第一章 潜入のパラサイト アトラクタの箱
サキチは学校を終えると一人で会社へと向かう。今日サキチは会社でどうしてもやらないといけないことがあるからだ。会社へと着いたサキチはカバンをソファに置くと、さっそくヘッドフォンを耳に付ける。そしてパソコンを起動してなにやらファイルを検索し始めた。
「今日はピナは休みだし、依頼もないからな。今やるしかない」
サキチがパソコンで検索していたファイルは前回、以来のあった宮内の記憶ファイルであった。
この会社のパソコンには過去の依頼者の記憶がパターンファイルとして記録されている。それを音声変換と電気信号変換することにより、いつでも好きな時に記憶の世界へと入り込むことが可能である。
しかし、それは正直なところ完全な『違法』である。人の記憶の中へ無断で潜入することは、本来ならば絶対にやってはいけないことである。それはサキチも充分に分かっている。ピナがもしこの場にいれば恐らく相当怒るだろうことも予測される。だが、サキチにはどうしてもやらなければいけないことがあった。
それは『アトラクタの箱』の捜索。
前回、宮内やピナと潜入した時はアトラクタの箱は見つけることが出来なかった。しかしアトラクタの箱を捜索している時間はまったくなかったし、アトラクタの箱は元来目立たないところに存在する。つまり記憶の隅に存在する場合がほとんどである。それはアトラクタの箱が共通記憶と呼ばれる種類の記憶であるからである。
共通記憶つまり、共通認識のことである。人は誰でも個人的な記憶と共通記憶の二つを組み合わせ記憶を組み上げる。例を上げると、Aと呼ばれる男がいたとする。Aはとても明るい性格である。BとAは親友なのでAが男であることも、明るい性格であることも知っている。これが個人記憶である。そこにただの通りすがりのCがいるとする。ただの通りすがりのCにはAが男であることは認識できるが、明るい性格かどうかは分からない。この場合、『Aは男である』という記憶が共通記憶になる。人は誰でも生活の上で共通記憶のと個人記憶を持っているものである。アトラクタの箱の中にはこの共通記憶が入っている。
この共通記憶はサキチが追い求めている記憶の可能性がある。そうつまり社長の行方を知らせる記憶である。簡単に言えばサキチが会社内にいて外の状況が分からない時に、宮内の息子ケイタが外にいて交差点で事故が起こったとする。この事故をサキチは知るよしもないが、近くにいた人間はケイタも含めてこの事故を記憶する。記憶は特に関連性がなければ断片として記憶される。つまりこの場合だと、『事故が交差点であった』という程度である。しかし目撃した人次第で記憶は違う。『何時に事故があった』と記憶している人もいれば『どの交差点で事故があった』と記憶している人もいる。中には『何々という車に乗っていた20代前半の男が、何々という車に乗っていた50代の男と正面衝突した』と記憶しているものさえいるであろう。
この場合の共通記憶『事故があった』という記憶に+αでついてくるのが詳細の記憶である。人によって違うこの記憶の断片を組み合わせることで結果として『いつ、どこで、何と何が、どういう状況で、事故を起こした』という記憶の復元が可能となるのである。
つまり、サキチが探しているのは社長の記憶の断片。他の人が見たであろう記憶から社長の手がかりを探そうというのだ。
しかしこのアトラクタの箱は通常見つけること自体が非常に困難である。その理由は至極当然である。上の例で言えば事故が起きたという記憶は当事者でない限り特に覚える必要がないことだからである。人間の脳の容量は実はとてつもない容量ではあるが、新鮮にいつでも引き出せる記憶の量は極僅かなのである。自分にとって必要である記憶以外は脳の奥の奥に格納するのである。これがアトラクタの箱であるのだが、自分に必要のない記憶の存在は当の本人でさえ忘れてしまっていることが多く、その場合アトラクタの箱は認識不可能なほどに薄れてしまい、見つけることなど不可能なのである。
しかし例外がある。それは、記憶を故意もしくは防衛本能により格納している場合である。今回のことで言えば殺されるという衝撃的な記憶は防衛本能により強制的にアトラクタの箱へと格納される。これは、そのあまりの衝撃に脳自体が耐え切れず、その記憶を保持したままでいると人格に支障をきたし、命に関わる自体となるからである。実際の症例でもあるPTSDがそれである。つまり、過去にトラウマとなるほどの衝撃的な出来事に遭遇した場合、人の記憶はアトラクタの箱へとその記憶を封印する。そしてそのアトラクタの箱は通常のアトラクタの箱とは違い、とても目立つ場所にあることが多い。人に見つけてほしい。自分は今、これほどの辛い記憶を持っている。自分ではどうしようも出来ないほどの記憶がある。『誰かにそれを理解してほしい』きっとそういう心の現れなのだろう。
しかしこのアトラクタの箱を見つけたとしても無闇に開けていいものではない。トラウマを持つ者が持つアトラクタの箱を開けるということは、その封印したいほどの衝撃を持つ記憶を再び呼び起こすという意味である。人格に支障が出るほどの、命の危険すらあるほどの記憶を再び呼び起こす。これがどれだけ危険な行為となるのかそれは社長からも強く言われていたことである。今回の場合、記憶の持ち主はすでに死んでいる。つまりアトラクタの箱を開けたところで影響はない。しかしヘミシンク効果により他人の記憶の中に潜入しているサキチはそうではない。
アトラクタの箱を開けることで、なぜ手がかりを見つけることが出来るのか。それはアトラクタの箱の中の記憶の断片が開けた瞬間、その記憶の中に潜入している者の記憶にも潜入するからである。つまり自動的にサキチの記憶の中に共通記憶が入ってくることになる。これは、とても危険なことである。今回の場合であれば殺された時の記憶がサキチの記憶に入り込むことになるだろう。つまりサキチはまるで自分が体験したことのような記憶を持つことになる。トラウマになるレベルの記憶の場合、記憶の夢に潜入しているサキチにもそのトラウマレベルの記憶の衝撃がやってくることになる。その衝撃に耐えることが出来るか否かはその本人次第ではあるが、ほとんどの場合人の脳は、いや人の心は絶えられる限界というものがある。アトラクタの箱を開けるということはそれほどの危険があるのである。サキチもそれは充分に分かっている。
しかし、それでもサキチは社長を見つける為に危険を犯してでも、例えルールを破ってでも社長を見つける為の手がかりを得ようと必死だった。
「よし、準備完了だ。今度こそ社長の手がかりを見つけてやる」
サキチはEnterキーを押す。
ヘミシンク効果によりサキチは強制的に眠りにつく。そして、目の前には前回も見た宮内の記憶の光景が現れた。この記憶の中では宮内の息子ケイタが殺されることになる。前回、宮内と共にその現場に行った。しかしそこにアトラクタの箱はなかった。しかし今回の例の場合、恐らくアトラクタの箱は目立つところにあるはずだ。殺された現場になかったのは恐らく自分の死を受け入れられなかったから。認めたくなかったからだろう。つまりもしあるとしたらケイタが殺されるまでの90分以内に行った場所で、ケイタが落ち着けるような場所である可能性が高い。例え思いれのある場所でなくとも、少しでも気になった場所があればそこにアトラクタの箱はある可能性がある。
サキチは宮内との会話を思い出していた。宮内の息子ケイタがなぜその現場にいたのか。何をする為に外に出たのか。それを考えれば自ずと答えに近づく。
「そもそもなんで表通りではなく裏路地を歩いていたんだ?」
サキチは現場に行ってみることにした。そこはまだケイタが殺される前、人通りが少ない裏路地である。
「確か犯人は通り魔だったな。ということはここにいた他の人が刺されていた可能性もあったわけだ」
サキチは裏路地を見渡す。そこは小さなお店の裏側の入り口が並んでいた。いわゆる従業員用の出入り口である。とそこに記憶の中のケイタが扉から出てきた。そしてサキチのいる方へと歩き出した。サキチはこれから殺されることが決まっているケイタを見て、悲しい気持ちになった。
「ちっ、いつまで経っても慣れないな。この気持ちは……」
その時、サキチは気がつく。ケイタが出てきた扉。それは従業員用の扉。つまりケイタはそこで働いていたのだ。仕事が終わり、家に帰る途中だった。裏路地にいたのはそこに出入り口があったから。アトラクタの箱は恐らくそこにある。サキチは確信した。急いでその扉を開ける。扉を開けると目の前に少し大きめの赤い箱が現れた。サキチは内心喜んだ。手がかりがある。その可能性を秘めた箱が目の前に現れた。
そう、その赤い箱こそがアトラクタの箱である。
「あったな。アトラクタの箱……」
サキチはゆっくりとその箱に近づく。そして屈むとその箱に触れる。サキチはアトラクタの箱をすぐには開けようとはしなかった。このアトラクタの箱には客観的な光景ではない、目の前で起こった出来事として殺人の記憶が入っているだろう。ケイタが死ぬ直前に感じていた恐怖や悲しみ。様々な感情と共に、そのナイフで刺された時の痛みの記憶すら入っているかも知れない。サキチは唾を飲み込む。確かにこの箱を開けるというのは、そういうリスクも背負うことになる。記憶の本人が死んでいるのだから、この箱を開けることで記憶の持ち主にPTSDを起こさせる危険はなくとも、サキチ自身がその衝撃によりPTSDになる危険性も十分ある。下手をすれば夢の中から永遠に出られなくなるほどの衝撃が襲ってくる可能性もある。サキチは目を瞑り社長の話を思い出していた。
『サキチ、覚悟は決まったか?』
『前に言ってたパラサイト現象のことですか?』
『まぁそれもあるが、人の記憶に入り込むってことへの覚悟だよ』
サキチは缶コーヒーを飲みながら社長の言葉に疑問を感じていた。
『分からねぇか……。人の記憶に入るってことはその人の人生に介入するってことだぞ。自分が何を感じ、何を想い、そして何を考えて世界を生きているのか。それらが全部見えちまう。人のプライベートの中身全部だ。誰にも言えない隠し事があってもそれも見られちまうわけだ』
『そんなの……契約書に書いてあるじゃないですか。見られるのが嫌な人はここに依頼に来ませんよ』
『そうだよ。ここに来る人達ってのは『見られる覚悟』をしてきている人達だ。例えどんな記憶を見られてでも見つけたい大切な何かがあるから来てるんだ。人の記憶に入る俺達もどんな記憶でも『受け入れる覚悟』が必要だぜ』
そう。社長の言っていた受け入れる覚悟。その覚悟が無ければこの仕事はやっていけない。例えどんな記憶であろうとも受け入れる。その想いが人の心を動かすのだ。
サキチはアトラクタの箱をゆっくりと開ける。少し開いたアトラクタの箱は自動的に勢い良く開き、その箱にあった記憶の断片が溢れだす。と同時にサキチの記憶の中にその記憶の断片が流れこんでくる。
サキチの中に流れ込んでくる記憶は予想通りケイタが殺された時の記憶。その時のケイタが感じた恐怖や痛みの記憶が余すことなくサキチに流れてくる。サキチはその記憶の衝撃に必死に耐えている。いや、耐えているだけではない。その記憶の断片の中から、社長の手がかりになる記憶を探っているのだ。
やがて記憶の入植とも言える現象は収まりを見せる。収まりを見せるに連れてサキチも落ち着きを取り戻していく。少しばかり落ち着きを取り戻したサキチはその場で仰向きに倒れこむ。
「……痛い。辛い。悲しい。人が死ぬ時って……自分の死を認めたくない時ってこんなこと考えるんだな」
サキチはひとり呟きながら、夢の中の空を眺める。
「はぁ、また手がかりはなし……か」
サキチは今までも何度も他の記憶のデータを使って同じことを繰り返してきていた。しかし未だに社長の手がかりに直接結びつくような情報は得られていない。もしかすると、このやり方では何も情報を得ることが出来ないのかも知れない。しかし社長の失踪の原因がこのシステムにあるのなら、社長を見つけることが出来るのもこのシステムだけだとサキチは思っている。手がかりを見つけることが出来るまで、社長を見つけることが出来るまでサキチはずっとこのシステムを使い続けるだろう。何度も使うことで例えパラサイト現象に蝕まられていくことになろうとも。
周りの景色が突如、湾曲する。夢から醒めるのだ。サキチはそこで再び見た。その夢の中にいるはずのない謎の少女。以前も見たその少女を確認しようと身体を起こす。そこで目は覚めた。夢の中の空は消え、いつもの会社の天井をサキチの瞳は捉えていた。サキチはゆっくりと身体を起こす。そしていつものように自販機に向かいコーヒーを買い、ソファに座るとそのコーヒーを飲み始めた。
「ふぅ……」
トラウマを持つ人間のアトラクタの箱を開ける行為はお互いを傷付ける違法な行為だ。しかしそれでもサキチは、他の何を犠牲にしてでも社長を見つけ出す覚悟でいた。社長が言っていた覚悟。『ここで働く覚悟』、『受け入れる覚悟』そして『どんな犠牲があろうとも必ず社長を見つけ出す覚悟』サキチが備える覚悟は、サキチのモチベーションを著しく保っていた。
しかし、この時はまだサキチは気がついていなかった。その覚悟が後に起こるとてつもない事件の序章の原因となることを――。
第一章 潜入のパラサイト 完
この作品は潜入ゲームコンテスト応募作品となります。規定により2章以降の公開はコンテスト終了後となりますので、ご了承ください。
ここまで読んで頂き、ありがとう御座いました。感想等頂けると幸いです。