付けあうような。
「ねえねえ、そういえばさ、彼氏とどうなった?ゴールデンウィークに会ったんでしょ?」
休憩時間にみっちゃんが近づいてきて言った。なんていうタイミングで言うんだろう、この子は。前の席には彼が座っている。
わざとらしく沈んだ声で「会えなかったんだ」と言ってやった。
「好きです、つきあってください」
高井くんが私に告白してきたのは意外だった。彼にそんな度胸なんてないと思っていたからだ。彼氏の噂なんて嘘だと思ったのか、それでも構わないと思ったのか。
「ごめんなさい」
私の断りの言葉は予想していたようで、やっぱりなという顔をした。
なぜか私はそこで「気に入らない」と、相手に予測されていたことが面白くないと思ってしまって、言うつもりのなかった、望んでもない言葉を言った。
「キスする?」
「は?」
高井くんはいぶかしげに聞き返した。聞き違いだと思ったらしかった。
「ほんとにそれだけで終わるんなら、抱きしめて、キスしていいよ」どうにでもなれ、と思っていたのは確かだ。
瞬間、突き飛ばされた。訳の分からないうちに、壁に押し付けられる。
「ばかにすんなよ」
弱っちい恫喝が聞こえた後、唇に衝撃があった。
私、キスされてる?
すぐにぬるぬるしたものが入ってきて、それが舌だとわかった瞬間全身が総毛立った。
ざらざらぬるぬるしたそれは、私の口内を蹂躙する。逃げ出したいけれど、男の力は強い。それ以前に怖くて動けない。気持ち悪さと恐怖で、涙がにじんだ。
やだ、助けて、誰か、
ソータ!!
廊下に足音が響いた。
一瞬、二人とも動きを止めた。高井くんははっと顔を上げて、私と見合わせる。
足音は近づいてきて、焦ったような顔をしてもう一度私を突き飛ばすみたいにして体を離した。
がらりと戸を開け走り去ったのを見届けもせずに、私は座り込んだ。足音も別に彼女を助けにきたわけではなく、ただ教室の前を通り過ぎていったようだった。
人の気配がなくなった。教室の床は冷たい。なんだか私一人、惨めに置き去りにされたみたい。理不尽だ。
どうして男はみんな、逃げるように自分の前から立ち去るのか。そんなことよりどうして、創太に助けを求めてしまったのか。
唇を拭った。口の中からあのぬるぬるした物体の感触が消えない。
あんなやつ。だいきらい。
膝を抱えてしばらく泣いた。
家に帰って、何も食べる気がしなくて、夕食も、翌朝の朝食も食べずに登校した。だから異変に気がついたのはその日の昼休憩だ。
クラスが別れても昼食は一緒に食べようとみっちゃんが言うので、誰かの教室に集まってはいつもの四人で弁当を食べた。私とみっちゃんは親の作った弁当、まりこは自分の作った弁当(兄弟の分も作っているらしい)、よしちゃんはコンビニのパンであることが多かった。
食べ物がどうにもおいしそうには見えなかったけれど、おなかが空いているには空いていたし、弁当を作ってくれた母親に申し訳ない。せめて自分の好きなおかずを摘んで、口に入れた瞬間だった。
自分の舌だ。普段は気にも留めないそれが、食べ物を咀嚼するたびに動くのを感じてしまった。そして思い出した。ひどく乱暴に口内に突っ込まれたあの異物の感触を。
とっさに口を押さえた。驚く友人達に何もないと手を上げてから、トイレに駆け込んで吐いた。一口しか食べていないし、その前も二食抜いているのだから、ほとんど何もでない。けれどいったん認識してしまった舌の存在が忘れられなくて、気持ち悪くて、何度もえずいた。
教室に戻ると、当然ながら友人たちが彼女を心配した。
「なんか変な味がした。まだ春って言っても、最近あったかいから、お弁当が傷んだのかも」
そう言ってごまかした。友人たちは心配しながら、安心したようだった。自分たちが想像し納得できる範囲のことだったからだ。
翌日からが困った。
日が変わっても私の感覚は変わることなく、食べ物を口にすると吐き気を催した。まさかその場で吐くわけにはいかなくて必死に我慢すると、生理的にか感情的にか、涙が出た。
今度も友人たちは私を心配してくれた。食事中に急に泣き出すのだから。
思い出し泣きだと私は言い訳した。昨日のことで母親とけんかをして、ひどいことを言ってしまったからだと。
友人たちは納得する。早く仲直りしなよと優しい言葉をかけてくれた。
きっとこの気のいい友人たちは何回でも心配してくれるだろう。でもそのうち疲れる。心配することに疲れてしまう。
一緒にいる友達が毎食泣いているなんて周りの目も痛くなってくるし、もしいつまでたっても治らなかったら、改善の様子もない、理由も話さない友達にいらだちも覚える。でも友達が苦しんでいるのだろうことは分かるから、いらだちをぶつけることもできない。
この友人たちとはたぶん終わりだな、と私は思った。
不自然にならない程度に、距離を置くことに決めた。
楽しかったし、好きだったけど。残念だな。
悲しいけれどあっさりと納得した。それがまた悲しかった。
家では夕食をもう食べたと偽り、部屋でコンビニ弁当を食べた。気持ち悪いし、食べたくないが食べなければやつれる。この異常な状態を悟られたくはなかった。
彼は私の現状にはまったく気がついていないようだった。いい気味だ。死ぬなら、あいつの知らないところで、みじめったらしく死んでやる。
でも死ななかった。人間ってそう簡単に死なないみたい。
あなたのお父さんとお母さんはあっけなく死んだのにね。
心中で毒づいてから、彼ひとりならともかく顔も知らない、しかも既にこの世にいない彼の両親まで揶揄してしまったことに罪悪感を覚えた。
高井くんとも会わなかった。もともとクラスが離れているし、あちらも私を避けているんだろう。私に告白した云々という話も聞こえては来なかった。