第三十七話:幕間二『魔女の退屈と盤上の駒』【後編】
その時、開けた窓からまた一羽の小鳥が部屋に飛び込んできた。先程とは異なり、この小鳥は紫色に薄く輝いていた。
ルナは前と同じ手順で小鳥を手で包むと、光の粒子となって消えた。同時に、イザベルからの、簡潔だが重要な報告が、ルナの頭の中に流れ込んできた。
『――東の駒は、盤外へ。『記憶の水晶』は確保。帰都後に解析を依頼する。その他、T国に動きあれば知らせよ』
「あら、仕事が早いのね、隊長様」
ルナは、楽しそうに微笑んだ。東の駒こと、マルディーニの逃亡ルートに関する情報をイザベルに流したのは、他ならぬルナだったのだ。イザベルが所属する「王の影」が長年に渡って培ってきた情報網と実行力に、ルナの持つ魔法的な情報網。この二つが組み合わさることで、それまで機能不全に陥っていたヴァレリウス国全体の情報網は、急速に強化されつつあった。
ルナは、部屋の隅にある大きな地球儀のような魔道具――王都とその周辺国の地図が立体的に投影される装置――の前に立つと、指先でいくつかの国境線をなぞった。
東の国、タイドリア王国。
今回のクーデター未遂事件後に、マルディーニが自らの持つ情報を手土産に亡命先に選んだ国。既に処刑されたゲルハルトの証言では関係はないとされているが、果たしてどうか?
「……油断ならないわね」
タイドリアは、アウレリアとは長年の宿敵だ。竜背丘陵を挟んで国境を接し、小競り合いが絶えない。魔法技術よりも、魔力の含有量が多い魔石が豊富であることから、これを加工して作る魔道具や、魔石の掛け合わせにより新しい魔力の発現や強化などを得意としている。そのため魔法使い自身の魔力については、アウレリアに比べると随分落ちると考えられている。一方で軍隊については、騎士団といった制度は持たないが、個々の兵士の武勇と、部族的な結束力を重んじる尚武の国である。マルディーニのような、アウレリアの内部情報を持つ亡命者は、彼らにとって喉から手が出るほど欲しい存在だったはずだ。フォルカーとイザベルの活躍で、機密情報の流出は避けられたが、タイドリアがアウレリアの混乱に乗じて、次なる一手を打ってくる可能性は十分にあった。
ルナは、西の国境線を示す光を、少しだけ強くした。
テラノア公国をはじめとする西の国々。こちらは、豊かな平野を挟んで、いくつかの小国が点在している。いずれも基本的にはアウレリアとは比較的友好な関係を保っているが、今回のクーデター未遂は、彼らにも衝撃を与えたはずだ。
「……ランカスター公爵家や、ヴァロワ侯爵家が、こっち方面の外交を担当しているはずね。ボールドウィン公爵とテオドール侯爵……あの二人がいれば、西の動向はそれほど心配しなくてもいいかしら」
彼女の使い魔からの報告でも、西の国々に大きな動きは見られなかった。
南の海洋都市国家群スーフラ連邦。
豊かな海洋貿易で栄える南の都市国家たちは、数百の島が集まった集合国家だ。連邦首都は最も大きな島スーフラにあり、水産業と海洋貿易が中心となっている。アウレリアの内政には基本的に不干渉の立場を取っている。だが、今回のクーデター騒ぎで、アウレリアの国力が揺らいだと見れば、彼らがこれまでアウレリアに支払ってきた「関税」や「海上護衛費」の減額を要求してくる可能性があった。
「……クレメンティウス財務卿の手腕の見せ所ね。あの人なら、上手くやるでしょう」
ルナは、南の海岸線を示す光には、特に変化を加えなかった。
北は第五王家・アイゼンハイド辺境伯領と、グリフォン山脈の向こうにある北氷原は蛮族の地だ。
ここが、最も読めない場所だった。アイゼンハイド辺境伯ヴォルフラムは、六王家の一角でありながら、中央の政治にはほとんど関与せず、ただひたすら北の脅威――雪と氷に閉ざされた大地から、峻厳なグリフォン山脈を超えて時折侵攻してくる蛮族――から国境を守り続けている。
今回のクーデター騒ぎの間も、彼は王都には来ず、代理人を送っただけだった。
「……あの武骨な辺境伯が、今回の混乱をどう見ているか……。そして、北の蛮族たちが、この機に乗じて動き出さないとも限らない」
ルナは、北の国境線を示す光を、警戒を示す赤色に点滅させた。
ルナは、王都の地図を広げると、チェスの駒のように、いくつかの駒を置いた。
西の脅威、タイドリア。北の不確定要素、アイゼンハイドと蛮族。そして、国内に残る、ベルンシュタイン家の残党と、まだ見えぬ敵。
盤上は、一度リセットされたようでいて、新たな駒が配置され、より複雑なゲームが始まろうとしていた。
そして、その盤の中央。王城に置かれた、規格外の駒。ライル・アッシュフィールド。
(……さて、次にこの駒を動かすのは、誰かしら)
彼女は、水晶玉に魔力を込め始めた。
金の瞳が、次なる混沌を予期して、妖しく輝いた。
(第三十七話 幕間二 了)
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