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きゅっ、きゅっ、きゅっ。
ゴム底のスニーカーで廊下を歩く音が、静かなフロアにこだまする。
今、私と小泉さんは、社内でもおいそれと立ち入る事の出来ない、重役フロアにいたりする。
どうしてこうなったと考えた所で、私は思い出した。
・・・、ああ、そうだった。「掃除は上からだったな」と、至極真っ当なことを言って退けた誰かさんの言葉に頷いてしまったからだった。
だって、普通じゃないか。普通すぎるからついつい頷いてしまったのだ。
誰が「上」が、素直に社長室やら何やらと、重たい空気が漂う重役フロアだと直感で思い当たることが出来るというのだろうか。
そんな人がいたらぜひとも会ってみたい、顔を拝んでもみたいと、若干の現実逃避をしてみた私は悪くない。
悪くないったら、悪くない。
ガラガラと掃除道具を乗せたカートを押しながら、そのフロアの一番端に着くと、小泉さんはよし、と、頷くなり、私にあり得ない事を言いだした。
「小梅、俺が廊下の掃除を担当するから、中の方はお前がやってこい。ほら、コレが社長室の鍵と、触るとヤバいモノリストだ。今の時間なら誰もいないから、さっさと片付けてこい」
えっらそうに、私に指示する小泉さん。
確かに本社の正社員さんだから、偉いんでしょうけど?天下の〔小泉〕さんに中途採用でも入れるくらい優秀なんでしょうけど?そこでどうして私に面倒な役割を押し付けるかな。
上に立つ人間なら、自分から率先してそう言う面倒な所を担当すべきでしょ?
仮にも私の上司なら!!
私のそんな考えを見抜いたのか、それともただの偶然か、――まぁ恐らくは偶然に違いないが、小泉さんは廊下の照明を確認しつつ、一言漏らした。
「逃げるのか?やりたくないからって。それが働いて金を貰うお前の考えか?」
如何にも幻滅した、という声で言われてしまえば、私はバカにするなと奮起し、気が付いた時には、いとも簡単にアッサリと小泉さんの作戦に乗せられ、流されていた。
その悔しさをぶつけ、解消すべく、私はバケツと雑巾、そして小泉さんから渡された鍵とリストと、ついでにゴミ袋を持ち、社長室と金色の文字で縁取られ、印字されたプレートが付いた扉の前で、承認パネルにカードキーを翳し、戦場へと踏み入れた。
途端、鼻に付く色々な混ざったような、頭が痛くなる位、くらくらする毒々しい甘ったるい匂いに、私は首に巻いていた作業タオルを、すぐに鼻から顎の下まで覆い隠して、まずは本陣へと足を向けた所で、私は見てはいけないモノを見てしまった。
「し、失礼しました。ノチホドアラタメテお掃除にウカガイマス。」
扉を閉め、前室にもあたる秘書室の掃除に取り掛かった。
掃除は偉大だ。
集中すれば、余計な事は考えずに済むし、自分の仲の疾しいモノも消えて行くような気がするから。
毛足が長い、高級なふわふわもこもこな絨毯が敷かれた床に落ちている紙や書類、書き損じたメモなどを拾い集め、ゴミ箱に溜まりに溜ったゴミも袋にザザッと入れ、デスクや簡易キッチンの掃除を済ませた所で、私は女性から声を掛けられた。
「ごめんなさいね、変なところを見せてしまって。」
「いえ、お気になさらずに。」
そう、気にしてはならないのだ。
何故なら、私は物語りで言えば、名も無き通行人A役なのだから。
社長がこのヒトと〇〇している所なんて、見てません。
私は空気です、壁です。
何も見ませんでした。
だから、こっちをあまり見ないでくれると嬉しい。
そうでもないと、見てないモノを思い出してしまう。
女性は暫く真正面からジッと私を見つめていたが、急にふわりとした微笑みを浮かべた。
その微笑みは、私のお母さんとは違って、洗練されていて、気品に溢れていた。
それだけで、私はこの女性が私みたいな一般人とは違う世界に住んでることが分かってしまった。と言うより、気付いてしまった。
そして、女性が誰かであることも。
そして、私のその考えは、女性によって証明された。
「育美さんは責めないであげて?私が我慢できなかったの」
この会社の社長の名前を気安く呼べて。
「それにしても、おかしいわね。この時間は春乃が来るのに。」
しかも掃除に来る担当者の名前を把握している事から、このヒトは間違いなく。
「いえ、奥様。お気になさらないで下さい。私は何も見てませんから。」
にっこり、営業スマイル。
タオル越しの挨拶だったので、声はくぐもってしまったが、逆にそれで今回は助かった。
ぺこりと女性(多分、社長の奥様の冬子さん)に頭を下げ、私はきびきびと通された社長室を息吐く間もなく、けれど丁寧に片付け、掃除し、退散した。
そして廊下に出てきた私を、小泉さんは苦笑で「お疲れさん」と出迎えてくれたのだが。
小泉さん、知ってたんなら、教えてくんないかな?
その後は、主に各フロアのトイレ掃除やゴミ集めを中心に掃除を進め、派遣一日目はあっという間に終了した。
まさか、私が集めたゴミの中に大切な書類が入っている事も知らずに。
それに気付いたのは、真夜中に社長に頼まれて資料を取りに行った秘書だった。