突然現れた彼に、私は何の準備もできず戸惑っている。
髪を二つにくくって、頭の高い位置で結んでいたけれど、高校入学を目前にして位置を耳の下まで下げた。
「三年も会わなかったら、お互い変わっちゃってるかな」
髪型を変えたことは会うまで秘密。
『そうかもね。僕の髪が腰まで伸びてたらびっくりする?』
「三年じゃそんなに伸びないでしょ?」
『そうかもね』
「…伸ばしてなんて、ないんでしょ?」
『どうかな』
電話で話す吐息は近い。でももう三年も見ていない顔は、忘れるわけないと思っても、印象があいまいに残っているだけ。これまで何回もしている会話だって、実際に顔を合わせると言葉を忘れてしまいそうで怖い。
でもこれは私が望んだこと。
30分も自転車をこげば会える距離にいるのに、会わないことを決めたのは私の希望。
「ゴールデンウィークに、会おう?」
『うん、いいよ』
三年ぶりに、私たちは会う。
「あ、今の子、外部だよね」
「あいつ、小学校で一緒だったやつだ」
「外部生、何人受かったんだろうね」
「今年の倍率は二倍だってさ」
「それって、高いの、低いの?」
まだ中学生気分の抜けない男女がわいわいと騒がしい。
中高一貫の私立学校なので、あたりは知った顔が多い。ところどころ、高校から入ってくる外部生が混じっていて、内部生の好奇の視線を浴びていた。
私たちは廊下に並んでいた。教室の中では、高等部の制服の採寸が行われている。
「かっこいい男子入ってくるかなあ」
「ああー。内部は微妙なのばっかだもんねえ」
言いながらちらちらとわざとらしく視線を送られて、男子たちは口々に言い返した。
「期待すんな、どーせ似たり寄ったりだよ」
「もし入ってきたってお前ら相手にされねえよ」
「じゃーかわいい女の子入ってきたら私たち友達になって、ぜっっったいあんたたちはやめとけって言っとくから」ねー、と声を合わせて女子たちは首を傾げてみせた。
がきっぽい。
合わせて笑いながら、私は内心毒を吐く。
なんでこんなに精神年齢低いんだろう、この人たち。
背の高い男子がちらりと私を見た。高井くんは、私に気がある。うぬぼれじゃなくて、知ってる。私の顔が好きなんだ。私が他校に彼氏がいることを、おおげさじゃないように言いふらしておいたから、踏み込めないだけ。気がつかないふりして、顔を逸らした。
私の顔は、人に好かれやすい、らしい。何度か告白をされたことがある。女の子たちも最初から大体友好的に接してくれる。
そうやって好かれる私が気に入らなくていろいろされたこともある。うぬぼれるなと、自分が本当に可愛いと思っているのかと悪態をつかれたりもした。実際告白されるのだから、少なくとも彼らにとって私には魅力があるように見えたことは間違いないんじゃないか、と私は思ったけれど口にはしなかった。
でも、彼女らの罵倒は正しい。私はうぬぼれているし、自分の頭の良さを鼻にかけている。みんなに調子を合わせて笑いながら、心の中で見下してばかにしてる。こんな人間私以外にいたら、私は絶対に大嫌いになっている。
好きな人はもちろんいる。まりことよしちゃんとみっちゃん。みっちゃんは頭が悪い。よしちゃんは頭が良い。まりこは成績が良い。みっちゃんはいい人、よしちゃんは合理的な人、まりこはお人好し。
「ねえ、ありさの彼氏はどうなった?」
聞いたのはみっちゃん。小さくて、かわいい。恋バナが大好き。
「あのねえ…」
ゴールデンウィークに会う約束をした、と言うと、歓声を上げてその場で飛び跳ねた。
「やったねえ!今まで我慢してきたかいがあったねえ」
「未だにわかんないんだけど、どうして会わないことにしてたの?」
そう言ったのはまりこ。理詰めで考えるのが好き。兄弟が多いせいか、世話焼き。そんな彼女はその内面を体現したかのような外見で、制服を規定どおりにきっちり着こなして、細いフレームの眼鏡を指で押し上げた。
「んーまあ、いろいろあってっていうか、私のわがまま」
「わがままってえ、毎日でも会いたい!とかそういうのじゃないの?」
よしちゃんは、自立心が高い。頭が良くて、美人で、男が嫌い。というか、自分を押し付けようとする人間が嫌い。私の本性もなんとなくばれているみたいだけど、自分とその周りに害が及ばないのを悟っているのか、誰にも言わずにいてくれているみたいだ。
私は多分、『顔が可愛い。ふつうの成績。誰とでもそつなく話せる』と思われている。間違ってはいない。でも私に言わせれば、『顔が可愛いのを知っていて利用している。誰にでもいい顔をする』。卑屈すぎるか。
「会いたいよ。毎日でも会いたかった。でも、会ったらだめになっちゃうような気がしたから」
でも別に、常に自分を隠して生きてるわけじゃない。こんなふうに、ふつうに本音を話したりも、する。特にこの三人の前では。
「わかる、わかるよありさ。会えない時間が愛を育てるんだよねえ」
したり顔でみっちゃんは頷いてみせた。
彼女らは、私の手首の傷を知らない。子どもだったらすぐに消えるだろうと「インターネット」に書いてあったのに、まだ消えない。
カッターナイフは、もう三年間、触ってもいない。
私立の中学校を受験することを、両親は簡単に許してくれた。割とお金のある家だったみたいだし、いくらか教育ママみたいな面もあったかもしれない。
何か問題があったわけじゃない。
学校でも馴染んでいたし、誰からも私は「いい子」と思われていた。
手首を切ったのは、別に死にたかったわけじゃないし、イヤなことがあったわけじゃないんだ。
でも、『死』には興味があった。
だから、「死にたい」と宣う彼のことが、気になった。
彼は、頭が良い。私より多分いい。
なのに、どうして?
そういえば、どうして彼は死にたかったんだろう?
「あ、あの人、かっこいい!!」
ふいにまりこが指を指した。
「えー、どこ?」
興味のないふりをしながらも、実際は結構真剣によしちゃんが目をこらす。私も一応振り向いたけれど、人ごみの中、まりこが指差す人物がどれかはわからない。
「あー、もう見えなくなっちゃったよ。一瞬だった」
「どんな人?」
「背はそんなに高くないけどぉ、地味さわやか?あ、ほら、みっちゃんの好きな神野くん、あれみたいな」
じんのくん、というのはみっちゃんが贔屓にしているアイドルグループのメンバーだ。
「うそ!うそうそ、神野くん似!?ちょっと、早く言ってよ」
「や、もちろんそっくりってわけじゃないけど。傾向が似てるっていうか」
みっちゃんの食いつきに慌ててまりこが予防線を張った。
それがどんな男の子でも、私には関係ない、と思った。
私に関係があるのは、彼だけ。
彼は、彼の街で、私を待っていてくれている、はず。
入学式や新学期には桜の絵が添えられることが多い。けれど私の住む地域では、桜の時期からはちょっとずれている。地面に落ちて、茶色く汚くなった花びらを踏みしめて、私たちは入学式が行われる体育館へ入っていく。
よしちゃんとまりこは、同じクラスだった。私とみっちゃんは、四人組の誰とも同じクラスにはなれなかった。
「吉見と一緒かあ。他の女子とは仲良くなれないだろうなあ」
「なにそれ」突っ込むよしちゃんも、自分がきつい性格だということはわかっている。敵を作りやすい彼女と一緒にいれば、ともに孤立しがちになることがままあった。
「いいじゃん、一緒のクラスになれて。私たち別々だもんねえ」
「そうだね」
「ありさはさっさと友達作るだろうよ」
「そうかもしれないけどぉ。ねえ、ありさ、それでもたまには一緒に帰ったり、遊んだりしよう?」
「うん」答えながら、笑みがこぼれた。多分、先に友達を作って付き合いが悪くなるのはみっちゃんの方だろう。そんなものだと、期待はしていない。ずっと同じ人間関係に固執する方がきっとおかしい。私たちはまだ十五歳なんだから。
「こないだまりこが言ってたかっこいい子、いるかなあ」
よしちゃんはかなり気にしているみたいだ。
「いるんじゃないかなあ」
と、それに応えてきょろきょろとわざとらしくまりこは辺りを見回した。
「あ、」
と、今度は演技ではなく彼女はある一点を見つめる。
「え、いたの?」
私もそちらを見た。というより、彼女が目を留めたのは進行方向に向けてだったから、ただ単に前を見た、という方が正しい。
でもそこで私はあり得ない人物を見た。
背が高くなっている。
髪が、前よりは短いかもしれない。
顔も、少し大人びた。当たり前か、最後に見たのは小学六年生だもの。
その人物は私がたった今入学したはずの高等部の男子の制服を着ていた。
彼は私の姿を認めて、ほんの少し瞳を揺らした。それは私には怯えの表情に見えたけれど、すぐににっこりと笑ったから、気のせいかもしれない。何より、彼には怯える理由なんてない。
彼は、まっすぐに私を見て、
「…ひさしぶり、深垣さん」
と言った。
「ひさしぶりだね、鹿沼くん」
「今は、松本なんだ。そう呼んで」
なんのためか、彼はわざとらしくよそよそしい態度をとる。
「松本、くん」
「僕ら、同じクラスみたいだ」
「そう」
「よろしくね」
「うん」いつも通りの笑顔を浮かべる自分が憎らしい。
待ち望んでいた彼が、目の前に立っているというのに。
心臓はまだ止まったみたいだったけれど、友達に話しかけられて私は無理矢理、でも外からは滑らかに見えるように動く。
「知り合いなの?」
「うん、小学校のとき一緒だったんだ」
「入学式のかっこいい人、あの人でしょ?」
「うん、神野くんに似てない?」
「似てないよ!ぜんっぜん似てない!」みっちゃんはやはり不満だったようで、言い出しっぺのまりこは苦笑した。
「でも、わりとかっこ良くない?」
「そうかなあ」
よしちゃんはそう言いはしたけれど、満更でもないという顔をしていた。