〇4〇~side春乃~
折角だから泊まって行けば良いのに、と宿泊を勧める女性、――杏子さん――の誘いをなんとか穏便に辞退して、すっかり日の沈んでしまった外へと出る。
ふと夜空を仰ぎ見れば、月が青白く淡く輝いていて、久しぶりに空を見たなと実感する。
普段ならそんな事さえも気付かずにその辺りをフラフラと歩き回り、また朝を迎え、ごく偶に派遣会社からその日限りの仕事を請け負い、後は適当に過ごしていたが、今日はそれを初めて恥ずかしい事なのだと自分は自覚した。
俺の家は、小泉カンパニーと言う輸入家具や材木、住宅・装飾品を取り扱う会社で、海外との取引もあるそこそこ名の知れた会社を経営していて、還暦をとうの昔に迎えた親父が未だに社長兼会長として第一線で辣腕を振るっている。その親父の夢が俺を含め三人の息子の内の誰かに会社を継いで欲しいと言うモノで、(因みに俺は次男だ。)俺はそれが嫌で大学を卒業してからは滅多に家に寄り付かなくなった。
今時会社の社長など世襲制じゃないのが普通だと、逃げていた。
そう。逃げていたんだ。
今日の昼、偶然にも腹をすかせ倒れてしまった俺が迷惑を掛けてしまったのは、普通なら夏休みであろう今頃、海だプールだとはしゃぎ遊んでいる筈の年頃の少女。だが俺が迷惑を掛けてしまった少女は、明かに労働者たる雰囲気をその身に纏わせていた。
事実、彼女の手は年頃の少女達とは明らかに異なり、痛々しいほど荒れていた。なのにそれを恥ずかしいとも思わずに黙々と食事を作り、食べる姿は、自分が今まで忘れていた人間としての、社会人としての基本的な姿だった。
それに気付いてしまった俺は、猛烈に自分が恥ずかしくなってしまったのだ。
今からでも、間に合うだろうか・・・。
まだ親父の会社に入ろうとは思えないが、何かを始めたいと、何かを始めなければと、頭の何処かでもう一人の自分が叫んでいる。
だから、俺は・・・――。
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ガチャリと、鈍い色を放つ合い鍵で自宅の玄関を開ければ、何かが自分に飛びついてきた。
慌ててそれを振り払えば、それはキャンキャンと甲高い声をあげ、尻尾をぶんぶんと千切れそうな程振り、喜んでいた。
どうやら俺がいない間にまた新たに『家族』が増えたらしい。
この間帰った時は確か猫の『エルシアン』だったか。さて、彼女の機嫌はどうだろうかと、なおも俺の足下で吠え続けている、おそらく室内犬であろう小犬を抱き上げ、靴を脱ぎ家に上がり、リビングに向かえば、そこにはなんと平日の夜だと言うのに両親が揃って、何やら書類と真剣に向き合っていた。
俺は正直、こんな真剣な目をした親父を見た事がない。
今までは面倒な事から逃げたいと現実から目を逸らし、逃げていただけだからそんな機会がなかったのだろう。 でもこれからは。
すぅーーっと何度か深呼吸を繰り返し、俺は久しぶりにあの言葉を音に出した。
「父さん、母さん、ただいま」
と。