月姫の事情・2
木々の向こうで、突然麻衣亜が太陽王に抱き着いた。
ツキンと、胸の奥が痛んだ。
――嫌よ、ダーリン! 私はここよ! 他の人を抱き締めないで! 早く私をぎゅっとして!
頭の中で本能が騒ぐ。今すぐにでも傍に駆けて行きたくなるのを、目を閉じてぐっと堪えた。
懸命に顔を逸らして、彼らがいる方とは逆の方向へと、秋穂は足を動かした。ずんずんと何も考えないように森の中を歩き、一時間ほど我武者羅に歩き続けて、やっと足を止める。
辺りは空高くそびえ立つ木々と、その葉によって日の光が遮られ、しっとりとした薄暗さの中で、どこからともなく鳥の声が響いていた。
はあはあと荒く息を吐く秋穂の周りに、先ほど闇の中で見た六色の光が漂う。
『姫様姫様』
『あっち、王様が……』
『いいの? 姫様』
「うん、大丈夫よ」
深く息を吐いて呼吸を整え、そう笑いかけると、六色の光はくるくるとその場で円を描いたかと思うと、ぱあっと光が大きくなり、光の中から小さな影が現れた。
赤い光の中から現れたのは、赤い毛並みの仔猫だった。ぐっと体を伸ばし、ニャーと可愛らしく鳴いた猫のお尻で、長いしっぽがしなやかに揺らめいている。
次いで、青い光から姿を現したのは、標準よりも大分大きいサイズの青い金魚だった。大きな尾ひれと胸びれが重ねられたレースのようにひらひらと踊っていて、水もないのに優雅に宙を泳いでいる。
そして、水色の光から現れたのは、薄水色のヒヨコだ。別にカラーヒヨコというわけでは無い、これが彼本来の色なのだ。そして、小さい羽根にもかかわらず、自由に辺りをパタパタと飛び回っている。
緑色の光の中から出てきたのは、緑の毛色のリスだった。大きなふわふわのしっぽが愛らしく、きょとんと首を傾げながら、秋穂の肩へと登ってきた。
次に、白い光の中から現れたのは、真っ白なポメラニアンのような犬種の仔犬。そのほわほわの毛並みをかき分けると、背中には小さな羽がちょこんとあって、小さなしっぽと一緒にぱたぱたと揺れている。
最後に、紫色の光から現れたのは、少し小さめの黒色のアライグマだった。素早く、リスとは反対側の秋穂の肩に登ったアライグマの背中には、黒い小さな羽根が生えていて、ちょこちょこと動いていた。
実は、彼らは神獣の使いである聖獣で、今は神獣の力が失われているため、小さい動物の姿になっているのだ。ちなみに、赤い猫は火、青色の金魚は水、水色のヒヨコは風、緑色のリスは地、白の犬は光、黒いアライグマは闇の聖獣である。
彼らは、月姫の神殿への旅を助けると共に、神殿への道案内も任されていた。
彼らのそのあまりの愛らしさに、秋穂はその場で悶えまくり、もふもふ撫で繰りまくり、抱き上げてくるくると回りまくって、気が付けば相当の時間が経っていたのだが。
それから、秋穂の旅は大変だった。
聖獣との相談の結果、まずは風の神殿に行こうという話になったのだが、秋穂は無一文であった。そのため、途中にあった町に立ち寄ってみたものの、宿に泊まることも食べ物を買うこともできなかった。
だから旅の道すがら、山の中で果物やきのこ、山菜を採ったり、魚を捕ったりして腹を満たした。幸い、地の聖獣の知識で食べれるものと食べれないものの区別はついたし、火の聖獣が火を吐いてくれたので、火おこしに苦労することも無かった。
夜は気配に敏感な風の聖獣が見張りをしてくれ、地の聖獣が木に交渉してくれたので、快適とは言えないが安全な寝床を確保することができた。
また、途中で地の精霊が見つけてくれた宝石の原石などを町に寄ったときに売りに行ったが、秋穂はこの世界の通貨や交換価値までは知らなかったので、宝石商の言い値で売ってしまった。だが、それが随分と安い値で買い叩かれたのだと気づいたのは、それが聖獣達いわく希少な宝石の原石だったにも関わらず、宿の食堂で一食分の料金にしかならないと分かったときだった。その宿で女将に大まかなお金の知識を教えてもらい、その後宝石商に文句を言いに行ったが、とぼけられ、終いには店から叩き出された。
それ以降は、徐々に原石を売るときや、食料等を買うときの交渉もうまくなっていったが。
風の神殿までの道のりでも、長く先は見えず、野宿ばかりで常に体の疲れは付きまとったし、空腹とも隣り合わせだった。
それに、この世界に魔物はいなかったが、地球と同じように山の中には危険な生き物達もたくさんいた。秋穂は、月姫として神獣を蘇らせるだけの膨大な魔力を秘めていたし、聖獣達も一緒にいたが、彼らに力を与える存在である神獣が眠りに就いているため、聖獣達の使える力は小さく、また、秋穂も魔術も使えず身体能力も通常人と同じだったため、命辛々の目に遭ったこともあった。
旅は決して順調なことばかりではなく、苦しいことも辛いことも多かった。それでも秋穂が諦めずに歩き続けることができたのは、全てを終わらせれば元の世界に戻れるという希望があったからだった。
これが終われば帰れる。あの温かく柔らかな布団で寝て、お母さんのご飯をお腹いっぱい食べて、お父さんにお小遣いもらって、姉や友人達と思い切り遊んで、羽目を外し過ぎて時々兄に叱られて。そんな日々に戻れると、その日を夢見ながら秋穂は歯を食いしばって先を進んだ。
苦しいとき泣きそうになるたびに、頭を過るかの人のことは、必死で考えないようにしながら。
一月ほどかかってようやく風の神殿にたどり着き、風の神獣を目覚めさせることができた。おかげで風の聖獣の力も増し、風の力で空を飛ぶことが可能になったため、秋穂の旅はこれまでよりも格段に早く安全に、そして楽に移動することができるようになった。
そうして、風の聖獣の力を借りて、火の神獣と地の神獣を蘇らせることができた。
神獣を蘇らせるのは、極力人目に付かないように、夜中や明け方に行った。秋穂としては、自分が月姫だと知られたくは無かったからだ。
しかし、水の神殿にたどり着いたとき、秋穂は風の聖獣から、夜中であっても警護の人が多くなっているということを知らされた。別に悪いことをしているわけでは無いのだが、噂では月姫マイアは今は王都に居るということなので、この神獣の蘇るタイミングはやはり不審感を与えていたのだろうと、秋穂は眉根を寄せた。
だからといって、一刻も早く地球に帰りたかった秋穂としては、麻衣亜の動きを待つということは考えられなかったのだが。
仕方がないので、風と地の聖獣の力で、無害な眠り薬をばら撒き、警護の人達が眠ったところで水の神獣を目覚めさせた。