第三十六話:幕間一『逃亡者と二本の矢』【前編】
かつて王立騎士団の頂点に立ち、ゲルハルドとともにアウレリア王国の全てを掌中に収めようとした男、マルディーニはいま、名もなき田舎町の、家畜小屋の隅でその身を縮こませていた。
あの日、闘技場の混乱の中、彼は転移と姿を変える魔道具を使い、辛うじて王都を脱出した。以来、王都を離れ東の隣国タイドリアへと急いだ。理由は亡命だ。元騎士団団長としてアウレリウス王家の中枢にいた自分であれば、それなりの待遇をもって遇せられると考えたのだ。また噂では、自分の裏切りや逃亡の事実は、対外的には隠蔽され、『マルディーニ団長は、クーデター鎮圧に際して負傷、これにより任を解かれた』となっていることを、数日前に彼の息がかかった部下から知らされていた。その時、ゲルハルトの運命についても知った。縛り首による処刑は、あの闘技場で公開により行われ、別人のようにやせ細ったゲルハルトは、ほとんど抵抗することなく処刑台に上り、綱の先で枯れ木のように揺れていたという。
(そもそも、こんなことになるはずじゃなかった)
彼はそう思っていた。ベルゲンシュタイン家に累する伯爵家に生まれ、11歳の時に父により騎士へ推薦され、15歳で従騎士となり、20歳で叙任されると順調に栄達を重ね、40歳の若さで騎士団団長に上り詰めた。本来、伯爵家出身の彼は、上級騎士にはなることはできないはずだったが、彼の父が蓄財と貴族に向けた貸金業で得た莫大な富を使い、名目上の侯爵の爵位を買い与えたことで可能となった。これは彼の父にとっての悲願であり、幼少の頃から「お前は上級騎士になるのだ」と言われ育てられた彼自身の夢でもあった。
もちろんそうした(成り上がり者)である彼に対する生粋の上級騎士の反感はあったが、彼は上の者にはどこまでもへつらい、同格や下の者には懐柔と脅迫を巧みに使い分け、騎士団内で自分に従うものを着実に増やし、レオポルドのような昔気質の面倒な爺さんを追い出すことにも成功した。ここでも父の財力が強く作用したのは事実だが、彼自身の才能によるところも大きかった。影で「キングスジャック*のようなデカ頭」と呼ばれた、彼の巨大な頭の中には、騎士団内の派閥の力学やそれぞれの後ろ盾、配偶者の系統といった情報が入っており、それらを組み合わせ貴族政治を巧みに使いこなした手腕は、ある意味で芸術的ですらあった。無論、レオポルドのような騎士からすれば唾棄すべき人物であり、「よく言って犬の糞。悪い方は口にはできん」(レオポルド元師言)と言うものであった。
*キングスジャック、アウレリア王国より南にあるタイドリア王国の巨大な果物。大きなものは重さが数十キロにもなる。
その彼の人生が狂い始めたのはゲーターに嵌ったことからだった。最初は面白いように勝てた。どんなに不利に見えても、いざという時には欲しいカードが嘘のように揃って、末尾の数字が3になるのだ。レートはどんどん上がり、遊ぶ場所も貴族の中でもごく一部の高位の者しか集まれないような場所へと変わった。ここでも最初は勝てた。艶やかな女性たちから「流石は騎士団団長、何事にも常人とは異なる天性の勝負勘があるのですわね」と耳元で囁かれ、彼女たちを別邸に囲むようになった。謹厳なばかりで無能な騎士の連中に、こうした人生の楽しみ方を教えてやりたいくらいだった。
ところがある時から勝てなくなった。最初は5回に1回くらいだった負け数が、5回に3回となり、やがてほとんど勝てなくなった。最初は老いた父から無心を繰り返したが、やがてそれも断られた。その頃には父の貸金業も不調となり、蓄えのほとんどは彼が団長になるための資金として使い果たしていたのだ。それでも「一度大きく勝てばそれで全部解決する」と思い勝負を続けるが、その度に借金は増え続け、信じられない額となっていた。
そこで声を掛けてきたのが主筋にあたるベルゲンシュタイン家の長男であるゲルハルトだった。
ゲルハルトとは一族の会で顔を合わせることはあったが、家格の違いや自分の爵位が金で買ったものであることもあり、儀礼以上の付き合いをすることはなかった。そのゲルハルトから人を介して、「ベルンシュタインに累する者、それも栄誉ある王立騎士団の団長の窮状に手を貸すのは、王国を支える者として当然だ」と援助を申し出てくれたのだ。
もちろん裏があると彼も分かっていた。似たようなことを自分もやってきたからだ。しかし、自分がやってきた時と同じように、そうした申し出をするのは、相手に選択肢がない時だった。
そして彼自身、その時はゲルハルトからの申し出を受けるという以外の選択肢はなかった。また、成功すれば甘い目もあると思った。ゲーターと同じ、一か八かの大勝負だった。
(その体たらくがこのざまだ)
姿を変える魔道具は、既に魔力切れで使えず、騎士団の鎧もとうの昔に捨てた。騎士団団長の誇りはそれよりずっと前に捨てていた。
今の彼の大きな頭の中にあるのは、残した父や家族のことではなく、ただ二つのことだけだった。
一つは、あの忌々しい山猿――ライル・アッシュフィールドへの、骨の髄まで焼き付くような憎悪。
そしてもう一つは、己を追ってくるであろう、あの女への恐怖。
イザベル・アドラー。あの蒼い瞳を持つ女は、決して自分を諦めないだろう。
マルディーニは無能ではない。王都の地下水路、裏社会の隠れ家、偽りの身分など、用心深い彼は、ゲルハルドに従いつつも常に失敗の可能性を考え、万が一のために、いくつもの逃走経路を用意していた。あの場から姿を消せたのも予め魔道具を用意していたからこそだった。
しばらくは順調に逃げることができていた。しかし、時間が経つとともに、事前に彼が考えていた計画は狂い始めた。当初は東へ向かう街道の合流地点で、彼を迎えるはずだった協力者は現れず、護衛はむろん、金や馬、食料などを受け取ることができなかった。
なんとか手持ちの金で用意を整え計画通り東へ向かったが、ずっと誰かに見張られているような気がしていた。
(……来ている)
マルディーニは確信していた。イザベルだ。彼女は、直接姿を現さない。ただ、彼の行く先々で、まるで蜘蛛が糸を張るように、彼の逃げ道を静かに、確実に塞いでいる。彼が頼ろうとした人脈を、彼が接触するよりも先に断ち切っているのだ。
それは正面から軍勢を率いて追いかけられるよりも、遥かに陰湿で、恐ろしい追跡だった。
それでもマルディーニは東へ進む。全てを捨てた彼に残された道はそれしかなかった。
その夜、彼は国境近くの寂れた宿の一室にいた。窓の外は、嵐だった。(この悪天候ならば、流石のイザベルの目も眩ませられるだろう)と思った。国境まではあと二日ほどだった。
疲労困憊の彼は、ベッドに倒れ込むようにして、浅い眠りに落ちた。
夢を見た。かつて、自分がまだ若く、野心に燃えて騎士団に入団した頃の夢だ。小馬鹿にした顔をしている上級騎士の上官に愛想笑いをしながら(いまに見ていろよ)と思っている自分を眺めているという奇妙な夢だった。
ふと、何かの気配で目を覚ます。
部屋は暗く、嵐の音だけが響いている。
だが、何かが違う。
稲光に何かが枕元に刺さっている見えた。
彼は、震える手でそれを掴み引き抜く。再び光った稲妻に照らされたそれは、一本の、黒い矢羽だった。
それは死を予告する矢だった。
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次回は本日の23時の更新を予定しております。またお会いできると嬉しいです。




