第二話:師匠の教えと、追放される天才【前篇】
俺はただ、物事がおかしな方向に進みつつあるのをぼんやり感じていた。
その感覚は、訓練場に併設された立派な食堂に案内された後も、ずっと消えなかった。
長い木のテーブルの上には、俺が山で食べていたものとは似ても似つかない、湯気の立つ料理が並んでいた。こんがりと焼かれた肉の塊、白いパン、具沢山のスープ。その強い香りに、俺は少しだけ気後れしていた。
師匠との五年間の生活で、火を使った料理というものをほとんど口にしたことがなかった。そば粉やきな粉を水で練ったもの、乾いた昆布やひじきをそのまま齧る。それが当たり前だったのだ。
「さあ、ライル殿。まずは腹ごしらえをしてくれ。歓迎の宴だ」
師範――アークライト訓練場の主、ギデオン殿が、硬い表情のまま杯を掲げる。
俺の向かいには、憎悪の視線を隠そうともしないユリウスが座り、その隣には心配そうな顔のコンラッドがいる。他の門下生たちは、遠巻きに、好奇と畏怖が混じった目で俺を見ている。セレスティアさんの姿は、どこにもなかった。
宴が始まっても、俺は目の前の豪勢な料理にどう手をつけていいか分からなかった。失礼にならないように、なんとか食べられそうなものを探す。一番、味が薄そうに見える白いパンを手に取り、少しだけちぎって口に運んだ。
ふわりとした食感の後、ほのかな甘みと塩味が舌に広がる。それだけのことで、俺は目を見開きそうになった。味が、する。今まで食べていたものにはなかった、しっかりとした味が。
俺がパンばかりをゆっくりと咀嚼していると、その様子に気づいたギデオン殿が、穏やかな声で尋ねてきた。
「どうした、ライル殿。あまり箸が進んでいないようだが、口に合わなかったか?」
その問いに、待ってましたとばかりにユリウスが鼻で笑う。
「フン、どうせ山で木の皮でも齧っていたのでしょう。我々のような文明人の食事が、山猿の口に合うはずもありませんな」
「ユリウス」
ギデオン殿が咎めるように名を呼ぶ。俺は正直に答えるしかなかった。
「いえ、そういう訳では……。ただ、その……肉は、少し苦手でして」
ギデオン殿は少し意外そうな顔をした。
「ほう……。何か理由があるのか?」
「山で暮らしていた時は、そば粉を水で練ったものや、ひじきを食べていました」
俺がそう話すと、ギデオン殿は少し意外そうな顔をした。
「ほう……。そば粉やひじきが、あの山で採れるのか?」
「いえ、時々現れる師匠が、どこからか持ってきて置いていってくれるんです」
俺は少しだけ、昔のことを思い出しながら続けた。
「……子供の頃、体がとても弱くて。その……肉を食べると、いつもお腹を壊していたんです。それ以来、少し苦手で……。山で食べていた、そば粉や野菜は体に合っていたので、ずっとそうしていました」
俺が自身の過去をぽつりと話すと、ユリウスは「虚弱児が」と、待ってましたとばかりに嘲笑を浴びせた。しかし、ギデオン殿はそれを制すると、腕を組み、何かを考えるように目を伏せた。
「……そうか。火を通さず、肉も食さぬ……」
彼は何かを思い出したように顔を上げた。
「遠い東方の国にある寺院では、厳しい修行の一環として、お主のような食事法を取ることがあると古い書物で読んだことがある。肉体を清め、精神を研ぎ澄ますためのものだと……」
東方の国?俺は思わず身を乗り出した。
「東方、ですか!何か、ご存知なのですか?俺の師匠は、そこの出身なのかもしれません」
初めて得た手がかりに、俺の声が少し大きくなる。しかし、ギデオン殿は静かに首を振った。
「いや……すまないが、ワシも書物で知るのみだ。この大陸では信仰されておらぬ、海の向こうの宗教だからな。この辺りには、それを知る者はまずおるまい」
そう言って、彼は厨房に向かって叫んだ。
「料理長!ライル殿には、彼が食べ慣れたものを用意しろ!味付けのいらない、新鮮な野菜と、そば粉を水で練ったものだ!早くしろ!」
師匠の出身地のヒントが、ほんの少しだけ見えた気がした。だが、それはすぐに途絶えてしまった。
ユリウスは、俺の話が結局は師範に感心される結果になったことに納得がいかない様子で、ギリギリと歯を食いしばった。




