正しさが愛されないのなら
その通告は、舞踏会の喧騒の中ではなく、静まり返った執務室で行われた。
机の上には、決裁を待つ書類の山。窓の外からは、秋の冷たい雨音が聞こえている。
王太子フェリクス殿下は、一度も私と目を合わせることなく、手元の羽根ペンを弄りながら口を開いた。
「アデレイド。君との婚約を白紙に戻したい」
予想していなかったわけではない。
ここ数ヶ月、殿下の視線が私を通り越し、その背後にいる誰か――最近、王宮に出入りするようになった男爵令嬢リリアナ嬢――に向けられていることに、気づかないほど私は鈍感ではなかったからだ。
「理由は、伺ってもよろしいでしょうか」
私の声は、自分でも驚くほど平坦だった。
殿下はようやく顔を上げ、眉間に深い皺を寄せて私を見た。その目には、罪悪感よりも、理解されない苛立ちのようなものが浮かんでいた。
「君は、あまりに正しすぎる」
「……正しいことが、不都合だと?」
「そうではない。だが、君の正論には逃げ場がない。君といると、自分が常に採点されているような気分になるのだ。そこには安らぎも、愛が入る隙間もない」
殿下は息を吐き出し、夢見るような表情で続けた。
「リリアナは違う。彼女は私の失敗も笑って許してくれる。私が疲れているときは、難しい話などせず、ただ花の話をしてくれる。私が求めていたのは、そういう温もりなのだ」
なるほど、と私は心の中で納得した。
殿下が求めているのは、国を共に背負うパートナーではなく、彼を全肯定してくれる母性、あるいは愛玩動物のような存在だったということだ。
私が積み上げてきた、予算の折衝も、派閥間の調整も、外交文書の校正も、彼にとっては愛のない事務作業でしかなかったのだ。
「承知いたしました。王家と公爵家の合意があるならば、私が異を唱えることはありません」
「……怒らないのか?」
「殿下のご判断ですので」
私の淡白な反応に、殿下は拍子抜けしたような、そして少し傷ついたような顔をした。
彼はきっと、私が涙を流し、あるいは激昂してすがりつくことを期待していたのだろう。そうさせることで、「自分は愛されていたのだ」という自尊心を満たしたかったのかもしれない。
だが、私にはその感情のリソースすら、勿体ないと感じられた。
「ただ、一つだけ」
私は懐から、分厚いファイルを一冊取り出し、机の上に置いた。
「これは?」
「引継ぎ書です。現在進行中の案件、来月の行事の進行表、各部署への根回しの状況、そして殿下が苦手とされている地方領主たちのプロファイルと対応策をまとめてあります」
殿下はファイルを見下ろし、顔をしかめた。
「……君がいなくなっても、この程度、側近たちがなんとかするだろう」
「そうであれば良いのですが。側近の方々は優秀ですが、殿下の『癖』までは把握しておりませんので」
私は深く一礼した。
「長きにわたり、お仕えできましたこと、感謝いたします。どうか、リリアナ嬢と末永くお幸せに」
私が部屋を出ようとすると、背後で殿下が何かを呟いたのが聞こえた。
「最後まで、可愛げのない女だ」と。
その言葉は、雨音に紛れて静かに消えた。
◇
実家であるスターリング公爵家に戻ると、屋敷は重苦しい空気に包まれていた。
父が流行り病で倒れ、床に伏せっているからだ。
母は看病に付きっきりで、家政を取り仕切る余裕を失っている。
そして、主の不在に動揺した使用人たちと、ここぞとばかりに付け込もうとする分家の親族たち。
私が帰還したその日、応接間には叔父たちが陣取り、大声で議論を交わしていた。
「兄上がこのまま戻らなければ、誰が領地を見るのだ!」
「アデレイドは婚約破棄されて戻ってきた傷物だ。ここは私が当主代行として……」
私が部屋に入ると、彼らは一斉に口をつぐみ、気まずそうに視線を逸らした。
私は彼らの視線を無視し、上座に座る母の隣に立った。
「お母様、お父様の容体は?」
「……峠は越えたわ。でも、意識がはっきりするまでには、まだ時間がかかると医師が」
「そうですか。では、それまでの間、私が代行を務めます」
叔父の一人が机を叩いて立ち上がった。
「馬鹿な! お前は王都から戻ったばかりで、領地の現状など何も知らんだろう! 女に何ができる!」
私は静かに叔父を見据えた。
「現状なら、戻る馬車の中で資料を読み込み、把握しております。今年の小麦は長雨の影響で不作が見込まれること、北の鉱山で落盤事故があり生産が止まっていること、そして叔父様が管理されている港湾地区の帳簿に、使途不明金が三割ほどあることも」
叔父の顔が、赤から青へと変わっていく。
「な、何を……」
「これ以上、父の心労を増やしたくありません。静かにしていていただけるなら、過去のことは不問に付しましょう。……ですが、この家の方針に口を出すのであれば、まずはその帳簿の穴埋めをしていただかなくてはなりませんね」
叔父は口をパクパクとさせた後、捨て台詞も吐かずに部屋を出て行った。
他の親族たちも、蜘蛛の子を散らすように去っていく。
静寂が戻った部屋で、母がため息をついた。
「……相変わらず、容赦がないわね」
「事実を申し上げただけです」
「辛くはないの? 王城であんなことがあったばかりなのに」
母の優しい瞳に見つめられ、私は少しだけ肩の力を抜いた。
「辛いというより……呆れている、というのが正しいかもしれません。王宮での私の仕事は、誰かの感情を宥め、尻拭いをすることばかりでしたから」
ここでは違う。
数字は嘘をつかないし、論理は裏切らない。
問題があれば解決策を提示し、実行する。その単純なサイクルが、私には何より心地よかった。
◇
翌日から、私は領地経営に没頭した。
王太子妃教育で叩き込まれた知識と、王宮での実務経験は、一領地の経営には十分すぎるほどの武器となった。
まず、不作対策として備蓄庫を開放し、市場価格の調整を行った。鉱山には最新の魔導機器を導入し、安全性を確保した上で作業を再開させた。滞っていた書類を決裁し、無駄な経費を削減し、有能だが冷遇されていた若手官吏を登用した。
私のやり方は、合理的で、時に冷酷とも取れるものだったかもしれない。
だが、領民たちは結果を歓迎した。食料が行き渡り、仕事が戻り、不安が解消されたからだ。
「アデレイド様、南の堤防工事ですが、予算内で完了いたしました」
「ありがとう。余った資材は次の補修に回して」
「はっ!」
執務室で報告を受ける私の元に、一人の騎士が入ってきた。
私の護衛騎士であり、幼馴染のレナードだ。
「お嬢、少し休んだらどうですか。根を詰めすぎです」
「休んでいる暇はないわ。冬が来る前に、街道の整備を終わらせないと」
「……王都の方、気にならないんですか?」
レナードが、遠慮がちに尋ねてくる。
私はペンの手を止めず、書類にサインをした。
「何が?」
「いや、その……あっちが今、どうなってるかとか」
私は顔を上げ、彼を見て、少しだけ首を傾げた。
「私が気にしたところで、あちらの状況が変わるわけではありません。終わったことです」
「……相変わらず、割り切りがいいというか、なんというか」
レナードは苦笑いをして、新しい紅茶を淹れてくれた。
気にならないと言えば嘘になる。私が手塩にかけて構築したシステムが、どう運用されているのか。あるいは、されていないのか。
だが、それはもう私の管轄外の話だ。
◇
王都からの使者が訪れたのは、私が戻ってから三ヶ月後のことだった。
雪がちらつき始めた冬の入り口。
現れたのは、かつて王太子の側近を務めていた文官だった。
彼はやつれ果て、目の下には濃い隈を作り、まるで幽霊のような有様だった。
「アデレイド様……どうか、お知恵をお貸しください」
応接間に通された彼は、開口一番、深々と頭を下げた。
「王宮で何か?」
私が尋ねると、彼は堰を切ったように現状を語り始めた。
予想通り、いや、予想以上に王宮は混乱していた。私が残した引継ぎ書は、誰も読んでいなかったらしい。
殿下は「文字ばかりで読む気がしない」と言い捨て、リリアナ嬢は「私が明るく励ませば、みんな頑張ってくれるわ!」と、現場の官吏たちに手作りクッキーを配るだけで、何一つ実務を行わなかった。
その結果、予算配分は滞り、式典の招待状は発送されず、地方領主からの陳情書は山積みになり、重要な会議はダブルブッキングを起こした。
側近たちがカバーしようにも、殿下が「堅苦しいことは後回しだ」と決裁印を押さないため、何も進まないのだという。
「先日の隣国大使との会談でも、殿下は事前の資料を読んでおらず、大使の出身国を間違えるという失態を演じました。リリアナ嬢も、大使の民族衣装を『変わった服ですね』と笑い……外交問題になりかけています」
文官は顔を覆った。
「誰も、殿下を諌められないのです。正論を言えば『君たちは心が冷たい』と遠ざけられ、イエスマンばかりが周りに集まっています。このままでは、国政が立ち行かなくなります」
「それで、私にどうしろと?」
「殿下に手紙を……いえ、一度王都に戻って、殿下を説得していただけないでしょうか。貴女様の言葉なら、あるいは……」
私は静かに溜息をついた。彼らはまだ、理解していないのだ。
私が殿下を説得できていたのは、私が婚約者という立場にあり、殿下が私を利用価値のある道具として手元に置いていたからに過ぎない。道具でなくなった今、私の言葉など、ただの雑音にしかならないだろう。
「お断りします」
私の言葉に、文官は絶望的な表情を浮かべた。
「な、なぜですか! 貴女様も、この国の未来を憂いておられるはず!」
「ええ、憂いています。ですが、私には今、守るべき領地があります。父の代行として、領民の生活を守る責任があります。……王宮の尻拭いをする時間はありません」
「そ、そこをなんとか……! 殿下も、最近はよく『アデレイドならこうしていた』と口にされています! 後悔されているのです!」
後悔。
その言葉を聞いても、胸には何の感慨も湧かなかった。
それは反省ではなく、単に不便になったという愚痴に過ぎない。
「伝えてください。『正しさが愛されないのであれば、正しさが機能する場所で生きるのみです』と」
文官は肩を落とし、よろよろと帰っていった。
その背中を見送りながら、私はレナードに言った。
「お茶を淹れてくれる? 温かいのを」
「あいよ。……戻らなくてよかったんですか?」
「戻ってどうなるの? 私が戻れば、一時的には収まるかもしれない。でも、根本的な問題――殿下の資質と、それを選んだ周囲の判断――は変わらないわ。私は消耗品じゃないの」
レナードは満足そうに笑い、カップを置いた。
「そうっすね。お嬢はここで、好きに采配振るってる方が性に合ってますよ」
「……失礼ね」
湯気の立つ紅茶を一口飲む。
王宮で飲んでいた最高級茶葉よりも、少し渋みのあるこの紅茶の方が、今の私には美味しく感じられた。
◇
それから半年後。
王都から驚くべきニュースが届いた。国王陛下が、王太子の廃嫡を決定したのだ。
理由は公務怠慢および外交上の重大な過失。リリアナ嬢との婚約も白紙となり、フェリクス殿下は離宮での謹慎を命じられたという。代わりに王太子の座に就いたのは、留学から戻ったばかりの第三王子だった。
その知らせを聞いた日、私は父の執務室にいた。
父は順調に回復し、少しずつ公務に復帰している。
「……終わったな」
父が新聞を置き、短く言った。
「ええ。予想よりも早かったですが」
「お前が戻らなかったことが、決定打になったのだろう」
「買い被りすぎです」
「いや。……お前が支えていたからこそ、あの愚鈍な王子も賢王のように振る舞えていたのだ。その支柱が抜ければ、崩れるのは当然だ」
父は私を見て、珍しく穏やかな笑みを浮かべた。
「感謝しているよ、アデレイド。お前がいてくれて助かった。この領地も、私もな」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなった。
王宮では決して得られなかった言葉。
私が欲しかったのは、愛の囁きでも、甘いお菓子でもなく、ただこの認定だったのかもしれない。
自分の能力が、正当に評価され、誰かの役に立っているという実感。
それがここにはある。
「……ありがとうございます、お父様」
◇
ある晴れた日、私はレナードと共に領地の視察に出かけた。
整備された街道、活気ある市場、修繕された水路。どこを見ても、私の判断と指示が息づいている。
「平和ですねぇ」
馬の手綱を握りながら、レナードが言った。
「ええ。……退屈なくらいにね」
「またまた。本当は充実してるくせに」
「そう見える?」
「見えますよ。王宮にいた頃より、ずっと顔色が良くなりました」
私は自分の頬に手を当てた。
鏡を見ていないから分からないけれど、今の私は、どんな顔をしているのだろうか。
少なくとも、あの執務室で、眉間に皺を寄せて書類と格闘していた頃のような、能面ではないはずだ。
風が吹き抜け、草原の草が波打つ。
王宮という箱庭から放り出された私は、今、広大な大地の上に立っている。
役割は終わらなかった。
ただ、演じるべき舞台が変わっただけだ。
そしてこの新しい舞台は、私が思うよりもずっと、私に合っているようだ。
「さて、次は北の森林区の視察よ。急ぎましょう」
「へいへい。どこまでもお供しますよ、私の主」
私は馬のお腹を蹴り、前へと進んだ。
振り返ることはない。
私の正しさが、この土地を豊かにするのなら、私は何度でも計算し、判断し、前へ進み続けるだろう。
それが、アデレイドという人間の、生き方なのだから。
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