愛の形ってそういうもの?そんな行為だけが大事なものになるの?
彼が、私の街に来た。
私は、そっちに行くから、待っていてと言ったのに。
どうして来たの?
何しにきたの?
私、深垣 ありさと彼、松本 創太は小学校のころ、付き合っていた。少なくとも私はそう認識していた。私が「好き」と言うと、彼も頷いた。私たちは僅かな時間ではあったけれど、一緒にいた。小学生のときのこと、男女の交際といっても特に何をしたわけでもないから、恋人と言えないと言われれば、それまで。もたれ合っていたんだろうと言われれば、それもそうだと頷くしかない。
彼は「死ぬ必要がある」と言った。私は、実際に手首を切っていた。
だから惹かれたのか、それだけかと言われると、否定したくなる。もう少し純粋な気持ちで、私は彼を好きでいたかった。
今も好き。
彼が今どう思っているかは、…わからない。
彼は公立の高校を受けると、私との電話では言っていた。両親のいない彼は、叔父夫婦の世話になっていて、従兄弟の兄姉もいる中自分のためにお金をかけさせたくないと言った。もともと中卒で働くと言っていたのを「大学まで出てくれ」と懇願されての進学で、私立なんてもってのほかのはずだった。どうして私の学校にやってきたのか、見当もつかない。
教室で彼は全く私に話しかけなかった。視線すら遣らない。だからといって不自然に避けているようでもなかった。初めて同じ学校の同じクラスになった人物に対するように、認識はしているけれど必要がない限り関わりはしない。他のクラスメイトにとってみれば、その態度はおかしなことではないだろう。
誰も私たちの関係を知るものはいなかった。小学生のときでさえ、教室の中では私たちはほとんど会話をしなかった。昇降口や廊下で一緒にいる私たちを見て「付き合っているのか」と聞いてくる、ませた女子児童がいた程度だ。
だから私も、彼に話しかけず、気にするふりも見せず、友人たちにも「小学校のとき一緒だった人」以上の印象を与えなかった。半分意地だ。
進学校なので、授業中はみんな真面目にノートと黒板のみに視線を往復させている。そのときだけ、私は彼をじっくりと観察することができる。彼も他の生徒と同じく、ノートにシャープペンシルを走らせ、教師の言葉に耳を傾けた。
彼は全く変わってしまったように見えた。
以前の彼なら、いつも教室の中心にいて、クラスメイトと一緒にばかをしながらときたま冷静な指摘をした。でもその陽気な姿はどこか嘘っぽくて、ともすれば校内のどこかすみっこでびっくりするほど無表情に佇んでいた。そう、普段は自分のことを「おれ」と言っているのに、寂しそうなそのときだけ、「僕」と言った。
けれど今は違う。教室の端の方にいる。静かに本を読むか何か書き物をしていて、誰かに話しかけられると穏やかに答える。決してばか騒ぎをすることなく、しかし孤立している様子もなかった。変わらない点といえば、小学生のときも高校生の今も、クラスメイトからはどこか一目置かれているということくらいだった。
そして普段から、自分のことを「僕」と言った。
これがどういうことか、彼女にはわかる。
「素」なのだ、これが、彼の。
彼は孤独であったはず。私と同じように、けっして恵まれないなんてことないのに、満たされていなかったはず。だからこそ、私たちは学校でのわずかな時間、一緒にいたのだから。
それがどうだろう。どうして、不安な表情をしない?どうして、どこかに逃げるみたいに、でもそれを悟られないように教室から出て行かない?
繰り返そう。彼は、私には全くの素に見えた。
彼は孤独ではなくなった?
私のことは、もういらない?
お互い何も話さずに過ごしているうちにあっという間に五月になり、ゴールデンウィークも過ぎ去った。もともと私が彼に再会するつもりだった連休。実際の私たちの距離は縮まるどころか平行線をたどる一方に思える。
昇降口で、彼に話しかけた。かなりの緊張を要したが、それを悟られたくはなくて、必死に平静を装った。
彼は緩慢に私を振り向いた。
「ねえ、鹿沼くん?」
彼がなぜか私のことを名字で呼ぶので、私も名字で呼ぶことに決めていた。
「…松本だよ」
「あ、そう」
なぜ自分は今目の前の少年が気にくわないのか、唐突に理解した。
彼は、自分だけ大人になったような顔をしているからだ。
彼は『鹿沼創太』ではなく、『松本創太』になってしまったのだ。
「もう、死にたくないの?」
「…何を言っているの?」
本当に意外そうに彼は言った。そんな話題、聞いたこともないみたいに。
「そう。なら、いい」
少なからずショックを受けて、離れようとしたら、一拍置いて背後から声がかかった。
「君は本当に、僕のことが好きというの?」
なに、それ。
「何を疑っているの?」
私が振り向くと、彼は少し瞳を揺らした。入学式に一瞬見せて以来、初めて見せる動揺の表情だった。
「…僕は君に依存していた。君は僕に依存していた。それは間違いない」
「共依存と言いたいの。恋愛感情ではなく」
なら私はふざけるな、と言いたい。
「今は?」
「は?」
「今の君はどう思っているの」
どうしてこんな場所でこんなことを言わないといけない?
「好きよ」
別にやましいことなんて何もないのに、声が震えた。
「そっちは違うって言うの」
「いなくなってしまってしまったんだ」
「誰が?何が?」
うつむいて、小さく呟いた。
しにがみ、と聞こえた気がしたけれど、この場にあまりにそぐわない単語だったから、聞き違いだろうと私は思う。
「何の話をしているのか、私分からないよ」
本当に分からなかった。私がばかなんだろうか。同じ言語をしゃべっているはずなのに、全然通じない。
彼は、注意深く私を見つめた。
「君は、本当にありさ?」
「誰だと思っているの?」
何かの答えを望んでいたのか。
彼は残念そうに顔を伏せた。
「私に何を期待してるの?」
不明瞭な声を彼は発した。「いや」とも「そう」とも聞こえた。
「それは本当に私のことなの?」
今度ははっきりと、彼はばつが悪そうな顔をした。違う、ということ?誰の話をしているの?
「今も死にたいの?」
もう一度問うと、
「やめてくれ」
そういって創太はあたりを見回した。
周りがそんなに気になる?体面を気にして取り繕うような人間に、あなたもなってしまった?
「どうしてこの高校に来たの?」
「ありさがいるから、じゃいけない?」小さくつぶやいた。
嘘だ、と私は直感した。
私に会いにきたんじゃない。
三年間会わなかったのは、まりこたちにも言った「会ったらだめになりそう」という理由からだ。
私は新しい自分になりたかった。
『あの街』に私は引っ張られていた。『あの街』ではないところに私を連れ出してくれた彼と一緒にいたいと思った。でも、あのまま彼のそばにいたって、きっと彼に依存して結局一緒、対象が変わっただけだ。だから、一人でもいられるように、離れることにした。三年間、顔をあわさずにいれば、私はきっと強くなれる、彼の住む街へ行けると、根拠もなく思っていた。
彼もそれに同意してくれて、会わない間も電話してくれた。好きだよというと、うんと答えてくれた。私はきっといい方に変わっている、そう思っていたのに。
結局、私は変われずに、今でも彼に依存しているだけなんだろうか?
「…ソータ、そんなに嘘を吐く人じゃなかったのに」
「嘘じゃない」じゃあそんな小さい声で言うな。
「私のこと好きじゃなくなったならそう言ってよ。なんでさっきから、訳の分からない言葉で濁すの?」
「あ、」
「どうしようもない言葉なら、聞きたくないよ」
「ありさ!」
唐突に腕が伸びてきて、私は抱きすくめられて、そして唇が押し当てられた。それだけだった。ただ一方的に押し付けて、数秒で体ごと私を解放した。
状況を理解したのはそのさらに数秒後だったけれど、状況を理解しても意図を理解できなかった。
呆然と彼を見上げる。
彼ははっきりと怯えた表情をしていた。
「ごめん」
そしてどうしてか、謝った。
なんなの、それ。
意味がわからない。
彼は逃げるようにその場を去った。
なんなの。
立ち尽くす自分の姿はたまらなく間抜けでみじめだろうと思いながらも、やっぱり立ち尽くすしかなかった。いつの間にか辺りには誰もいなくて、それだけが救いだった。