ノブさん
「こんばんは、茉莉ちゃん」
「また来たんですか?」
私の隣には、向こう側が透けて見えるおばあさんがいる。最近、夜勤中によく見かける。
その人は、首を振って、
「その言い方は何よ。可愛くないね」
「別に、可愛いと思われなくても大丈夫です」
「ここの職員、ひどいんだよ。私のこと、誰も見えないみたいなの」
普通は見えません、と言ってやりたかったけど我慢した。一応、介護のプロだから、お年寄りに向かってそんなことは言わない。
「私の担当だった白井くんだってさ。すぐそばにいるのに、気付かないんだよ。酷いね、あの子は」
いや、だから、普通は見えないんだよ。言ってしまいそうになる自分を叱る。
「白井くん、前から思ってたけど、ちょっとのんびりしてるっていうか、気が利かないっていうか……」
始まった。いつもこれだ。白井さんの悪口言うのがこの人……人ではないな。すでに人ではないこの存在の趣味なのだ。そして、私は何の関係もないのに、何故か延々とそれを聞かされる。何の因果だろう。
そんなことを考えて、その存在の話を真面目に聞いていなかったら、すぐにバレて顔を顰めてきた。私は、へへっと笑って、
「すみません。聞いてませんでした。それで? 白井さんが何ですって?」
聞き返したが、その存在はさらに不機嫌な表情になって、
「白井くんじゃないよ。今はね、シノちゃんの話をしてたんだよ。シノちゃんはどうしたんだい? 最近見かけないけど」
「シノちゃん?」
って誰? 私が訳がわからず首を傾げていると、ますます苛ついた感じで、
「あんた、シノちゃんを知らないのかい? 役に立たないね」
「私、まだここの老人ホームで働くようになって、ようやく四カ月ですよ? 知らないことだらけで当たり前じゃないですか。誰ですか? シノちゃんって」
不貞腐れたように言ってしまった私は、介護者失格だ。ま、介護者も人間なんで、たまには失敗もする。勘弁してもらおう。
「シノちゃんはね、この階の職員で、すごくいい子なんだよ。優しくて、いつも笑顔で。あの子が私の担当なら良かったのに。あんた、本当に知らないの?」
私は深く頷き、「知りません」と言い、
「シノちゃんの名字は何ですか?」
「シノちゃんの名字? 篠原だよ」
名字が呼び名になっていたのか。名前なのかと思った。
その存在は、「えーっと……」と言ってから、
「確か、篠原由美だったと思うけど」
私は少し考えてから、
「ホームにはいないと思いますけど。別の部署かもしれませんね」
「え? 異動したのかい?」
「知りません」
本当に知らないんだから、仕方ない。
「それで? シノちゃんに何か用があるんですか? それとも、ただ心配しているんですか?」
「用があるんだよ。ここに連れてきてくれない? どうも私はここから動けなくて」
地縛霊? そんな言葉が浮かんだ。何でこの存在は、ここから動けなくなったのだろう。
そんなことを考えていると、その存在は、
「何で動けないのか不思議に思ってるのかい? そうだね。心残りがあるからかな」
「心残り?」
「だから、シノちゃんに会わせてって。話がしたいんだ」
私は目をそらして、
「シノちゃん……あなたのこと、見えないかもしれませんよ。だって、担当だった白井さんにも見えないし。っていうか、見えるのは今のところ私だけですよ?」
横目でその存在をそっと見ると、俯いていてがっかりしている感じだった。はっきり言い過ぎただろうか。
「あんたは正しいよ、茉莉ちゃん。でもさ、思いやりがないね」
「そうですよね。すみません」
一応謝ってみる。その存在は顔を上げると、
「とにかくさ。会わせてよ。あんたが頼りなんだから。頼むよ」
私はつい頷いて、「わかりました」と言ってしまったが、急に疑問が湧いてきた。この人……人じゃなかった……この存在の名前は何だ? 今まで何回も会って話しているのに、そういえば知らない。
私は思い切って訊いてみた。
「あの……名前を教えてもらえますか」
「名前か。言ったこと、なかった?」
「聞いたことがないから、今お訊きしてます」
その存在は、ハーッと大きく息を吐き出すと、
「相田ノブ」
私をじっと見つめながら名乗った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
夜勤明け。早番で来た白井さんに夜間の申し送りをした後、緊張しながら、
「あの……ちょっと訊きたいことが……」
「ん? 何?」
訊き返されて、さらに緊張が高まる。そんなに凄いことじゃないのに、何故こんな状態になるのか、自分でもよくわからなかった。
「白井さん、篠原由美さんって知ってますか?」
私の質問を怪訝そうな顔で聞いた後、白井さんは、
「シノちゃん? 何で早川さんが知ってるの?」
それはどういう意味でしょうか、と訊いてみようかと思ったが、私が口を開く前に白井さんが、
「前に、このフロアーで働いていた、すごく可愛い人だよ」
にやけた表情で言う白井さん。もしかして、シノちゃんを気に入ってるのだろうか。
「その可愛い人、今どうしてるんですか」
白井さんの表情が急に暗いものになったと思うと、
「残念ながら、デイサービスに異動になった」
その言い方には、何か含みがあるように感じたが、さらに質問しようとした時、利用者さんのコールが鳴って白井さんがその人の部屋に向かってしまった。体の力が抜けた。
シノちゃんが、今はデイサービスにいることはわかった。でも、その異動には何らかの事情があるらしい。白井さんの様子が、それを物語っている。
その後も忙しくて、シノちゃんに関する情報を得ることが出来なかった。ノブさんの願いを叶えよう。そう思ったが、はたして上手くいくだろうか。ちょっと不安になった。
ノブさんには、何故か夜勤の時にしか会えない。
「いつも、どこにいるんですか」
訊いてみたが、ノブさんは首を傾げて、「どこだろうね」と言うばかり。
「シノちゃんなんですけど、今はデイサービスに配属されているそうです。相田さんの大好きな白井さんがそう言ってましたよ」
「誰が大好きなんて言った?」
真剣な顔で全否定してくるノブさん。白井さん、担当だったのに可哀想、と同情してしまった。
「茉莉ちゃん、シノちゃんに会ったかい?」
「会ってません。そもそも顔がわかりませんから、すれ違ってたとしてもわかりませんよ」
利用者さんからコールがあったので、ノブさんに断ってから向かった。介護室に戻ってくると、ノブさんが難しい顔をしていた。私はノブさんを覗き込むようにしながら、
「どうかしましたか」
「別に何もないよ。ただ、シノちゃんに会いたいだけ」
「シノちゃん、相田さんに好かれてるんですね。余程いい人なんでしょうね」
「それは間違いない。でも、それだけでもないんだ」
「それだけでもない?」
ノブさんの言葉を復唱してしまった。ノブさんは深く頷き、
「そう。それだけじゃないんだ」
その声は、何だか哀しみを秘めているように思えた。
ここにとどまっているノブさん。心残りがあると言っていた。生きている時、ノブさんの身に何が起きたのだろう。訊いてみようかどうしようかと考えていると、ノブさんはふいに私に背中を向けて、「今日はこれで帰るよ。じゃあね」と言って消えてしまった。
怖いから、突然現れたり消えたりしないで、と訴えたくてもどこに向かって抗議すればいいのやら。私は溜息を吐いて、記録を始めた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
その日の夜勤中、ノブさんがもう一度現れることはなかった。思い詰めたような表情をしていたのが気になるが、そもそも生きている人ではないから、命を断つとかそういうことにはならないので、それだけは安心だ。
夜勤が終わった後、少し残業をしていると、昼からの勤務の白井さんが出勤してきた。私は挨拶をするとすぐに、
「教えてください」
「は?」
私の切羽詰まったような口調に呆気に取られている風の白井さん。心の中で謝罪する。
「白井さん。ノブさん……いえ、相田ノブさんって方の担当だったんですよね」
「え……。ノブさん? 何で早川さんが……」
「知ってるのか、ですか? だって、夜勤の日に必ず会うんですよ。どこからともなく現れて、スッと消えるんです。いえ。それは置いといて」
「置いとくの? それ、すごく怖い話なんだけど」
「もう慣れました」
私が言うと、白井さんは、
「慣れるもの? 早川さん、すごいね」
褒められたようだ。私は素直に「ありがとうございます」とお礼を言ったが、白井さんは変な物でも見るような目付きで私を見ただけだった。私は構わず、
「その相田さんですけど、亡くなったのはいつ頃ですか」
「五ヶ月前……かな」
「心残りがあって、ここから離れられないらしいんですけど、一体何があったんですか?」
白井さんは私から視線を外し、俯いた。余程言いにくい何かがあったに違いないと思わせるような顔つきをしていた。ノブさんも白井さんも、何で隠そうとするんだろうと思ったが、訊いてみるしかないことはわかっている。
「白井さん。教えてください。相田さんとシノちゃん。何があったんですか?」
ノブさんが亡くなったのが五ヶ月前。それと同じ頃、シノちゃんは異動になっていると思われる。何か関係があるのだろう。
白井さんは、しばらくしてようやく口を開いた。
「夜中の一時頃だった。ノブさんが、台に上がって、棚の上の方に置いてあるカゴを下ろそうとした。そう。利用者さんの家族から預かってるお菓子を入れてるあのカゴ」
「あれ、結構重いですよね?」
では、何故それを取りにくい棚の上に置いているかというと……つまりそういうことだ。取りにくいようにしておかないと、人の物を間違って食べてしまったり喉に詰まってしまったりと、事故が起きてしまう可能性があるからだ。やむを得ず、そういう対応をさせてもらっている。
「そう。その日もあのカゴ、重かったんだけど、ノブさんはそれを取ろうとした。バランスを崩して、台から落ちた。救急車で運ばれて入院。認知症がある人で、人のご飯も食べようとしちゃう、あの食いしん坊の……あ。失言だった。食べるのが好きなノブさんが、少しでも食べ物を口に入れて飲み込もうとすると、ひどくむせる。痰もからむようになって。食事が摂れる状態じゃなくなって、ターミナルケアを行うことになって、ここに帰って来た。良くはならなかったよ。ここでお看取りした。オレが看取った」
暗い表情の白井さん。その時を思い出しているのだろうか。
話を聞いてみて、何となくわかった。ノブさんが台から落ちた日の夜勤者。それが、シノちゃんだったのだろう。その考えを伝えてみると、白井さんは頷き、
「そう。シノちゃんが夜勤者だったよ。で、責任感じちゃったみたいで、異動を希望して。引き留めようとして主任やホーム長も頑張ってくれたみたいだけど、もう無理ですってシノちゃんが泣き出して……って聞いただけで、その場にいたわけじゃないけど」
「相田さんのご家族は何て……?」
事故を施設の責任にしてきたか、それとも……。
白井さんは顔を上げると、軽く頷き、
「それは、大丈夫だった。あそこの家族は理解してくれた。むしろ、謝られたよ」
「そうなんですか」
「家にいる時から、同じようなことをしてました。ご迷惑をおかけして……みたいなことを言われた。それから……」
その後白井さんが話してくれた内容に、私は涙を浮かべないではいられなかった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「ノブさんは、十代の時に結婚してお子さんが二人いるんだけど、旦那さんが兵隊さんにならざるを得なくて、で、そのまま帰ってこなかったんだって。本当は泣きたかったと思うけど、泣いてられなかったんだよ。子供を育てなきゃいけないんだから。親戚を頼って一緒に住んでいたこともあったみたいだけど、肩身が狭かったかなんかで、親子三人でそこを出て行って。ノブさん、朝から晩まで働き詰めだったって」
確かに根性ありそうな存在には見えた。
「自分は食べる物も食べないで、育ち盛りの子供たちに食べさせた。そういう人だったらしい」
「そうなんですね。立派です」
「息子さんのお嫁さんが言うには、人は一生の内に食べる量が決まってるって言うから、若い頃に食べられなかった分を取り返す為に、歳を取ってからあんなに食べるようになったのかなって。そのことに気が付いたら、夜中に戸棚をゴソゴソやっているおばあちゃんに注意出来なくなっちゃったのよ、だって」
「若い頃に食べてない分を取り返していた?」
「そう。それを聞いてオレ、ノブさんは頑張り屋さんだったんだなって改めて思った」
白井さんはそこまで話すと日誌を読み始めた。私は、若い頃のノブさんを想像して泣けてきてしまった。
大変な時代を生き抜いて来たのだと思わされる。食べるのにも困るっていうことが、私にはリアルにはわからない。
ノブさんはそれでもきっと、弱音一つ吐くことなく、笑顔で乗り切ったんだろうな。
私の夜勤中に現れるノブさん。今までは、このおばあさんは何だろう、くらいにしか思っていなかったのに、これからは見方が変わってしまうな。そう思った。
次の夜勤中もやはり姿を見せたノブさんは、私の顔を覗き込むようにして見ると、
「白井くんから、何か聞いたのかい?」
「あ……はい。聞きました」
「そうかい。ま、そういうことだよ」
私はノブさんを見つめながら、「大変だったんですね」と言った。ノブさんはフッと息を吐き出して小さく笑った。
「大変、か。違うとは言わない。でもね、必死だったから。あの子たちを育てることに夢中だった。苦労とは思ってないよ」
優しい顔で言った。胸が締め付けられるような感じがした。
「元気に育って、それぞれの道に進んで。ただ、私が認知症になってからは苦労かけたかなと思うけど。歳を取ると、あちこち上手くいかない所が出ちゃうもんだよ。それを、あの子たちのお嫁さんは、私のことを非難するでもなく受け止めてくれた。いい人と結婚してくれたなって、嬉しくなったよ」
「息子さんたちがいい人たちだから、そのお相手もいい人なんですかね」
ノブさんは、鼻の下を指で擦るような動きをしてみせると、
「褒めてくれたのかい? ありがとう、茉莉ちゃん」
「しんみりしてるの、似合いませんよ」
「ま、そうだね」
二人で笑った。
「相田さん。シノちゃんに会えるように、私頑張ってみます。顔知らないので、また白井さんに助けてもらいます。期待しててください」
偉そうにそんなことを言ったけれど、どうなるかわからない。とにかく、やってみるしかない。
ノブさんは笑顔になると、「あんたが頼りだからね」と言って、姿を消した。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
それから数日が過ぎた。今日は白井さんも私も日勤だ。休憩時間も同じだ。
「白井さん。一緒にデイサービスに行ってくれませんか? シノちゃんと話がしたいんです。実は、相田さんがシノちゃんに会いたがってるんです」
「……わかった」
ためらいを見せたものの、私の必死の訴えを聞き入れてくれた。安堵して、思わず息を吐き出した。
休憩時間になって、施設の一階にあるデイサービスのホールの入り口まで来た。白井さんが囁き声で、
「ほら。あそこで利用者さんと歌ってる、あの可愛い人がシノちゃんだよ」
「白井さん。いちいち『可愛い』ってつけなくてもわかりますよ。よっぽど気に入ってるんですね」
皮肉な感じで言ってやるが、たいして気にしたような様子もなく、「だって、可愛いでしょ?」とさらに言う。私はそれには答えず、「ちょっと声を掛けて来て下さいよ」とお願いする。白井さんは、「はいはい」とやる気なさそうに言って、シノちゃんの方へ歩いて行った。白井さんに声を掛けられたシノちゃんは、「え?」とでも言ったように口が動いた。それから白井さんが何か話して、シノちゃんが頷いた。二人で私の方に向かってくる。
「早川さん。篠原由美さん」
「あ……えっと、早川です。急にすみません。お忙しいでしょうから、いきなり本題に入ります。私、明日夜勤なんですけど、その時間に私たちのフロアーに来てください。相田さんが会いたがっています。彼女はあそこから離れられないので、篠原さんに来てもらうより方法がないんです」
彼女は目を見開いて私を見ている。気が変になってるのかと思っているのかもしれない。
「信じられませんよね。でも、本当のことです。私、生きている時の相田さんは知りません。だから、篠原さんを困らせる為にそんな嘘を吐いたりしませんよ。相田さんは、だいたい夜の九時くらいに現れます。なので、その頃に来てください。待ってます」
シノちゃんの返事を待たずに頭を下げると、向きを変えて歩き出した。もう、言いたいことは言ったのだから、ここにいる必要はない。後は、シノちゃんがどうするか。それだけだ。ノブさんの為に、来てほしいと願っていた。
「白井さん。ありがとうございました」
笑顔で伝える。白井さんは、戸惑いの表情をしていた。
「早川さん。返事を聞かなくて良かったの?」
「いいんです。明日わかりますから」
納得していないのか、首を傾げている。
「白井さん。お昼ご飯食べましょう」
「あ、そうだね」
食堂の、空いている席に二人で並んで座り、食事し始めた。
翌日の夜勤は、何だか緊張していた。シノちゃんは来てくれるだろうか。それが気がかりだった。
「シノちゃん、来るかな」
遅番の白井さんが、呟くように言った。私は、「どうでしょう」と素直に気持ちを伝えた。
「だよね。何しろ、泣きながら異動を訴えた人だからな。しかも、会いたがっているのがノブさんじゃ……。どうだろうね」
「はい。これは、賭けですね」
来てほしい。心の中で願っていた。
遅番の帰る時間になって、白井さんが「じゃ、お先に」と言って出て行こうとしたその時、彼女がやってきた。彼女は嬉しそうに、「白井くん」と呼び掛けているが、やはり全く気付かれていない。私は白井さんの背中に、「来てますよ」と声を掛ける。白井さんは振り向き、
「え? 誰が? ノブさん?」
「他に誰が来るんですか。そう。相田さんです」
ノブさんは、私の隣で溜息を吐くと、
「ほら。見えてないだろう?」
「そのようですね」
私が誰もいないはずの方に向かって普通に話しているのを見て、白井さんは、
「ノブさん? 本当にそこにいるの?」
ちょっと恐れているような言い方だ。ノブさんが私を見ながら、「通訳して」と言った。
「通訳?」
「私が言ったことを、白井くんに伝えて」
「あ。わかりました」
私は白井さんの方に向くと、
「だ、そうです」
「や。ちょっと、その前に。オレの言ったことを、ノブさんに伝えてよ」
「私が伝えなくても、相田さんはここで普通に聞いてるから大丈夫ですよ」
「あ、そっか」
慌てている風の白井さん。思わず小さく笑ってしまった。
「じゃ、ノブさん。聞いててよ。オレ……えっと……。ノブさん。オレ、ノブさんを看取らせてもらえて本当に感謝してるんだ。オレさ、今までも何人も看取りにあってきたけど、あの時一番そう感じた。ノブさんの担当だったからなのかな。オレの夜勤中に息を引き取ったのは、オレを選んでくれたんだよね。もちろん、最期の瞬間に立ち会うのって怖い気持ちにもなるし、すごく寂しい気持ちにもなるよ。でも、選んでもらったんだって思って……嬉しくてさ。ノブさん。生きてる時、いろいろうるさく言ったりしてごめん。でも、ノブさんのことを思って言ってた。本当だよ。ノブさんに会えて……本当に良かった」
白井さんが泣いている。私ももらい泣きしそうだった。ノブさんを見ると目元を拭うような動作をして、「泣かせようとして」と呟いていた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「白井くん。私の担当、白井くんで良かったよ。生きてる時にさ、『シノちゃんだったら良かったのに』とか言ったこともあるけど、あれは本気じゃなかった。ちょっと、からかったんだよ。これは嘘じゃない。本当だよ。それでね、最期が近くなってきて、思ったんだ。白井くんの夜勤の日に逝こうって。だから、その日まで頑張ったんだよ。やっぱり白井くんがいいと思ったから。お願いしたいと思ったから」
ノブさんの言葉を伝えると、白井さんが「ノブさん……」と小さな声で言った。
「白井くん。ありがとうね。今日シノちゃんが来たら、もうここに来られなくなると思うから……もう一度言っておくよ。白井くん、ありがとう」
「ノブさん……」
「じゃあ、ほら。もう帰んな」
私が通訳すると白井さんは頷いて、今度こそ帰って行った。ノブさんは、見えなくなるまで白井さんを目で追っていた。
「行っちゃいましたね」
私が声を掛けるとノブさんは、
「行っちゃったね」
何だか寂しそうな顔。やっぱり白井さんを大好きなんだなと思わされた。でも、否定されるから言わないでおくことにした。
それから何分くらい経ってからだったろう。階段室のドアの開く音がして、足音が近付いてきた。鼓動が速くなる。
「相田さん。もしかして……」
そう言う間もなく、彼女が現れた。
「篠原さん。来てくれたんですね」
「あなたが嘘を言ってると思えなくて。今ここにいるんですか?」
辺りを見回すシノちゃん。この人も、やっぱり見えないらしい。私とノブさんは、ほとんど同時に溜息を吐いた。
「私はここにいるんだけどね。何で茉莉ちゃんにだけ見えるんだろうね」
「そうですよね。だから、ややこしいことになっちゃうんですよね」
ノブさんの言葉が聞こえないシノちゃんは、不思議そうに私を見ている。当然だ。一人で話しているようにしか見えないんだから。
「篠原さん。私の左側に、相田さんがいるんですけど、見えませんよね?」
「はい……」
ノブさんが、また大きな溜息を吐いた。会いたかった人に見えないと言われればショックだろう。
「篠原さん。これから相田さんが言うことを、私が代わりに伝えますので、聞いてくださいね」
微かに頷くシノちゃん。私がノブさんを促すと、「頼むね」と言ってから話し始めた。
「シノちゃん。辛い思いをさせちゃって、本当にごめんね。でも、あれは私が悪い。シノちゃんのせいじゃないんだよ。私が勝手にやった。勝手にケガした。それだけなんだよ。シノちゃんが責任感じることないんだよ」
私が伝えると、シノちゃんは首を強く振り、
「私が、相田さんが部屋にいないことをもっと早くに気が付いていたら、あんなことにはならなかったはずです。私が悪いんです」
泣きながら訴える。その気持ち、よくわかる。何かあったら自分のせいだって思っちゃうものだ。わかる。
心の中で同意を示していると、ノブさんがキレ気味の口調で、
「ちょっと。早く通訳してよ」
完全に聞き逃していた。謝罪して、もう一度言ってもらう。
「私のせいで、シノちゃんが異動することになって、悪かったと思ってる。でもさ、介護の仕事は辞めないでね。シノちゃんみたいに優しくていつも笑顔でいてくれるいい人が、ここでは必要とされていると思うよ。みんな、シノちゃんのこと好きだから。もちろん私もだよ」
「相田さん……」
「ありがとうね」
「私の方こそ……ありがとうございました」
「うん。じゃあね。来てくれてありがとう」
私が伝えると、シノちゃんは涙を拭い私に向かって礼を言うと、来た道を戻って行った。ノブさんの方を見ると、今まで見た中で一番すっきりした良い表情をしていた。さよならの時が近付いているのが感じられた。
「茉莉ちゃん。この一ヶ月くらい、相手してくれてありがとうね。おかげで、白井くんにお礼を言えたし、シノちゃんにお詫びの言葉も伝えられた。感謝してるよ」
「相田さん。行っちゃうんですか? 寂しくなっちゃいます」
私がそう言うと、ノブさんは鼻で笑って、
「何を甘えたこと言ってんだい」
「だって、いつも相田さんがいてくれたから」
いつのまにか、この存在が一緒にいるのが当たり前になっていた。これから夜勤がつまらなくなりそうだな、と思った。
ノブさんは、触れられない手で私の頭を撫でるような仕草をした。そうされて私は、触れられてもいないのに、本当に撫でられたような気がした。
「ありがとね」
優しい微笑みを浮かべたノブさんが、少しずつ消えていく。もう会えない。自然に涙が流れ始めた。
「ノブさん、ありがとう」
今まで名字で呼んでいたのに、初めて名前で呼んでしまった。消えていくノブさんが手を振ってくれる。私も必死に振り返す。そして……完全に相田ノブさんは消えてなくなってしまった。
それ以来、彼女は本当に現れなくなった。何で私にしか見えなかったのかはわからないけれど、選ばれたことに感謝している。
ノブさん。出会ってくれて、ありがとう。
(完)