第三話:月夜に現れた、二人の美女【後編】
部屋に響いた固い声。
「……セレスティアです」
その言葉に、目の前の彼女――俺の手に指を絡ませていた女性――は、悪戯が見つかった子供のように、金の瞳をきらりと輝かせた。
彼女は素早く俺の唇に人差し指を当てると、「しーっ」と小さな声で言った。それまでの艶めかしい雰囲気は消え、代わりに好奇心に満ちた表情が現れた。
扉の向こうから、再び声がする。
「ライル殿……? お休みでしたら、申し訳ありません。明朝、改めて……」
「い、いえ!起きています!」
俺は慌てて答えた。もし本当にセレスティアさんなら、無視をするのは失礼だ。しかし、どうすればいいのかさっぱり分からなかった。
俺の返事を聞いて、目の前の彼女は楽しそうに肩を揺らした。そして、俺の耳元に顔を寄せ、再び吐息と共に囁きかける。その声は、またあの甘い響きに戻っていた。
「……どうやら、本物の姉様がお見えのようですわ。残念ですが、今夜はここまで。続きは、また近いうちに」
彼女はそう言うと、俺の右手をとり、その中指の先に、唇を寄せた。柔らかな感触の後、ちくり、と微かな痛みが走る。彼女が、唇で俺の指を包み込みながら、ごく軽く歯を立てたのだ。
その刺激に、俺の背筋に電流が走った。
俺が驚いて手元を見る間に、彼女は猫のようにしなやかな動きで窓枠に足をかけ、音もなく闇の中へと消えていった。去り際、月光に照らされた彼女のシルエットが、一瞬だけ振り返ってこちらを見たような気がした。
指先に残る微かな痛みと、部屋に残った甘い香りに、俺の頭は完全に混乱していた。
姉様……? では、今のは一体……?
コン、コン。
再び扉がノックされ、俺ははっと我に返った。
「ど、どうぞ……」
俺が言うと、ぎ、と音を立てて扉が開き、そこに立っていたのは、紛れもなく昼間に見たセレスティアさんだった。
きちんと着こなした寝間着の上から、上着を羽織っている。先ほどのルナとは対照的に、肌を見せる部分は一切ない。その立ち姿は、一本の剣のように揺るぎない。
月明かりに照らされたその髪は、やはり艶やかな黒だ。そして、俺を真っ直ぐに見つめる瞳は、燃えるような金ではなく、静謐な紫水晶の色をしていた。その美しさは、氷の彫刻のように近寄りがたかった。
彼女は俺がベッドから降りて立っているのを見ると、少しだけ驚いたようだったが、すぐに表情を引き締め、深く頭を下げた。
「夜分に、本当に申し訳ありません。そして、昼間の……私の見苦しい振る舞い、心よりお詫びいたします」
「あ、いえ、俺の方こそ……」
「いいえ」
彼女はきっぱりとした口調で俺の言葉を遮った。
「あなたのせいではありません。全ては、私の未熟さゆえ。……それを、思い知りました」
彼女は顔を上げると、真剣な、まるで手合わせの時のような目で俺を見据えた。その眼差しは、先ほどとは対極にあった。
「ライル殿。単刀直入にお伺いします。先ほど、夕食の席で父に話されたそうですね。相手の気配に……『濃い』と『薄い』というものがあると」
コンラッドから聞いたのか。俺は頷いた。
「はい。……そう、感じると」
「その話を聞いて、合点がいきました。昼間の立会い……わたくしの突きは、あなた様には全て見えていた。わたくしの意識がどこに集まり、どこが疎かになっているのか、全て。だからこそ、あのように容易く……」
彼女の瞳は、真理を探求する武術家のものだった。先ほどまで部屋にいた、甘くからかうような光はない。
「どうか、教えてはいただけませんか。その『濃淡』を見極めるという感覚を……。わたくしにも、習得することは可能でしょうか」
彼女の真剣な問いに、俺はまともに答えることができない。頭が全く働いていなかった。
中指に残る、甘い痛み。そして、二人のセレスティア。
俺はただ、混乱した頭で、目の前の彼女に曖昧に頷くことしかできなかった。
俺が頷いた、その時だった。
開いたままだった扉から、ひょこりと顔を覗かせた者がいた。
先ほど、窓から出て行ったはずの、あの銀髪金眼の彼女だった。
彼女は、まるで何もなかったかのように、その場にそぐわない、華やかで柔らかな空気をまとって立っていた。寝間着姿のままで、その布地は依然として月光に薄く透けている。
彼女はさも今来たかのように小首を傾げ、部屋の中にいる姉と俺を交互に見ると、心配そうな、それでいてどこか楽しそうな声で言った。
「あら、お姉様。こんな夜更けにお客様のお部屋で、どうかなさったのですか?」
俺は、目の前に立つ、氷のように張り詰めた美しさを持つ黒髪紫眼のセレスティアさんと、扉に立つ、花の蜜のように甘い雰囲気の銀髪金眼のもう一人のセレスティアさんを、ただ呆然と見比べる。
同じ顔立ち。だが、まるで違う二人。一方は凛とした剣士、もう一方は妖艶な魔女のようだった。
セレスティアさんは、信じられないものを見たかのように、妹の顔と俺の顔を交互に見て、言葉を失っていた。やがて、彼女は絞り出すように、まず俺に向かって言った。
「ラ、ライル殿……!申し訳ありません、こちらは……その、私の双子の妹、ルナリアです。本来であれば、街にある王立魔法学校の寄宿舎にいるはずなのですが……!」
そして、彼女は怒りを込めて妹を睨みつけた。
「ルナ! あなた、なぜここに……!? また校則を破って抜け出してきたのですね!」
「あら、お姉様。ひどいお顔ですわよ」
ルナと呼ばれた彼女は、悪びれる様子もなく部屋に入ってくると、姉の隣に並び、優雅に一礼した。その動きは、舞うように流れるようで、姉の直線的な所作とは対照的だった。
「講義が少し退屈でしたので。それより使い魔から、こちらに面白いお客様がいらっしゃったと聞いて、ご挨拶に伺ったのですわ。お姉様こそ、男性のお客様のお部屋でこんな夜更けに……感心しませんわ」
「なっ……私は、その、武術の話を……!」
セレスティアさんがしどろもどろになっている。昼間の、あの凛とした姿からは想像もできない。
俺の頭の中で、ようやく点と点が繋がった。
双子。本当に、双子だったのだ。髪の色も、目の色も、幻ではなかった。そして、先ほどまで俺をからかっていたのは、目の前の銀髪の女性……ルナリアさんだったのだ。
ルナリアさんは、慌てる姉を面白そうに眺めた後、俺に向き直ってにっこりと微笑んだ。その笑顔は、どこか猫が獲物を見るような、危険な魅力を帯びていた。
「改めまして、ライル様。わたくしが妹のルナリアです。どうぞルナとお呼びください。姉が、大変失礼をいたしました」
「ルナ、あなたね……!」
「だって、お姉様がお客様を困らせているように見えましたもの」
ルナさんはそう言うと、俺に向かって悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。
その瞬間、彼女の唇は動いていないのに、甘く澄んだ声が直接、頭の中に響いた。ふと見ると、彼女が左手の中指にはめている、小さな銀の指輪が一瞬だけ、淡い光を放った気がした。
『……先ほどの続きは、また今度。二人だけの秘密ですわ』
その声は、脳に直接響いてくるようで、妙に生々しい感覚だった。
俺が声なき声に驚いていると、セレスティアさんが、これ以上俺の前で醜態を晒すわけにはいかないと判断したのだろう。彼女は深く、深いため息をつくと、妹の腕をぐいと掴んだ。
「ライル殿、本当に、申し訳ありませんでした……! この話の続きは、明日の朝、改めて……!」
「あ、はい……」
「ルナ!来なさい!」
「はいはい、お姉様。ではライル様、おやすみなさいませ」
ルナさんは俺にひらひらと手を振りながら、姉に引きずられるように部屋から出て行った。その際、振り返った彼女と一瞬だけ目が合い、彼女は唇に指を当てて、また「しーっ」という仕草をしてみせた。
ぱたん、と扉が閉まり、部屋には再び静寂が訪れた。
だが、それは先ほどまでの、ただ静かなだけの夜とは全く違うものになっていた。
俺は、二人の女性が残した、全く違う種類の気配と、陽だまりのような甘い香りに包まれながら、今夜はもう、絶対に眠れそうにないな、と考えていた。指先に残る微かな痛みが、妙に生々しく俺の意識に残っていた。
(第三話 了)




