第二十六話:決戦前夜、それぞれの覚悟【前編】
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俺が地下牢に移されてから、9日と18時間が経っていた。
山での生活で、どんなところで過ごしていても日時が正確に分かった。
日の光が一切届かないこの場所は、俺が山で過ごした洞窟に少し似ていた。山では長雨で一週間以上洞窟に籠もることもあったので、別にどうということはなかった。むしろ黙っていても、一日一回食事が出るので楽なくらいだ。ただ、洞窟と違って虫の声や雨音の代わりに、苦しげな人のうめき声や呪いの言葉が聞こえた。
俺がやることは何も変わらなかった。
冷たい石の床の上にあぐらをかき、腹の前で手を組む。そして、ただ静かに自分の呼吸と、闇に意識を広げていく。
何度か尋問も受けた。騎士団団長を名乗る大きな頭に、死んだ魚のような目を浮かべた男が来た。俺は聞かれるまま、知っていることだけを正直に答えた。ただ彼らは俺の言ったことのほとんどを信じず、多少殴られたりもしたが大したことはなかった。いずれにしろ彼らが信じようが、信じまいが俺には興味はなかった。人が何を信じ、考えるのかは変えられない。
いま俺の独房の前に、二つの気配が現れた。
一つは、あの団長の淀んだ気配。
そしてもう一つは、ユリウスのそれに似ているが、もっと深く、もっと傲慢で、歪んだ『濃さ』を持つ気配だった。
「――こいつが、ライル・アッシュフィールドか」
俺が薄く目を開けると、鉄格子の向こう側、松明の明かりに照らし出されていたのは、豪奢な貴族服を着た長身の男だった。歳の頃は三十前後だろうか。その顔立ちはユリウスとよく似ていたが、弟の持つ神経質さはなく、代わりに、全てを支配し、見下す者の持つ、絶対的な自信に満ちていた。ベルンシュタイン家の長男、ゲルハルト。隣に立つマルディーニが、へりくだった態度で男を呼んだことで分かった。
ゲルハルトは、まるで珍しい獣でも見るかのように、俺を値踏みした。
「ふん。噂ほどのこともない。ただの痩せた小僧ではないか」
そう言うとマルディーニを見て、
「このような男が、ユリウスを打ち負かしたというのか?」
と聞いた。
「はっ。報告書にはそうあります」
「あいつも辺鄙な道場に何年も通って、何をしていたのか。まったく情けない奴だ」
ゲルハルトは、ふんと鼻で笑うと、再び俺に視線を向けた。
「意外に元気そうではないか?」
「それなりに痛めつけましたが、あまりやりすぎては後で支障があると思い……」
「意外に気が利くな。確かに死にかけの者を引きずり出しても面白くない。我々にも予定というものがあるからな」
そう言うとゲルハルトは、にやりと嫌な笑いを浮かべて俺に話しかけてきた。
「おい小僧。お前を嬲り殺しにするために、明日はこの国最高の処刑人を用意してやる。精々それまでは生きていろ」
俺が何も答えずにいると、団長と名乗った男が声を荒げた。
「おい、ゲルハルト様のありがたいお言葉に何か答えんか!」
その言葉は、坐っている俺のどこにも引っかかることなく抜けていった。
「おい、貴様!こっちを見ろ!」
なおも声を荒げた男に、ゲルハルトは煩そうに、
「まあよい。これで役者は揃った」
と鷹揚に言った。慌てて畏まる男には目もくれず、ゲルハルトは俺に向かって、重大な判決を伝えるような口調で言った。
「ライル・アッシュフィールド。お前のような出自不明の石ころでも、明日には、この国の新しい時代の『礎』となるのだ。……光栄に思うがいい」
礎? 新しい時代? 俺には、その男が何を言っているのか、さっぱり分からなかった。やっぱりその男の言葉も、俺のどこにも引っかかることなく通り抜け闇に消えていった。
折角の台詞にも、俺が黙っている様子を見て、ゲルハルトは期待が外れたのか、フン、と鼻を鳴らすと踵を返した。
「行くぞ、マルディーニ。最後の仕上げだ」
「はっ!」
二つの気配が遠ざかっていく。
俺は、男の残した芝居掛かった言葉の意味を追うこともなく、再び目を閉じ、自分の呼吸へと意識を戻した。
まだ来ていない明日のことを考える必要はなかった。
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次回は本日の23時の更新を予定しております。またお会いできると嬉しいです。




