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囁く魔貝〜その音は神託か、それとも破滅か〜

作者: 風谷 華
掲載日:2026/07/04

その村、レンフェルトは、神の慈悲をそのまま形にしたような場所だった。

村の誰もが穏やかに微笑み、誰もが優しさに満ちていた。


なだらかな丘陵に広がる麦畑は、風が吹くたびに数百万の穂が擦れ合い、サァァ……サラサラサラ……と、大地の女神が衣を翻したかのような清らかな音を響かせる。


朝霧の向こう、精霊の森の奥には古い修道院の石造りの鐘楼がそびえ、夜明けとともに、ゴォォォン……ゴォォォン……と深く厳かな祈りの鐘を鳴らしていた。


夕暮れになれば、放牧から戻る牛たちの真鍮の鈴が、カラン、コロン、カランと優しく揺れる。


家々の煙突からは灰色がかった白い煙が立ち上り、暖炉では薪がパチパチ、パチパチと温かな音を立てて爆ぜる。共同薪窯からは焼き上がったライ麦パンの香ばしい匂いと、村人たちの穏やかな笑い声が毎日聞こえてきていた。


エリナは、こののどかなレンフェルトを何よりも愛していた。


「ノア、気をつけて。そこを動かないでね。今、熱い薬湯を注ぐから」


石造りの自宅の台所で、エリナは優しく声をかけた。


足元では、艶やかな毛並みを持つ小さな黒猫のノアが、ミャアと短く鳴いて丸くうずくまっている。


エリナは薬草園で働き、傷薬の軟膏や煎じ薬を作って生計を立てていた。


乾燥させた薬草を乳鉢で磨り潰すときの、ザク、ザク、ジャリ、ジャリという小気味よい音を聞くと、彼女の心は不思議と落ち着いた。


夜、ルカが森から帰ってくるときの、ザッ、ザッ、と土を踏みしめる力強い足音が聞こえると、エリナの胸はじんわりと温かくなった。


ルカは実直で物静かな木こりだった。


彼の手はいつも松脂の匂いがし、手のひらには無数の硬いタコがあったが、エリナを抱きしめる手は、とても優しかった。


「エリナ、ただいま。今日の分の薪を運んでおいたよ」


「おかえりなさい、ルカ。晩ごはんは温かいシチューよ」


中央の王都でどれほど血生臭い王位継承の争いがあろうとも、海の向こうの国でどれほど凄惨な飢饉が起ころうとも、この村には関係のないことだった。


外の世界の惨劇は、たまに訪れる旅の商人が酒場で語る、現実味のない、遠くの雑音に過ぎなかった。


少なくとも、あの魔貝が村に持ち込まれるまでは。




ある冬のはじめ。

午後の森に、初雪がさらさらと降り積もろうとしていた。


レンフェルトの村に、それまで見たこともないような不気味な一団がやってきた。


彼らは、王都の紋章である三つ目の大烏が刺繍された漆黒のローブを纏っていた。


恐ろしいことに、彼らは馬の足音すら消音の魔術で完全に消しており、まるで見えざる死神の軍勢が滑り込んできたかのように、音もなく村の広場へ現れた。


先頭に立つ男は、痩せこけた顔にギョロリと大きな目を光らせていた。


王都から派遣されたという、黒の使者だった。


「レンフェルトの民よ、集まれ! 王命である!」


使者の声は拡声の魔術によって増幅され、村中の家々の窓ガラスをビリビリ、バリバリと激しく震わせた。


あまりの音圧に、子供たちは耳を塞いで泣き叫んだ。


恐怖に駆られた村人たちが広場へ集まってくる。


エリナもまた、ルカの腕にしがみつきながら、村人たちの後方からその様子を見つめていた。


使者は、馬の背から厳重に梱包された木箱を下ろさせた。


黒い布が引き剥がされる。


中から現れたのは、人間の頭部ほどもある、歪な形をした巨大な巻貝だった。


それは化石のようにどす黒く変色しており、奥深い殻の穴からは、地獄の底から吹き出すような冷たい風の音が、ヒュー、ヒュー、ルルルル……と不気味に漏れていた。


「これは、大いなる賢者たちと宮廷魔導師が作り上げ、我が国王陛下より全領土の民へと賜る、神託の魔貝ラジオ・コンキリアである」


使者は冷酷な響きを持つ声で朗々と告げた。


「これまで、王国の辺境に住まうお前たちは、あまりにも無知であった。世界のどこで何が起きているかも知らず、ただ家畜のように眠り、生きてきた。だが、時代は変わった。王国の民は、もはや無知であってはならない。遠き地にある災いの音を聴き、それに対して備え、目覚めよ。これこそが、民に与えられた義務である」


使者たちは、その不気味な魔貝を、村の象徴である聖堂の白い外壁に深く抉り込むようにして埋め込んだ。


ズチュ、ズブブブ、メリメリ……。


石壁がまるで生きた肉のように身悶えし、貝を受け入れる嫌な音が響き渡る。


さらに使者は、村長に一個の小箱を手渡した。


中には、人間の耳の形をした奇妙な結晶が入っていた。


魔貝が流した音を蓄積し、何度でも再生できる魔導具だという。


「毎日、必ず全員で聴き、知識を共有せよ。聴き漏らすことは王への反逆とみなす」


黒の使者たちは、それだけ告げると、また音もなく消え去った。


残された村人たちは、聖堂の壁に嵌め込まれたどす黒い魔貝を、遠巻きに見つめることしかできなかった。



やがて夜が訪れ、陽の落ちた大地は、音のない闇の帳(とばり)に包まれた。


魔貝の奥から、カタカタ、コトコト、カタカタカタカタ……と、まるで人間の歯が恐怖で激しく噛み合うような音が響き始めた。


最初に流れてきたのは、東方の交易都市グラナの悲劇の音だった。


『――臨時告。臨時告。東方のグラナにて、異教徒の潜伏工作員による大規模な放火が発生。現在も延焼中。被害、甚大――』


それは、若く美しい女性の声だった。


彼女は、あまりにも淡々と事実を伝えていた。


だが、その背後から響いてくる音は、あまりにも生々しかった。


轟々と燃え盛る炎が爆ぜる、バリバリ、ドガァンという音。


「助けてくれ!」と叫ぶ男の絶叫。


母親を求めて泣き叫ぶ子供の声。


何かが焼け、潰れ、崩れていく、聞いてはならない音。


それらが、まるで今、自分たちのすぐ隣で起きているかのような恐ろしい臨場感を持って、村の広場に響き渡った。


「な……なんだ、これは……」


村人たちは息を呑み、耳を塞いだ。


だが、塞いだ指の隙間をすり抜けて、その音は頭の中に直接響いてくる。


『――犯人は未だ逃走中。近隣の村々に潜伏している可能性あり。民よ、耳を澄ませ。あなたの隣にいる者の“呼吸の乱れ”を、絶対に見逃すな――』


その夜から、レンフェルトは一変した。


翌朝、村の井戸端では男たちが声を潜めて囁き合っていた。


「異教徒の放火魔が、こっちに逃げてきているかもしれないってことか?」


「昨夜、うちの裏でガサガサと音がした。獣かと思ったが……まさか」


「おい、声を落とせ。誰が聞いているかわからん」


それまで朝の市場には、女たちの笑い声や子供たちの走り回る足音が満ちていた。


だが、その日から、村人たちは他人の足音や呼吸音を盗み聞きするようになった。


誰かが少し咳をするだけで、周囲の視線が一斉に向けられる。


扉には大きな鍵がかけられ、夜間に窓がガタ、ガタッと鳴るだけで、家中の者が恐怖で跳び起き、農具を握りしめるようになった。


それでも、村はかろうじて形を保っていた。

忍び寄る恐怖に怯えながらも、人々はまだ、薪窯のパンを分け合う優しさを失ってはいない。牛の鈴の音に安堵し、教会の鐘に祈りを捧げる――そんな細い糸のような日常を、彼らは必死につなぎ止めていた。



だが、魔貝は毎晩、さらに新しい音を運んできた。


ある夜は、北方から南下しているという魔狼の群れの音だった。


『――飢えた魔狼は足音を立てません。奴らは静寂の中から現れます。何も聞こえない夜ほど、警戒せよ――』


音声の背後で、ガリ、ボキ、ベチャ……と、人間の骨を噛み砕くような音が響いた。



また別の夜には、流行り病で滅んだという村の音だった。


『――最初の兆候は、小さな咳。次に、濡れた呼吸。最後に、喉の奥で鳴る水音――』


ヒュー、ゼェ、ガホッッ……。


誰かが血の混じった粘液を吐き出すような音が、暗い広場に広がった。




それらの音を耳にするたび、レンフェルトの人々は、もう自分たちの未来を信じられなくなっていった。


赤ん坊の泣き声は、災いの前兆に聞こえた。


老人の咳は疫病の始まりに聞こえた。


風に揺れる枝の音は、魔狼が忍び寄る足音に聞こえた。


そして、何も聞こえない夜は、もっと恐ろしかった。


静寂そのものが、何かが潜んでいる証拠のように思えたからだ。


かつてなら、旅の楽師がやってくれば、村人は大喜びで歌を聴いた。


だが今や、楽師がギターの弦をべ、ベン……と弾いた瞬間、若者たちは顔色を変えた。


「不吉な合図の音だ!」


「やめろ! その音を鳴らすな!」


楽器はバキバキに叩き壊され、楽師は村の外へ追い払われた。


音楽が消え、笑い声が消えた。

そして、誰もが自分だけが正しいと信じるようになった。


エリナもまた、その恐ろしい音の呪縛から逃れられなくなっていた。


彼女は毎晩、夕食が終わると、何かに引き寄せられるように聖堂の前へ足を運んだ。


聴けば、必ず恐ろしい音が脳裏にこびりつき、夜も眠れなくなる。


だが、聴くのをやめることができなかった。


もし、今夜の知らせを聴き逃してしまったら。


自分の知らないところで、新しい災いがこの村に向かう足音を立てているかもしれない。


聴かなければ、身を守れない。


音を聴くことで、安心できる未来が来る。

エリナは、そう信じていた。


夜、冷え切った身体で帰ってくる妻を、ルカは暖炉の前で静かに待っていた。


彼の顔には、深い悲しみが陰を落としていた。


「エリナ……」


ルカはそっと彼女の肩に手を置いた。


彼の手はいつも通り温かかったが、エリナの手は氷のように冷たくなっていた。


「あの魔貝の声を聴くのは、もうやめないか。お願いだ。あの音のせいで、エリナは苦しんでいるんじゃないか?」


「苦しんでる?どうして?」

エリナはルカの目を見ようともせず、耳をピクピク、ピクピクと不自然に動かしながら、早口で言った。


「あの音のおかげで、悪いことを防げているのに?」


「防げている?」


ルカの声がわずかに震えた。


「何を防げたんだ。あの貝が来てから、村から音楽が消えた。君の笑い声も消えた。今日、森ではただ風が木々を揺らす音しかしていなかった。サラサラと、とても静かだった。それなのに僕は、その静けさまで怖くなった」


エリナは唇を噛んだ。


「それは、あなたも分かっているからよ。世界が壊れているって」


「そんな!世界は壊れてなんかないよ」


ルカは首を横に振った。


「世界のどこかで悲しいことは起きているかもしれない。でも、今ここにある薪の音も、君の声も、ノアのゴロゴロという喉の音も、本物だ。どうして遠くの地獄の音のために、目の前の暮らしまで壊さなきゃいけないんだ」


「だめ、無理っ!怖いの!」


エリナは叫んだ。


その目は微かに血走っていた。


「遠くで起きたことだったとしても、何も聞こえない顔をして、世界は少しずつ確実に壊れていっているの! 今、私たちがこうして話している間にも、悪意を持った誰かが、この村の静寂を切り裂こうと近づいているかもしれないのよ! 私は……私は、あなたを守りたいだけなのに!」


ルカはしばらく何も言わなかった。


ただ、悲しげに目を伏せ、ぽつりと呟いた。


「……君が守ろうとしているのは、本当に僕なのか。それとも、君自身の怯える心なのか」


二人の間に、冷たく分厚い、見えない壁がそびえ立った。


足元では黒猫のノアが、怯えたようにウゥゥゥ……と低く唸り、自分の耳を前足で塞ぐような仕草をしていた。



その翌日、

ルカは初めて、自分から聖堂の前へ向かった。


エリナを止めるためではなく、自分の耳で確かめるために。


魔貝はその夜、これまでで最も静かな声を流した。


『――警告。警告。王国はすでに、内側から深く侵されている。裏切り者は、お前たちのすぐ近くにいる。神聖なる教えを汚し、異教徒と通じる内通者が、この地域にも紛れ込んでいる。不審な呟きを聴き逃すな。親しい者の声ほど疑え――』


親しい者の声ほど疑え。


その言葉は、ルカの耳の奥に細い針のように残った。


その夜、ルカは眠れなかった。


隣で眠るエリナの寝息が聞こえる。


スゥ……スゥ……。


いつもなら、愛おしい音だった。


だがその夜だけは、違って聞こえた。


エリナは本当に眠っているのだろうか。


寝たふりをして、何かを聴いているのではないか。


昼間、彼女は薬草園で誰と話していた。


あの小さな呟きは、ただの独り言だったのか。


それとも。


「やめろ!」


ルカは自分の頭を両手で押さえた。


「違う。僕は何を考えているんだ」


だが疑いは、一度耳に入ると抜けなかった。


小さな棘のように、心の内側でチクチク、チクチクと鳴り続けた。



それから数日後。

ルカが恐れていた狂気は、最悪の形となって、ついにその姿を現した。


粉屋の息子ジェイクが、内通者だと疑われたのだ。

夜中に裏庭でブツブツ、ゴニョゴニョと何かを呟いていたから、らしい。



「南方の訛りが少し混ざっているだろ!」


「あの地域では反乱が起きたんだ!」


「聞いたんだ、俺は! あいつが夜中に呪文を唱えている音を!」


翌朝、若者たちが粉屋の家に押し入った。


「そんな! 呪文なんか唱えてない! 俺はただ――」

ジェイクの叫びは、汚れた布で塞がれた。


ガタバタ、ドカドカ。


床を蹴る音。

誰かが殴られる鈍い音。

そして、納屋の地下室の鍵が、ガチャリと閉まる音。


実は、ジェイクが夜中に呟いていたのは、亡くなった祖母への祈りの言葉だった。


けれど、誰もそんな真実には耳を貸さなかった。


魔貝に耳を澄ませている者ほど、都合の悪い声は聞こえなくなっていた。




ある日、

ルカは森から戻る途中に、若者たちに囲まれた。


「ルカ。お前の妻、毎晩ずいぶん熱心に魔貝を聴いているそうだな」


「何が言いたいんだ」


「熱心すぎる者も怪しい。災いの音に、呼ばれているんじゃないのか?」


「エリナを疑っているのか?」

ルカは低く言った。


だが、その声は自分でも驚くほど弱かった。


若者たちが去った後、ルカはしばらく動けなかった。


エリナを疑いたくない。


そう思った。

思いたかった。


しかしその夜、彼女が寝室で小さく呟いた声を、ルカは聞いてしまった。


「……もっと、聴かなきゃ」


ルカの心臓が、ドクン、と嫌な音を立てた。


もっと、聴かなきゃ。


その声は、妻の声だった。


だが、妻ではない何かの声にも聞こえた。


ルカは、自分の手が斧の柄を握っていることに気づいた。


そして次の瞬間、激しい嫌悪が胸を突き上げた。


「僕は……何をしているんだ」


愛する妻を疑った。

守りたかったはずの人を、恐れた。


その事実が、ルカの心を揺さぶった。


同じころ、エリナもまた、だんだんと眠れなくなっていた。


ベッドに入り、まぶたを閉じても、耳だけが異常に冴え渡ってしまう。


家がみしりと軋む小さな音。

夜鳥の羽ばたき。

夫の静かな寝息。


そのすべてが、魔貝の流していた惨劇の予兆のように聞こえて、身体の震えが止まらなかった。


あ……ああ……。


深夜、エリナは這い出すようにベッドを抜け出した。


裸足のまま、冷たい石畳を歩いて聖堂の前へ向かう。


広場には誰もいなかった。


ただ、聖堂の白い外壁に嵌め込まれた神託の魔貝だけが、周囲の恐怖を捕食するように、ヒュー、ヒュー、ルルルル……と漆黒の風の音を立てていた。


いつもなら、遠くの国のニュースが流れているはずだった。


しかし、今夜は違った。


魔貝の奥深い殻の穴から、信じられない音が聞こえてきたのだ。


「――ルカの足音、今日は少し重かった。何か隠しているのかしら。ああ、怖い。ルカまで私を疑っていたら、どうしよう――」


エリナは、全身の血が凍りつくような衝撃を覚えた。


それは、他でもない。

エリナが自分自身の心の中で、誰にも言わずに呟いていた声だった。


しかもその声は、濡れた泥をこねくり回すような、ジュクジュク、ヌチャヌチャとした不快な音の波に包まれていた。


「あ……あ……」


エリナが絶句していると、魔貝の奥から低い笑い声が漏れた。


ケタケタケタ。


ヒヒヒヒヒ。


だが、それが本当に魔貝の声だったのか、エリナ自身の喉から漏れた声だったのか、彼女には分からなかった。


『もっと聴きたいでしょう?』


声が、脳髄の最も暗い奥底から直接湧き上がる。


『知らなければ、お前はすべてを奪われる。聴かなければ、愛する者さえ守れない。さあ、もっと聴きなさい。もっと恐れなさい。世界はお前が思う通りの地獄だよ……』


「あなたは……誰なの……?」


『私は、何も生み出さない。ただ、お前たちの心が抱く恐れを音にしているだけ』


殻の奥で、何かがぬるりと蠢いた。

無数の人間の耳が、黒い霧の表面にびっしりと生え、それが一斉にピクピク、ピクピクと動いていた。


だが次の瞬間には、それはただの影に戻っていた。


魔物がいるのか。

それとも、エリナの心がそう見せているだけなのか。


分からなかった。


『お前たちは、世界が平和であることよりも、世界が破滅に向かっているという刺激的な恐怖を聴きたいのだろう?』


「違う……! 私はただ、みんなを守りたくて……!」


『では、なぜ毎晩、目の前にある夫の優しい呼吸音を無視して、ここにある血の音に耳を傾ける?』


エリナは息を呑んだ。


『恐怖は蜜よりも甘い。猜疑は眠りを奪う。そして眠らぬ人間の歪んだ心ほど、甘美なものはない』


その瞬間、魔貝の殻の穴から、ドロドロとした黒い霧が噴き出した。


エリナにはそう見えた。


霧は触手のように伸び、耳の形をした無数の肉片を震わせながら、彼女の顔へ近づいてくる。


ズブブ、ヌルリ、グチャリ、ジュルジュル。


濡れた内臓が擦れ合うような音が、耳元で鳴った。


「ひっ……あああああッ!」


エリナは逃げようとした。


だが、足が動かなかった。

耳の形をした触手が、エリナの耳元にぴたりと張り付いた。


死者の肌のように冷たい触手だった。




恐ろしい。

なのに、もっと聴きたい。


嫌だ。

なのに、知りたい。


『外の世界は、本当は壊れてなどいない』


声が囁いた。


『壊れているのは、最初から――』




「エリナ――ッ!」


聖堂の入り口の闇を引き裂いて、ルカが飛び込んできた。


手には、いつも森で使っている巨大な薪割り用の鉄斧を持っていた。


ルカの目には、妻の頭に吸い付こうとしている黒い霧が見えた。

それは、ただ聖堂の壁に落ちた影だったのかもしれない。


だが、そんなことはもうどうでもよかった。


ルカは、自分の中に生まれた疑いを、恐れを、妻を疑ったあの一瞬の醜さを、すべて断ち切るように叫んだ。


「もう、たくさんだ……!」


彼は鉄斧を振り上げた。


「僕たちの耳から、出ていけぇぇぇッ!」


斧が、神託の魔貝の中心へ叩き込まれた。


――グシャァァァァァッ!


――バキ、ボキ、メリメリメリッ!


貝殻が粉砕され、肉厚の殻が割れる音が響き渡った。


次の瞬間、魔貝の奥から、数万人の人間の絶叫を凝縮したような凄まじいハウリングが炸裂した。


ピィィィィィィィィィィィン――ッ!

ピィッ、ピィ、ピ……。


ルカもエリナも耳から血を流しながら、その場に倒れ込んだ。


魔貝の内部に蓄積されていた音は、一気に霧散していった。


黒い霧は消えた。

いや、最初からそんなものはなかったのかもしれない。


残ったのは、砕け散った貝殻と、静寂だけだった。


「エリナ……エリナ!」


ルカは斧を放り出し、床に倒れたエリナを強く抱きしめた。


「もういい。もう聴かなくていい。僕も……僕も、君を疑った。ごめん。怖かったんだ。世界じゃない。君を失うことが、怖かった」


エリナは、ルカの胸に額を押しつけた。


彼の心臓が、ドクン、ドクンと鳴っていた。


その音は、魔貝のどんな神託よりも近く、確かで、温かかった。


エリナは大粒の涙を流し、子供のように声を上げて泣いた。





ある朝、

風は静かに木々を揺らし、川辺では子供たちが無邪気な笑い声を上げていた。


小鳥たちはピヨピヨと鳴き、おおらかに空を飛んでいた。


だが、村人たちの心は、もう二度と元には戻らなかった。


魔貝が砕け散っても、人々の耳の奥にこびりついた不信の耳鳴りは消えなかったのだ。


人々は今も、隣人の足音を盗み聞きし、風の音に怯え、家々の扉を固く閉ざしたままだった。




ジェイクは釈放された。


だが、粉屋の一家は村中から警戒され続け、ひっそりと荷物をまとめて村を出ていく準備をしていた。



老神父は戻らなかった。


ある者は、王都の魔術に消されたのだと言った。

ある者は、森の奥へ逃げたのだと言った。

ある者は、最初から神父こそが魔物の手先だったのだと言った。


誰も本当のことを知らなかった。


それでも誰もが、自分の信じたい最悪の音だけを、何度も何度も心の中で再生していた。





エリナは自宅の暖炉の前で、静かに椅子に座っていた。

膝の上では、黒猫のノアが安心したようにゴロゴロ、ゴロゴロと喉を鳴らしている。


エリナの手には、新しい羊皮紙と、一本の羽ペンがあった。


サリ、サリ、サリ……。


彼女が書き連ねているのは、新しい物語だった。


遠い異国の災いを、声だけで人々に信じ込ませる不気味な魔貝。

その声を聴いた人間の焦燥、怒り、恐怖、不信を餌にして大きくなっていく、実体のない情報の魔物。


背後から、ルカがそっと近づいてきた。


彼はエリナの書いている文字列を覗き込み、寂しそうに尋ねた。


「エリナ。それは……また、新しい怖い話かい?」


エリナは、ピタリと羽ペンを動かす手を止めた。


そして、ゆっくりと顔を上げた。


「いいえ、ルカ」


彼女は表情の消えた顔で、ぽつりと呟いた。


「これは、怖い話なんかじゃないわ」


暖炉の薪が、パチ、と小さく爆ぜた。


「これは、私たちの話よ」






ルカは久しぶりに、深く眠っていた。

ノアも丸くなり、柔らかな寝息を立てている。


家の中は、静かだった。

穏やかな、柔らかい月の光が差し込んでいた。


風も弱く、窓が軋む音さえしない。


魔貝は砕けたのだ。

もう神託が流れることはない。


もう誰も、遠くの惨劇を聴かなくていいはずだった。


けれど――エリナだけが、暗闇の中で目を開けていた。


シン……。


何も聞こえない。


聞こえないはずだった。


エリナはゆっくりと起き上がり、裸足で冷たい床に降りる。

吸い寄せられるように、暖炉のそばへ歩いていった。


そこには、何もない。


ただ、冷え切った灰があるだけ。

砕けた薪の欠片があるだけ。

煤(すす)けた黒い影があるだけ。


それでもエリナは床に這いつくばり、狂おしいほどに耳を近づけた。


じっと。

じっと。

世界の終わりを待つように、耳を澄ませた。


――サラ……。

いいえ、ただの風の音。


――カサ……。

いいえ、灰が崩れただけ。


――ジュク……。

いいえ、そんな不快な音は、どこにもしていない。


何も聞こえない。


何も。

何も――。


それなのに、エリナの耳は、ピクピク、ピクピクと、飢えた獣のように不気味に震え始めた。


彼女の理性は叫んでいる。

ーー聴いてはいけない

ーーもう二度と、あの音に耳を貸してはいけない


だが、彼女の心の奥底で、悍(おぞ)ましい誰かがそっと囁いた。


(――本当に、何も聞こえないの?)


エリナの口元が、恐怖に歪む。


けれどその口端が、ほんのわずかに、恍惚とした歓喜によって吊り上がった。


ルカは、まだそれに気づいていない。



静寂に満ちた家の中で、エリナだけが、

存在しないはずのゾクゾクする音を、探し続けていた。

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