【悲報】産業革命期のロンドン、メシがマズすぎる。〜跡継ぎ不在で過労死した江戸前鰻職人が、ゼリー寄せを駆逐して英国中に蒲焼の匂いを振りまく話〜
本作は、**「産業革命期のロンドン」×「江戸前の職人気質」**という、少し変わった組み合わせの物語です。
舞台は1840年代、イギリス。 そこで主人公・伝次郎を待ち受けていたのは、伝説の迷作料理「ウナギのゼリー寄せ」でした。
「こんなの鰻じゃねえ、ただの泥煮だ」
職人のプライドを懸けて、煤煙の街に醤油の焦げる香りを響かせる――。 前世で「継承」を諦めた男が、異国で新たな「粋」を見出すサクセスストーリーをお楽しみください。
「……ああ、この味も俺と一緒に死ぬのか」
意識が遠のく中、伝次郎は神田の老舗『江戸川』の焼き場で、真っ赤に熾った炭を見つめていた。
視界の端で、古びた柱時計の振り子が、重苦しく空気を掻き混ぜる音を立てている。
カチ、リ、と刻まれる秒針の響きは、まるで乾いた砂が指の間からこぼれ落ちていく音に似ていた。
六十年間、一日も欠かさず握り続けた団扇。
指先には、幾度も塗り重ねたタレの色が染み込み、硬くなったタコが残っている。
だが、振り返っても、そこにはもう誰もいない。
激務と低賃金を嫌って若者は去り、伝次郎が守り抜いた「江戸前」の極意を継ぐ者は、ついに現れなかった。
使い古されたまな板の窪みに、西日が深く刺さり込んでいる。
そこには、かつて数え切れないほどの命を捌いてきた職人の、生きた証が、幾重にも重なる傷跡となって刻まれていた。
包丁の刃が当たるたびに増えた溝。
失敗も、誇りも、後悔も、すべてが木目の中に沈み込んでいる。
だが、その傷跡も今はただ、主を失う瞬間を待つだけの、言いようのない寂寥感に満ちていた。
ジュワッ、と脂の落ちる音が響く。
それは、人生の幕を下ろす合図のようでもあった。
過労で止まる心臓。
薄れゆく視界。
胸の奥で、冷え切った鉛がじわじわと広がっていくような重みが走る。
指先から感覚が消え、握っていた団扇が床に落ちる音が、やけに遠く、他人事のように響いた。
肺に溜まった最後の一息が、熱い炭の香りとともに、静かに吐き出されていく。
——だが。
次に鼻を突いたのは、馴染みきった炭の香りではなかった。
喉の奥が反射的にひきつる。
吐き気を催すような、「腐った泥」の臭いだった。
---
「……なんだ、この地獄は」
伝次郎は、ぬかるんだ土手の上で目を覚ました。
頬を撫でるのは、神田の夕風とは似ても似つかぬ、鉄と脂が混じったような重苦しい風だ。
若返った体。
だが、目の前に広がる景色は、まぎれもなく地獄そのものだった。
空は、巨大な煙突から吐き出される黒煙に覆われている。
目の前を流れる大河——テムズ川は、油とヘドロが混じり合い、もはや川とは呼べぬ毒の流れと化していた。
肺の奥に、煤けた空気の粒がへばりつく。
呼吸をするたび、喉の奥がチリチリと焼けるような異物感に襲われる。
泥の中に沈めた指先には、ヌルリとした粘土質の土が絡みついた。
それは、神田の清らかな水で洗われた鰻の滑らかさとは、あまりにもかけ離れた感触。
死を予感させる、冷たさだった。
そこで伝次郎の目に入ったのは、街角の屋台に無造作に並べられた、「怪物」の死骸だった。
ウナギのゼリー寄せ。
泥抜きもされぬまま、ぶつ切りにされたウナギを、生臭い煮汁ごと冷やし固めた代用食。
労働者たちは、それを泥水のようなエールで流し込んでいる。
濁った白濁色のゼリーの中で、ウナギの肉片が不規則に浮き沈みしていた。
それは、かつて伝次郎が「芸術」へと昇華させてきた生き物の、あまりに無惨な成れの果てだった。
灰色の空の下、感情を失った目をした労働者たちが、その塊を咀嚼する。
ぬちゃり、と湿った音が、伝次郎の耳を容赦なく打ちつける。
「これを……料理だと?
笑わせるな」
伝次郎の胸に、職人としての怒りが込み上げた。
一生を鰻に捧げてきた男としての、抑えきれぬ憤りだった。
跡継ぎもなく、すでに絶えたはずの技。
それが今、この食の暗黒大陸で、かつてないほど激しく疼き始めている。
握りしめた拳の中で、血管が脈打つ。
新しく手に入れた若い肉体が、熱を帯びて咆哮を上げているかのようだった。
霧に包まれたロンドンの街角で、
伝次郎の瞳だけが、炭火の芯のように、静かに、紅く燃え上がっていた。
---
伝次郎は、炊き出しをしている未亡人マーガレットの家の一部を借り、一本の鉄棒を叩いて「目打ち」と「包丁」を作り上げた。
石炭の火を使い、何度も、何度も叩く。
鉄が赤らみ、鈍い音を立てて形を変えていくたび、伝次郎の心象風景にある『江戸川』の焼き場が、少しずつ、だが確実に取り戻されていった。
ハンマーを振り下ろすたびに、肩の筋肉が悲鳴を上げる。
腕の芯まで、痺れが一直線に突き抜けていく。
その痛みさえも、彼にとっては、自分が「生きている」ことを確かめるための、極上の刺激でしかなかった。
そして、誰もが「泥臭くて食えたもんじゃない」と蔑む、テムズ川の巨大ウナギを、簗で引き揚げた。
バケツの中で暴れるウナギの、力強い振動。
それが、若返った腕に、はっきりと伝わってくる。
生きるために泥を這い、油にまみれ、それでもなお逞しく育った命の重み。
伝次郎は、その生命力を愛おしむように、しかし冷徹な職人の目で、静かに見極めた。
「見てな。
これが『江戸前』の、本当の仕事だ」
一、泥抜き。
清水の樽で、三日間。
体内に溜まった泥を、徹底的に吐き出させる。
三日間、水音だけが響く静寂が流れた。
樽の底でウナギが身を翻すたび、水面が揺れ、光の粒が壁に反射する。
時間は、まるで氷が溶けきるのを待つかのように、緩やかに、そして重厚に過ぎていった。
二、割き。
自作の包丁が、一閃。
目にも止まらぬ速さで、ヌメリを抑え、背から開く。
まな板の上に、命が置かれる。
刃先が皮一枚をなぞる感触。
確かな抵抗。
それを越えた先にある、吸い付くような身の弾力。
伝次郎の手元だけが、狂った時間軸から切り離されたかのように、静謐で、残酷なほど正確な円を描いていた。
三、串打ち。
均一な焼きを入れるため、一ミリの狂いも許さず、串を通す。
竹串が繊維を分かつ、かすかな音が、静かな仕事場に響く。
指先に伝わる身の張り。
どこに脂が乗り、どこに力が溜まっているのか。
それを読み取る感覚は、言葉を超えた、鰻との対話だった。
四、蒸し。
そして……ロンドンには存在しない、「蒸し」の工程。
身を、極限までふっくらとさせる。
蒸し器から立ち上る白い煙が、ロンドンの煤けた空気の中で、異質なほど清らかに舞い上がる。
その立ち込める蒸気の向こう側で、ウナギの身が柔らかく、まるで呼吸を始めるかのように、静かに膨らんでいった。
煙突の煙が立ち込める路地裏で、伝次郎は、自ら焼いた木炭に火をつける。
周囲からは、「変な東洋人が蛇を焼いている」という、冷ややかな視線が飛んだ。
だが、伝次郎は気にも留めない。
ただ、炭の爆ぜる音と、灰の舞う速度に、全神経を集中させていた。
伝次郎が、団扇を一振りする。
その瞬間、
空気は、一変した。
---
「……香ばしい。
この香りは、一体どこから?」
最初に足を止めたのは、東インド会社の元役員、ヘンリー卿だった。
彼は世界中の珍味を味わい尽くし、ロンドンの単調な食事に、とうに絶望していた男である。
その顔には、贅を極めた果てに辿り着く、砂を噛むような退屈が、薄く張り付いていた。
伝次郎は、何も言わず、一枚の皿を差し出した。
タレはない。
そこにあるのは、完璧に焼き上げられた白焼きだけだ。
真っ白な身から、透明な脂が静かに溢れ、炭の上で小さな篝火を生んでいる。
「……っ!?」
ヘンリー卿がそれを口に運んだ瞬間、
その場にいた全員が、息を呑んだ。
時間が、止まる。
行き交う馬車の轍の音も、工場から流れる喧騒も、
すべてが、霧の向こうの出来事のように遠ざかっていった。
表面は、サクッと小気味よい音を立てる。
だが中は、雪解けのように柔らかい。
噛み締めるたび、泥臭さなど微塵もない、純粋で濃厚なウナギの脂が溢れ出した。
喉を通るその温もりが、心臓の奥まで溶かしていく。
そんな錯覚に、卿は囚われる。
ヘンリー卿の眼窩に、熱いものが滲んだ。
それは、文明の果てでようやく辿り着いた、剥き出しの「生」の味だった。
「君は……
魔法使いか?
それとも、東洋の神か?」
震える声でそう問われ、伝次郎は不敵に笑う。
その笑みには、幾多の夜を焼き場で過ごし、
孤独と向き合い続けてきた男だけが持つ、深みが刻まれていた。
「魔法じゃねえよ」
一拍、置いて。
「これは、俺が前世の死に際まで守り通した……
職人の意地ってやつだ」
---
「旦那。
驚くのは、まだ早い。
これはまだ……半分だ」
伝次郎は、ヘンリー卿に一枚の書き付けを手渡した。
そこに記されているのは、「醤油」と「みりん」の文字。
そして、オランダ経由で手に入るはずの、希少な黒いソースについての覚え書きだった。
伝次郎は、自分の言葉が、卿の魂に静かな波紋を広げていくのを、黙って見守った。
「この黒い雫を、俺に用意してくれ。
そうすりゃ、ロンドン中の人間が……
この匂いだけで、跪くことになる」
半年後。
ロンドンの霧を切り裂くように、凄まじい香りが街を支配した。
醤油が焦げる匂い。
それは、石炭の臭いに慣れきったロンドンっ子たちの鼻孔を、力ずくでこじ開けるような、暴力的なまでに食欲を煽る香りだった。
タレにくぐらせたウナギが、炭の上で爆ぜる。
黄金色の煙が舞い上がり、煤けた空へと吸い込まれていく。
その一瞬、どんよりと垂れ込めた雲が、金色に染まったように見えた。
屋台の前には、貴族の馬車と労働者の行列が、無秩序に入り乱れる。
階級も、富も、思想も、その香りの前では意味を失っていた。
誰もが喉を鳴らし、溢れ出す唾液を堪えきれず、ただ立ち尽くしている。
一口かじった労働者が、安酒を地面に叩きつけて叫んだ。
「これが……
本当の、メシだ!」
その瞳には、明日を生き抜くための力が、か細い灯火のように、しかし確かに宿っていた。
伝次郎は、立ち上る煙の向こう側を見る。
団扇を煽ぐ腕の動きに合わせ、熱風が頬を打つ。
それは、前世の焼き場で感じ続けた、あの孤独な熱さと、まったく同じ感触だった。
だが、決定的に違う点があった。
その先に、
前世では、ついに現れなかった存在がいた。
自分の手捌きに、食い入るように視線を注ぐ、異国の少年たち。
煤に汚れた顔。
だがその瞳には、かつて自分が持っていたものと同じ、飽くなき探求の炎が宿っている。
少年の一人が、吸い寄せられるように、伝次郎の団扇へと手を伸ばした。
その指先が触れる、確かな温度。
伝次郎は、微かに口角を上げる。
「跡継ぎがいねえなら……
この国中を、弟子にしてやる」
産業革命の黒い空の下。
江戸っ子職人の一振りの団扇が、イギリスの食の歴史を、今まさに、根底から塗り替えていた。
団扇が空気を切り裂くたび、
過去の悔恨が、火の粉とともに夜空へと散っていく。
神田の空の下では、ついに叶わなかった技のバトン。
それが今、ロンドンの湿った風の中で、静かに、だが力強く、次の世代へと手渡されようとしていた。
伝次郎は、深く息を吸い込み、再び炭と向き合う。
その背中は、かつてないほどに大きく、
そして、揺るぎないものになっていた。
お読みいただきありがとうございます。
本作は「産業革命期のロンドン」という、非常にエネルギッシュで、かつ過酷な時代を舞台にしています。 作中に登場した「ウナギのゼリー寄せ」は、当時の労働者たちの貴重なスタミナ源であり、歴史的に見ればロンドンの食を支えた大切な文化の一つでもあります。
ですが、人生のすべてを『江戸前の鰻』に捧げてきた伝次郎にとっては、どうしても黙っていられない「宿敵」に見えてしまったようです……(笑)。
私個人としては、当時のロンドンの生活感や、不便な中にある美しさをとても魅力的に感じています。
職人・伝次郎の頑固な目線を通して、この時代の面白さを皆さんと共有していければ嬉しいです。
もし「続きが気になる」と思っていただけましたら、ブックマークや★評価でそっと応援いただけると、執筆の大きな励みになります!




