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それはいよいよ夏もこれからと言うべき、7月に入った初日の事だった。
ちりんちりん、と、風鈴の奏でる音が聞こえる狭い事務所の中で、お父さんはガバリと私に前置きなく突然頭を下げてきた。
そして。
「すまん、梅子。工場が潰れた。それに借金があるからお前の学費も出せなくなる。」
まだ社会のしの文字も仕組みも知らない、ただの小娘でしかない私に頭を下げるお父さん。
前々からヤバいヤバいと言っていたり、予想していたにも拘らず、どうにも出来ずに親会社の倒産の煽りを受けて閉鎖せざるを得なくなったウチの工場。
元々ウチは小さな工場だったし、親会社は親会社で勝手にライバル社との売上競争に負けて自爆した、いわば完全な負け組なだけであって、なるべくしてなってしまった結果だから別に誰が悪いという訳でもない。それに私もお父さんに伝えなきゃならない事があるし。
私はお父さんが頭を完全に上げるのを待ってから、ヘラリと笑って爆弾を投下した。
「実は、学校ね、昨日付けで自主退学させられちゃったの。授業料払えない家庭の子は退学して下さいって。いやぁー、驚いちゃった。ごめんね?」
表向きは自主退学と言う形にはなってはいるけれど、実は学園側に経営の損失を出さない為の強制退学。 奨学金を利用しても払えきれない学費だから、辞めろと言われた時は、一体アンタ達は何時代の人間なワケ?と本気で正気を疑ったわ。
だってねぇ?
貧乏人は出て行けって真正面から言ってくる大人と言うか教師と言うか、遺物がまだこの世の中に存在してただなんて。
どうりでエコ贔屓が激しかったワケだ。そう言えば、お気に入りの生徒や、寄付金の多い家の子は優遇され、一般家庭の子たちは冷遇されてたっけ?
元々制服のデザインの可愛らしさが理由で入っただけだし、別に心残りなんて大してない。と言うワケで。
「私も晴れて(?)無職になった訳だし、バイトでもするから別に謝らなくてもイイよ?」
きゃらきゃら笑って言えば、お父さんとお母さんは少し戸惑ったようだけれど、私があまりにも能天気に笑うものだから溜め息を一つ吐き、漸くいつもの明るい笑顔を浮かべた。
「それにしても最近は特に凄いわね、〔小泉カンパニー〕さん。三郷さんを自滅させるなんて」
「自滅って、お母さん」
「あら何よ、梅子。ママ何か間違ってる事言った?」
お母さんはお父さんと結婚する前は事務員だったみたいで、親会社のライバル社を恨むより褒め称える事が出来る人。普通は恨むんだけどね。だって、その方が精神的にも楽になれるし。なのにウチの家族は。
「いざとなったら首を括ってしまえば良いんだから、とりあえず頑張ってみましょうよ。あなた、梅子。」
「そうだな」
「うん、そうだよね。とりあえず、私は明日からバイトするね」
三人の力を合わせて、出来る事をしつつ頑張って行こうと決めた。
それが先月の事。
時は流れ、今は太陽がじりじりと照りつける夏本番である八月。
運良く清掃のバイトの空きに滑り込む事が出来た私は、もうここ最近の日課である駅ビルの清掃をすべく、緑色の作業着に、緑色の三角巾、そしてゴム手袋に運動靴と言う出で立ちで、床をクリーナーで磨いていた。
最初は慣れない作業で手間取っていたけれど、若いだけあって慣れれば意外と簡単で、そして結構時給も良かった。それにこのバイトは他のバイトと掛け持ちも許可されてるから、今のところ家族で首を括らなくて済んでる。
お母さんはお母さんで、実はあの日の内すぐに、少し離れた所にあるお弁当屋さんのパート社員の採用を貰ってきて、お父さんはお父さんで、うん、どうしてか今はマグロ漁船の乗り組員になって、生き生きと働いてるみたい。たまに届くはがきにはいつも笑顔の写真が写ってる事から、多分遣り甲斐を感じてるんだと思う。
「一時期はどうなるかと思ったけどね・・・。」
まさか借金してる所がその筋の金融会社だったと知った時はどうしようかと思った。
殺されるんじゃないかとか、風俗の店に売られるんじゃないかとか思ったけれど、意外とまともな所だったみたいで、お金さえ返せば無理難題は言わないと約束してくれたらしい。
返済日は毎月の月末。
頑張って働けば、生きている内に返済は可能だとか。
と、そんな事を思い出し、ついつい前方不注意になりかけていた私は、ドスっと音を立て、何か柔らかくて硬い様な壁にぶつかり、そのせいで痛めた低い鼻を押さえた。そしてその壁は急に何の予告もなしに、私の方へとゆっくりと倒れ込んできた。
その直後に微かに聞こえてきた音で、私はそれが壁ではなく、生きている人だと理解出来たのだった。