第四十二話:『王太子の影』【前篇】
俺の目の前で、老執事の姿が消えた。いや、消えたのではない。常人には追うことすら不可能な速度で、懐に入り込んできたのだ。二本の短剣が放つ殺意の『線』が、俺の喉と心臓を正確に貫こうとする。
(……速い)
闘技場で戦った『双剣のケイル』よりも、直線的で無駄がない。一切の予備動作を排した、完璧な暗殺術。だが俺の目には、その二本の『線』が、はっきりと見えていた。ケイルのように太く荒々しいものではない。細く、鋭く、一切の迷いがない。研ぎ澄まされた糸のように、俺の急所だけを正確に狙っている。
俺は一歩も引かず、ただ、その場で半身ずらす。師匠の教え――『相手の力を受け入れろ。自分を失わず流せ』。
俺は、喉元に迫る右の短剣の軌道を、左手の手刀で軽く「触れて」逸らす。金属が指先を掠める感触。ほんの数ミリでもずれていれば、指が切れていただろう。だが、俺は恐れなかった。
同時に、心臓を狙うもう一方の左の短剣を握るその手首に、右手を掛けた。
「むっ!?」
老執事は一瞬驚いた表情を見せたが、そのまま左肩で突っ込んできた。攻撃を防がれた瞬間に次の手を打つ。迷いのない判断。体当たりの『圧』が、俺の胸に迫る。
だが、俺はそれに抗わない。引っ掛けた手首を突進に合わせて半回転で捌きながら、右手から左手に持ち替える。彼の体重を利用し、その勢いを円運動に変える。俺の体は彼が放った力の奔流に乗り、位置を入れ替えその背後に回り込み、無防備になった彼の首筋に、自分の手刀を寸止めで当てた。
「……終わり、ですか?」
廊下に静寂が戻る。一瞬、首筋に手刀を当てられた老執事は動きを止めた。しかし次の瞬間、俺の手を振りほどき前転で離れると、十分な距離を取ってからこちらへ向き直った。その動きには、まだ余裕があった。
「……なるほど、たいしたものだ」
老執事は、ゆっくりと二本の短剣を元の通り袖口に納めた。俺は黙って彼を見ていた。彼の呼吸は乱れていない。気配も、まだ完全には開放されていない。何か隠している。
「……失礼しました。どうやら少々見誤っていたようです」
彼はそう言うと、すっと腰を落とし、手をぶらりと下げた。
空気が変わる。
先ほどまでの肌を裂くような鋭い殺意が消え、気配がすっと薄くなった。まるで、そこに誰もいないかのように。だが、俺には分かる。これは消えたのではない。気配を殺し、次の一撃のために力を溜めている。水面下で渦巻く暗流のように、見えない圧力が廊下を満たしていく。
次の瞬間、老執事はだらりと下げていた左右の手を、腕を胸の前で素早く交差させて振り上げる。その袖口から先程納めたばかりの二本の短剣が、俺に向かって放たれた。腹へと向かう一本目の軌道を、二本目はそのままなぞるように、二本の短剣が連なって飛んでくる。同時に老執事も一気に距離を詰めてきていた。
二重の罠だった。短剣を捌けば、彼の接近を許す。本体を迎え撃てば、腹に二本の刃を受ける。
(同時に二つを相手にする……)
俺は迫り来る二本の『線』と、老執事本人の『圧』を同時に感じ取った。短剣の『線』は細く鋭い。だが、老執事本人の『圧』はそれよりも遥かに大きい。本命は、短剣ではなく本人だ。短剣は囮。俺の動きを制限するためのものだ。
俺は僅かに左足を進め、自分の体の左側面を相手に向ける左真半身へと変化する。
「っ!?」
老執事の目がわずかに見開かれる。回避ではなく、前進を選んだ俺の行動が予想外だったのだろう。普通なら、後ろに下がるか、横に避けるか。
だが、俺は前に出た。
(第四十一話 了)
お読みいただき、ありがとうございました。
「面白い」「続きが読みたい」と少しでも思っていただけましたら、ブックマークや、ページ下の【★★★★★】から評価をいただけますと、大変励みになります。
次回は本日の23時の更新を予定しております。またお会いできると嬉しいです。




