第二話:師匠の教えと、追放される天才【後編】
やがて運ばれてきた食事は、俺が山で食べていたものに似ていたが、野菜の切り方一つとっても丁寧で、明らかに手が込んでいた。俺一人のために、わざわざ料理長が手間をかけてくれたのだろう。正直に言えば、料理の美味い、不味いという感覚は俺にはなかったが、その心遣いが胸に温かく沁みた。俺は静かに頭を下げ、それをゆっくりと口に運びながら、ギデオン殿の質問に答えることになった。
「単刀直入に言おう。お主が今日道場で見せたあの動き、ワシも見たことがない。単に速い、強いというのではない。我々の剣術とは根本的な『理』が違うように感じた。お主の師は、何を最も重要だと教えていた?」
師匠の教え――俺は思い返した。彼は難しいことを何一つ言わなかった。
「……師匠は、ただ三つのことだけを繰り返していました。『最短』『最速』そして『ずらす』、と」
俺の答えに、ギデオン殿はほう、と短く息を吐いた。彼は指でテーブルを軽く叩きながら、その三つの言葉を吟味しているようだった。
「最短、最速、ずらす……。無駄を削ぎ落とし、効率を極めるという思想か。興味深いな」
彼は分析的な目で俺を観察すると、次の問いを投げかけてきた。
「お主の構えもだ。一切の型がない。ただ、そこに立っているだけ。なのに、誰も懐に入ることすらできなかった。あれは一体……?」
俺は彼の言っている意味が分からず、首を傾げた。
「かまえ……ですか?すみません、よく分かりません。その、『かまえ』とは何でしょう?皆さんが最初に取る、あの形のことを言っているのですか?あれは、何のためなのですか?」
俺の純粋な疑問に、ユリウスが侮蔑を隠せないといった声で口を挟んだ。
「……貴様、本気で言っているのか? 構えも知らずによく剣士を名乗れたものだ。いいか、山猿にも分かるように教えてやろう」
俺は自分が剣士だと名乗った覚えはないのだが、と思いながら彼の話を聞いていた。ユリウスはわざとらしく咳払いを一つすると、講釈を始めた。
「『構え』とは全ての武術の基礎であり、我々が何年もかけて行う伝統的な鍛錬法の根幹だ。型と共に構えを繰り返し練り上げることで、初めて武術家としての肉体が作られ、技が磨かれていく。そして実戦においては、攻撃と防御、その両方に即座に移れるよう体を最適化する準備体勢となる!地面から足、腰、腕、そして剣先へと至る力の流れを淀みなく繋ぎ、あらゆる技を生み出すための源泉となる型だ!構えなくして戦うなど、ただの素人の蛮行にすぎん!」
ユリウスは勝ち誇ったように俺を見たが、俺はただ「なるほど」と頷いた。
「そうだったのですね。体を作り、技を磨くための準備……。勉強になります。ただ……」
「ただ、なんだ?」
「その……『構え』を取ってもらうと、俺には皆さんが何をしようとしているのか、色々なことが見えてくるのです」
「なんだと……?」
「どこに意識を向けているのか。どこが濃くて、どこが薄いのか。その意識が、どこまで届いているのか、とか……」
「濃い、薄いだと!? 訳の分からんことを!」
怒鳴るユリウスを手で制し、ギデオン殿が静かに、しかし鋭い眼差しで俺に尋ねた。
「ライル殿。その『濃い薄い』というのは、どういう感覚なのだ?」
そうと言われても、俺には上手く説明できない。俺にとっては、当たり前にそこにあるものだからだ。
「すみません……感覚なので、言葉にするのは難しくて……。空気が濃くなるというか、ピリピリした感じがするというか……。皆さんが構えると、そこに濃淡が現れるんです」
「フン、見ろ!出任せだから説明もできんのだろう!」
ユリウスが嘲笑う。俺はそれでもなんとか、言葉を紡ごうと試みた。
「師匠は、『形あるものは壊れる』と、それだけ言っていました。理屈としては、ただ、その……『薄い』方へ入っていけば、良い、というか……」
「薄い方へ入るだと?」
「はい。それは、俺がそうしようと意図しているというよりは……」俺は必死に、一番近い感覚を探した。「水が高いところから低いところへ自然に流れていくのに似ています。濃いところを避けて、薄いところへ……体が勝手に吸い込まれていくような……」
俺がそう説明し終えると、食堂は静まり返った。ギデオン殿は目を閉じて深く何かを考えていた。やがて彼は、ゆっくりと目を開くと、呟いた。
「……『形あるものは壊れる』か。そして、意図せず自然の理に従う……。ライル殿、お主の師は、もはや武術という枠組みを超えた、万物の理そのものを教えていたのだな……」
俺はギデオン殿の難しい言葉に、首を振った。
「万物の理、というほど凄いものかは分かりませんが……。ただ、師匠は、自然であることがもっとも大事だ、といつも言っていました」
「自然、か」
「はい。風が吹けば木の枝はしなりますし、川の水は上から下へ流れます。どんなに硬い岩でも、真正面から流れを受け続けていれば、いつかは削れてなくなってしまう……。そういうものだ、と」
俺の言葉を聞いたギデオン殿は、深く、そして静かに頷いた。
「……枝のように受け流し、水のように流れ、岩のように正面からぶつかることを避ける……。なるほど。お主の師は、技の形ではなく、自然の在り方そのものを、お主の体に叩き込んだのだな」
彼は確信に満ちた、落ち着き払った様子で言った。
「お主の師は、まこと武の道を極めた賢者に違いない。その師が、お主を完璧な武人として育て上げるために、食生活から哲学、技の全てを授けたのだな!」
その言葉に、俺は少し戸惑いながら首を横に振った。
「技、と言われても、よく分かりません。師匠から、これは何という技だと教わったことは一度もなくて……。俺が教わった動きの全てに、名前はありませんでした」
「……技に、名前がない?」
ギデオン殿が驚いたように聞き返す。俺は、かつて師匠に同じようなことを尋ねた時のことを思い出しながら話した。
「はい。師匠は、『名前など無意味だ』と言っていました」
俺は師匠の言葉を、できるだけ正確に伝えようとした。
「師匠は、こう言っていました。『流れる水を切り取って、今のは速い流れ、今のは緩やかな流れ、と分けて名前を付けることに、一体何の意味があるのか?』……そして、『それは馬鹿のやることだ』と」
「……なんだと?」
俺の隣で、ユリウスの低い声が響いた。俺は構わず続けた。
「水の動きも、風の動きも、切り分けることはできない。人の動きも同じである、と。師匠はそう言っていました」
「……黙って聞いていれば!」
ユリウスがテーブルを拳で叩いて立ち上がった。その顔は怒りで真っ赤に染まっている。
「貴様の師は、我々が代々受け継いできた技と型を、『馬鹿のやること』と愚弄するか!この俺を、アークライトの歴史を、侮辱するのも大概にしろ!」
「ユリウス!」
ギデオン殿が鋭く制止する。だが、怒りに我を忘れたユリウスは止まらない。
「師範もお人が悪い!こんな山猿の戯言を真に受けて!こいつは我々を馬鹿にしに来たに決まっている!」
その時、ギデオン殿が静かに、しかし有無を言わせぬ威厳を込めて言った。
「……ユリウス。今宵のお前は、あまりにも見苦しい。下がり、頭を冷やせ。今すぐ、ここから退席しろ」
「なっ……!師範、俺は……!」
「二度は言わん」
ギデオン殿の冷たい声に、ユリウスは屈辱に顔を歪ませ、俺を殺さんばかりの目で睨みつけると、足音も荒々しく食堂から出て行った。
重い沈黙が、部屋に落ちる。その沈黙の中で、俺はずっと気になっていたことを、おずおずとギデオン殿に尋ねた。
「あの……ギデオン殿。先ほどのセレスティアさんは……戻ってこられないようですが……。俺のせいでどこかに怪我でもさせてしまったのでしょうか?」
俺が本気で心配してそう尋ねると、ギデオン殿はそれまでの厳しい表情を少しだけ緩め、ふっと息を吐いた。
「……気にする必要はない。怪我などないわ」
彼は父親の顔で、少しだけ遠い目をした。
「セレスティアは、ワシの娘だ。才能はあるが、鼻っ柱が天よりも高い。今日、生まれて初めて、己の力が及ばぬ世界があることを知ったのだ。……あれには良い薬となろう。今宵はそっとしておいてやれ」
そして、彼は俺に向き直ると、申し訳なさそうに頭を下げた。
「……客人であるライル殿に、門下生や家族の見苦しいところを見せてしまった。無礼と思うが、許して欲しい」
そこで一旦言葉を区切ると、改めてギデオン殿が口を開いた。
「……ライル殿。では、お主の師は、その名もなき『理』を、何のために授けたのだ?」
俺は少しの間、黙って考え込んだ。
「俺の師匠は本当に口数が少なく、身の上話をすることは一度もありませんでした。それに……師匠は、よくこう言っていました。『わしはお前に何も教えていない。それはお前が勝手に覚えたものだ』と。それがどういう意味か、いまでもよく分かりません」
ギデオン殿は、その言葉に何かを感じ入るように、静かに目を閉じた。俺は、一度だけあった師匠とのやり取りを思い出しながら続けた。
「ただ一度だけ……俺は『武術を習いたくない。自分には必要がない』と言ったことがあります。誰も傷つけたりしたくなかったからです。その時に師匠は……」
俺は、師匠の言葉を正確に思い出す。
「『自分の身を守るための力は持っておけ。そして、その力を使うのは、人を守る必要がある時だけだ』と。……そう、言いました」
その瞬間、ギデオン殿の目に、深い感銘の色が浮かんだ。彼は静かに椅子から立ち上がると、俺に対して、今度は正式に、深く、深く頭を下げた。
「……ワシの目は、節穴ではなかった。ライル殿。お主が持つのは、ただの技ではない。一つの『理』そのものだ。改めて、心からお願いする。どうか、この訓練場の師範代として、我らに力を貸してはくれまいか」
俺はただ、正直に質問に答えただけだった。それなのに、目の前の偉大な剣士は、俺に頭を下げている。俺が返答に困っていると、ギデオン殿は顔を上げ、期待に満ちた目でさらに続けた。
「……そして、もし許されるならば、一度お主の師君にご挨拶に伺いたい。このような素晴らしい弟子を育てた御仁に、ぜひ一言、礼を述べたいのだ。案内を頼めんだろうか?」
その言葉に、俺は静かに首を横に振った。
「すみません、ギデオン殿。それは、できません」
「……やはり、俗世の者との面会は好まぬ方か」
「いえ、そういうこと以前に……まず、俺には師匠がいた場所へ正確に戻れる自信がありません。山での五年は、決まった道を歩いていたわけではないので……」
俺は続けた。
「それに、もし場所が分かったとしても、師匠はもうあそこにはいないと思います。そして、万が一いたとしても、師匠自身が望まぬ限り、誰の前にも姿を現すことはないはずです。風を捕まえるようなものですから」
俺はそこまでしか言わなかったが、心の中では確信していた。師匠との別れは、永遠のものだ。あの時投げられた小石は、俺の過去と現在を隔てる、決して越えられない壁なのだ。俺はもう二度と、師匠には会えない。
俺の言葉を聞いたギデオン殿は、残念そうに眉を下げたが、深く頷いた。
「……そうか。真の隠者とは、そういうものかもしれんな。ならば仕方あるまい」
彼は少し寂しそうに、しかし俺を見て、力強く言った。
「ならばこそ、ライル殿。師君が山から下ろした、その『理』の体現者であるお主が、ますます我々には必要だ」
俺は慌てて言った。
「ど、どうか顔を上げてください、ギデオン殿……!そのお話は、あまりに急で……。少し、考えさせてはいただけないでしょうか」
俺の言葉に、ギデオン殿はゆっくりと顔を上げた。
「……うむ、無理もない。突然の話だったな。ゆっくり考えるといい。だが、今宵の宿の世話くらいはさせてくれんか」
「はい……。ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」
こうして、俺はこの訓練場に一晩、厄介になることが決まった。物事がおかしな方向に進みつつあるのを、俺はただ感じていた。
その夜、俺は客間として与えられた部屋で、生まれて初めて「ベッド」というものに横になっていた。背中が沈む柔らかさもそうだが、何より、完全に平らで、傾いていないことに戸惑う。洞窟で眠っていた時は、いつも体のどこかが傾いていた。ゴツゴツした岩や、地面に張り出した木の根の感触もない。
耳を澄ましても、虫の声も、夜鳥の鳴き声も聞こえない。獣が近くの茂みで動く気配もない。静かすぎて、落ち着かなかった。山での五年で、俺の体はすっかり、ああいうものに囲まれて眠ることに慣れてしまっていたらしい。分厚い壁と屋根に守られたこの部屋は、安全なのかもしれないが、ひどく寂しい場所だと感じた。
(第二話 了)
*すみません。操作ミスで後半の文章が切れていたことに昨日(10/9)気が付き修正しました。ご迷惑をおかけしたことを深くお詫びいたします。




