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小野田 杏子。
彼女は私の母にして小野田家のムードメーカー的存在で、良くも悪くも順応性が著しく優れていて、先程知り合ったばかりの人の事情を説明をするや否や、きゃらきゃらと笑い、スーパーで買ってきた恐らく見切り品であろう食材を使って、夕飯にしては早い時間から食事を作り始めた。
多分お母さんがいなかったらウチは一家離散していたと思う。お母さんがお母さんだったからこそ私と父はクヨクヨせずに済んだのだ。
そんな所が敵わないなと素直に思えるのは、あまりにも母が楽天的で、前向きで、向上心がすさまじく、好戦的だから。
お金がなくなったのなら稼げばいい。
会社が倒産したのならまた起業すればいい。
家なんか雨風が凌げればいい。立派な家に住みたければその分働けばいい。
生きてるだけで人は無限の幸せの種を持っている。
と言うのがお母さんの考えだった。
そのお母が作った夕飯はチキンカレーともやしのサラダの二品で、ご飯はしらたきと一緒に炊飯されて嵩増しされていた。
このご飯が何とも貧乏くさいと馬鹿にする人がいるかもしれないけれど、このご飯にしてからは便秘知らずで助かっている。それに効くのは便通だけじゃなくて、肌の張り艶にも良いと思う。
その証拠にニキビが消えたんだもの。
肌も綺麗になって、食べて痩せられるなんて最高でしょ?
そんな我が家のご自慢カレーを無言で黙々と平らげていた名無しさんは、両手をパンッと合わせ、満足げに溜息をついた。
そして・・・。
「御馳走さま、美味しかったです。えぇーっと、」
「杏子よ。杏子さんって呼んでね」
にっこりと微笑んだお母さんは名無しさんに右手を差し出し、握手を求め、握手を求められた人はそこで初めて幾分か表情を和らげた。
あぁ、うん。判る判る。
ヒトってお腹がすくと顔の表情筋が厳めしくなっちゃうよね。
人生で生きてる中、空腹程虚しいのは無いと思うよ?
「・・・小泉、春乃です。今日は突然お邪魔した上に食事まで頂きまして、本当にお世話になりました。」
ふわっと微笑んだ名無しさん改め、小泉 春乃さんは、ガツガツとカレーを食べている私をちらっと横目で見て、何かを言い掛け、結局は何も言わずに口を噤んだ。
その様子を傍から見ていた我が家の偉大なるお母サマは――。
「梅ちゃん、春クンにきちんと挨拶なさい。ママは梅ちゃんを挨拶が出来ないお馬鹿さんに育てた覚えはないわよ」
春乃さんの驚いた表情を気にもとめずに、私に挨拶するように促し、私はそれに従い一時食欲を(強制的に)忘れ、ぺこりと頭を下げた。
「初めまして、小野田 梅子です。今度は倒れる前に何かお腹に入れて下さいね」
コレが私と彼の最初の出会いだった。