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最近の彼女(偽装)の様子がおかしい

作者: 海外空史

「はい、極盛りラーメンお待ち」


 ドンと僕の目の前に巨大な山が置かれた。いや、山じゃない、これはラーメンだ。と、頭では理解していても視覚では認識できなかった。

 チャーシューやモヤシ、海苔、メンマやネギ等ありとあらゆる具材が山のように積まれていた。麺はおろかスープさえ見えない状態だ。見てるだけで胸焼けがしてくる。


「はい、彼女さんはこっちね。醤油ラーメンだよ」


 店員さんはそう言って、僕と向かい合わせで座っている四賀さんの目の前に普通の大きさの醤油ラーメンを置いた。

 そちらはチャーシュー2枚、海苔も1枚、メンマも指で数えられるぐらいの常識的な量の具材だった。それに、ちゃんと麺やスープが見える。

 僕は自分の目の前のラーメンと彼女のラーメンを見比べた。この2つが同じラーメンだとは思えなかった。まるで子猫とベンガルトラを並べたみたいだ。


「また武津君の方に置いてる」


 四賀さんは頬を膨らませていた。先程僕たちの席にラーメンを持ってきた店員さんを不満げな目で見つめていた。

 男子高校生の平均的な身長の僕と一般的な女子高校生よりも背の低い四賀さんを見て、どちらがこの怪物ラーメンを食べるか聞かれたら答えは1つだろう。しかし、僕たちの場合は違っていた。


「はい、どうぞ」


 僕は極盛りラーメンを彼女の目の前に持っていった。お目当てのものが目の前にやってきた四賀さんは顔を輝かせた。まるで大好きな男性アイドルと話ができたというような表情だった。


「ありがとう。武津君もどうぞ」

「うん、ありがとう」


 彼女は醤油ラーメンを僕の方に置いてくれた。先程の常識外れの大きさから一転して常識内のラーメンが来て胸を撫で下ろした。これなら何とか食べられそうだ。


『いただきます』


 僕たちは手を合わせた。ふと前を見ると目を閉じて神妙にラーメンと向き合っている四賀さんがいた。目を開けると、巨大な山に挑み始めた。


「そういえば」


 食べている最中、彼女が話しかけた。四賀さんは食べている時は味に没頭するため、こうして話しかけてくるのは珍しい。


「また彼女と間違えられたね」


 四賀さんは悪戯っぽく笑った。僕は先程ラーメンを持ってきた店員が言っていたことを思い出した。


「僕たちの偽装も上手くいっているみたいだね」

「うん」


 僕がそう言うと、ラーメンを頬張った彼女は頷いた。僕たちはただのカップルではない。僕と四賀さんは付き合っているけど、付き合っていないのだ。


 僕の名前は武津晴稀(たけつ はるき)。高校2年生だ。僕には人に言えないある秘密があった。それは重度の猫好きだということだ。

 どれほどの猫好きかというと、スマホには猫の写真のみ、SNSでは猫の写真をあげているアカウントだけをフォローし、ネットの動画投稿サイトで見るのは猫の動画だけという有様だ。

 こんな僕はネコカフェに通うのが趣味だ。画像や動画ではなく、実際の猫に触れ合うのは僕にとって至福の時だ。

 しかし、男子高校生1人で猫カフェに入り浸るのはハードルが高い。かと言って、一緒に猫カフェに行ってくれる人はいなかった。これでは僕は猫と仲良くすることができない。僕は猫不足に陥りそうだった。

 しかし、僕にはある人がいた。その女子の名前は四賀梨衣奈(しが りえな)。同じ高校2年生だ。彼女もまたある秘密を抱えていた。それは生来の健啖家だということだ。

 四賀さんは髪をボブカットにしていて、童顔で小柄だった。その体格に反して彼女はたくさん食べる。運動部の男子高校生はもちろん、プロのアスリートに勝るとも劣らないぐらいの量を食べる。

 それも和洋中、脂っこいものや健康に良いもの、ファーストフードからスイーツに至るまでジャンルを問わず食べる。

 そして、四賀さんもまた周囲の目に悩まされていた。女子の、それも平均より体格が小さい彼女がたくさん食べているのは周りから奇異の目で見られるという。

 男子に揶揄われていたこともあったらしい。四賀さんも自由に好きなだけ食べることができず苦しんでいた。

 そんな僕たちは高校1年生の時、偶然出会った。そして、お互いの秘密を知ってしまった。

 秘密を知ってしまった僕と四賀さんは付き合うことになった。本当に付き合っているのではない。利害が一致した偽装のお付き合いである。

 例えば、僕は四賀さんを連れて猫カフェに行く。するといくら入り浸っても猫好きのカップルということになり、他の人に見られても平気になる。

 四賀さんも僕と一緒に飲食店に向かう。すると彼女がどんな大盛りの料理を頼んでもカップルがシェアして食べていると周りの人は思うだろう。間違っても四賀さん1人で食べているとは思わないだろう。実際はほとんどその通りなのだが。

 もちろん、このお付き合いはあくまで偽装的なもので、僕も四賀さんも互いに恋愛感情を持っていない。これは今までもそうだったし、これからもそうなのだ。


「美味しかった」


 ラーメン屋から出てきて開口一番に四賀さんは言った。その顔は幸せと書いてあるみたいだ。


「醤油ラーメンも美味しかったよ。流石、四賀さんのオススメの店だね」

「うん。来てよかった」


 彼女はお腹をさすっていた。四賀さんはあの巨大なラーメンを1人でぺろりと完食した。毎度のことながらこの小さい体のどこに大盛りの食べ物が入っているのだろう。


「何、見ているの?」


 四賀さんはじろりと僕を睨んだ。あどけなさを残しつつも整った顔立ちは睨むと迫力があった。


「別に何でもないよ。今日もたくさん食べているなと思ってさ」

「武津君も女子のくせによく食うなと思っている?」


 彼女の睨みに迫力が増した。見た目は可愛らしい子猫みたいだが、その凄みは百獣の王のそれと変わらなかった。


「そんなこと思ってないよ!付き合う時、約束したでしょ。僕は四賀さんを尊重するって」


 僕たちは付き合う(偽装)と決めた時、お互いに誓い合った。どんな時でも互いの秘密を尊重し、他人に話すことはしないと。それは彼女も分かっているはずだ。


「そうだよね。ごめんなさい、疑っちゃって」

「ううん、僕の方こそ変な言い方してごめんね」


 僕だって人から自分のことをとやかく言われるのは苦手だ。重度の猫好きだとバレた時にドン引きされたことは何度もある。


「でも、僕は好きだよ」

「えっ?」


 思わず四賀さんは僕の方を見た。その目は大きく見開いていた。


「四賀さんがたくさん食べているところを見るのはさ」


 彼女は食べている時、本当に幸せそうなことをしている。その顔を見ていると、僕も心が温かくなるのを感じる。


「……そう。そういうこと」


四賀さんは肩を落としていた。フォローしたつもりだったが、上手くいかなったようだ。



「武津、この後カラオケ行かないか?」


 四賀さんとラーメンを食べに行った次の日の放課後、僕はクラスメイトの安田君から誘われた。


「クラスの奴らと集まってカラオケするんだ。よかったら来ないか?」

「ごめん、僕、先約があって」


 僕が彼に向かって申し訳なさそうにすると、安田君はあーと納得したような声を出した。


「先約って、四賀のことか?」

「うん、そうだよ」

「やっぱりか。お前たちは本当に仲がいいな。また今度誘うよ」


 彼はそう言って、僕から離れていった。こういう断りづらい誘いを受けた時、四賀さんとの関係を言い訳にできるのはとても便利だ。

 もちろん、彼女との約束があるのは本当だ。嘘はついていない。

 僕が教室を出て、昇降口に向かうと、下駄箱の前で小柄な女子が立っていた。


「ごめん、待った?」


 僕は四賀さんの後ろ姿に声をかけた。我ながらカップルの待ち合わせみたいだなと思った。


「うん。待ってた」


 振り向いた四賀さんは僕が思っていたのと違う反応をした。てっきり、ううん待ってないよと言われるかと思った。しかし、彼女は少し頬を膨らませていた。


「お腹空いた」

「分かった。ごめんね、遅くなって」

「早く行こう」


 僕は四賀さんに引っ張られるように連れてかれた。向かう途中、何人かの人とすれ違ったが、皆微笑ましそうに僕たちを見ていた。


「あの、四賀さん」

「どうしたの?」

「もう手を離してもよくない?」

「え?」


 僕の言葉に彼女は自分の左手と僕の右手が繋がれているところを見た。今気づいたと言わんばかりの表情を浮かべていた。

 僕たちは学校を出てから今までずっと手を繋いでいた。どちらかというと、四賀さんが僕の手を引いていたに近いけど。


「別にこのままでいいでしょ。武津君が逃げるといけないし」

「いや、逃げないよ」


 彼女の言い分に僕は苦笑した。高校1年生から付き合って(偽装だけど)1年近くになるが、いまだに信用されていないらしい。


「僕は逃げないから手を離しても大丈夫だよ」


 僕は安心させるように言ったつもりだったが、彼女から返ってきた反応は意外なものだった。


「私と手を繋ぐのは嫌なの?」

「え?」


 四賀さんは寂しそうに僕を見上げていた。まるでもっと遊びたいと訴えている猫のようだった。


「えーと、まあ、カップルなら手を繋ぐのは当たり前だからね。四賀さんが嫌じゃなければこのままでいいよ」

「分かった。このまま行くね」


 僕の言葉に、彼女は嬉しそうに笑った。そのまま目的のお店に入るまでずっと僕と彼女の手は繋がれていた。僕は四賀さんの様子に違和感を覚えていた。


 目の前の鉄板に僕が座れるぐらいの大きさの生地が流し込まれる。その生地の上に大量のキャベツや豚肉、ネギ、天かすが乗せられた。

 生地の隣にはこれだけでお腹一杯になる程の焼きそばの麺が鉄板に広げられた。その上に卵が2個落とされて、麺に絡ませながら炒めていった。

 店員さんは上手に生地を裏返した。そして、炒めた焼きそばの麺の上に生地を乗せた。そのまま蒸し焼きにしたら完成である。


「はいよ、スペシャルお好み焼きだよ!」


 店員さんは威勢よく僕と四賀さんの目の前に巨大なお好み焼きを持ってきてくれた。四賀さんはこのお好み焼きを目にして愛おしそうなものを見るような目をしていた。まるで動物の赤ちゃんを見るような目だ。

 ここは四賀さんおすすめのお好み焼き屋だ。彼女のおすすめということは当然規格外の大きさの食べ物があるお店だ。

 規格外のお好み焼きに僕はヘラを持つ手が止まっていた。この前のラーメンを山とするならば今日のお好み焼きはどこまでも広がる砂漠地帯といったところか。食べても食べてもお好み焼きの味が終わらないこと間違いないだろう。


「いただきます」

「い、いただきます」


 怖気つく僕を他所に四賀さんは手を合わせてこの巨大なサークルに挨拶をしていた。僕も続けて挨拶をした。

彼女はヘラでお好み焼きを食べやすいように切り分けた。そして、そのまま自分の口に運んだ。


「美味しい」


 四賀さんは恍惚の表情を浮かべていた。彼女の一口は小さいため、この巨大な円形はわずかしか侵略されていなかった。さて、微力ながら僕も立ち向かおう。僕はヘラを持つ手に力を入れた。



「満足した」


 店を出て、四賀さんは一言そう言った。幸せの絶頂といった顔だ。


「満足したなら良かったよ。うっ」


 僕はというと、お腹がはち切れそうだった。しばらくお好み焼きを食べる気にはなれなかった。


「大丈夫?ごめんね、私が追加に注文したせいで」


 四賀さんは僕の背中をさすってくれた。あの巨大お好み焼きを難なく完食した彼女は追加で豚玉やイカ玉、ミックス玉を頼んだ。店員さんの目もあるため一応僕も少しはこれらの追加のサークルたちを口に入れた。


「大丈夫だよ。偽装とはいえ、僕は四賀さんの彼氏だからね。僕が一緒に食べれば君も周りの目が気にならないだろう?」


 僕はこれでも男だ。四賀さんばかりに食べるのを任せてられない意地がある。それでもほぼ全て彼女が食べていたが。


「そこまで無理しなくていいのに。でも、ありがとう」


 四賀さんは呆れたように、しかし、優しく微笑んだ。僕はその笑顔を見ただけで何か報われたような気がした。



 次の日の放課後、僕は昇降口でソワソワしていた。今日は待ちに待った日だ。楽しみすぎて今日の授業内容はほとんど覚えていない。

 今か今かと待ち構えている僕に、何人かの生徒は彼女がもうすぐ来るぞと言ってくれた。

 そうか、今の僕は彼女が来るのを楽しみにしている彼氏に見えるのか。まあ、わざわざ訂正しないけど。


「ごめん、待った?」


 ある意味聞きたかった声が聞こえて、僕はそちらを振り向いた。振り向いたところには女子にしては身長が低い子が立っていた。紛れもなく四賀さんだ。


「いや、待っていないよ。でも、すぐ行こう、今すぐいこう」


 僕は四賀さんを連れて学校から出て行った。



「ふふっ」


 目的地まで早歩きする僕を見て彼女は可笑しそうに笑っていた。


「どうしたの?」

「だって武津君が本当に嬉しそうに歩いているから」


 四賀さんの指摘に僕は自分の顔を触った。そんなに緩み切っているだろうか。触っても分からなかった。


「それを言うなら四賀さんだってお店に向かう時、いつも幸せそうな顔をしているよ」


 彼女も僕と同じように楽しみを抑えられない人だ。よほどお気に入りなのかスキップしてお店に行くこともあるくらいだ。


「え、私、そんな顔をしてたの?」


 四賀さんは衝撃を受けたような顔をしていた。恥ずかしさからなのか彼女の顔は赤くなっていた。


「でも、僕は四賀さんの幸せそうな顔を見ると安心するよ」

「え?」


 彼女は僕の方を向いたまま固まった。何だか最近彼女のこういう顔をよく見る気がする。


「は、早く行こう」


 僕が返事をする前に四賀さんは歩き出した。そんなに猫カフェが楽しみだったのだろうか。


「え?ちょ、ちょっと待って」


 先をどんどん歩く彼女に置いてかれないように僕も早歩きでついていった。



「うわああ、可愛い、とても可愛いよ」

「あの……」


 僕はその愛らしい姿を写真に収めた。まいったな、スマホのストレージが足りなくなるかもしれない。


「抱きしめたいほど可愛い。その困っている顔も可愛いよ」

「武津君、ちょっと」


 目の前にいる子は僕を見て怪しい者を見るような目つきをしていた。その警戒している様子もたまらなかった。


「いいねえ、次は別のポーズで、って、四賀さん、どうしたの?」

「いくら私の膝の上に乗っているこの子を撮るためとはいえ、そんな捲し立てられると居心地が悪いの」


 僕と四賀さんは待望の猫カフェに来ていた。この猫カフェは半個室の席になっていて、席で待っているとお店の子(猫)が遊びに来てくれるというスタイルだ。

 今、僕たちの席に来ているのはラグドールという種類の子で、全体的に白色だが、顔や尻尾、手足の先端が灰色がかった青色に見えるのが特徴的だ。

 この子の名前はハルといい、女の子である。ハルちゃんは来て早々真っ直ぐに四賀さんの元に向かい、彼女の膝の上に収まった。それで、僕はその様子をスマホで撮っているということだ。


「この子、とてもおとなしいね」

「まあ、ラグドールはそういう子が多いからね。それにしても本当に四賀さんは猫に好かれやすいなあ」


 僕が羨ましがっていることから分かるように、四賀さんには猫を引き寄せる何かがあるようで、彼女の元には猫が集まる。


「でも、この子、ハルちゃんだっけ。重いからそろそろ降りて欲しいんだけど」

「そうだね。僕もそろそろ触れ合いたいし」


 僕はスマホを制服のズボンのポケットに入れた。あらかじめ注文しておいた猫用のおやつをお皿に開け、ハルちゃんの前に持ってきた。


「ほら、ハルちゃん、おやつだよ」


 僕がそう言うと、ハルちゃんは四賀さんの膝から降りて、おやつが乗せられたお皿の前へとやってきた。お腹が空いていたのかハルちゃんは夢中で食べ始めた。

 僕は食事中のハルちゃんを優しく撫でた。ラグドールの柔らかくふわふわの体毛が心地いい。


「写真は撮らなくていいの?」

「うん。今は触れ合いタイムだからさ」


 猫という動物はこちらから迫ったりカメラを向け続けると逃げてしまうものだ。

 この子は猫カフェで働いているから他の猫よりは人間のそういう行動にも慣れているが、それでもストレスだろう。だから、僕は猫と触れ合う時は、スマホはしまうことにしている。


「撮ってあげようか?」


 四賀さんの提案を不思議に思った。彼女がこうして写真を撮ろうと言ってくるのは初めてだったからだ。


「別に大丈夫だよ。僕は猫が主役の写真を撮りたいからね」


 僕が写真を撮るのは猫の色々な姿を見てみたいからだ。僕自身が写真に入っている必要はない。


「あっ、もちろん、さっきの写真も四賀さんの顔は入っていないからね」


 それでも足や膝は写真に写っているが、人から聞かれても付き合っている彼女(偽装)と答えるつもりだ。そこは四賀さんも分かっているだろう。


「……そうだね」


 安心していいと言ったつもりだったが、彼女は微妙な顔をしていた。もしかして信用されていないのだろうか。僕はポケットからスマホを取り出した。


「ほら、この写真だよ。顔は写っていないよ」

「えっ?あ、本当だ。写っていないね」


 スマホの画面を彼女に向けると、感心しつつもどこか残念がっていた。その反応を不思議に思ったが、何とか信じてもらえたようだ。


「あっ」


 四賀さんが小さく声を上げた。彼女の視線の先を辿ると、おやつを食べ終わったハルちゃんが僕たちの席から離れていくところだった。


「ハルちゃん、行っちゃったね」

「そうだね。でも、猫は気まぐれだから」


 勝手気ままに人間こちらの都合もお構いなく自由に振る舞う。そんなところも愛おしく感じる。


「次に来た子との写真は私の顔を入れてもいいよ」

「え?」

「その代わりに、私が武津君とその子を一緒に撮ってあげる」


 僕としては、猫が写っているだけで十分だ。だから、必要ないと断ろうとした。

 けれど、彼女の楽しみにしている顔を見て、言わなくてもいいかと思った。たまには僕が写ってもいいだろう。


「分かった。お願いするね」

「うん」


 僕の返事を聞くと、四賀さんは柔らかく笑った。その顔は食べ物を前にした程ではないが、その笑顔から僕は目を離せなかった。



 どうも最近の四賀さんの様子がおかしい気がする。そう、よく笑う気がする。

 いや、四賀さんは一見クールに見えるが、その実表情豊かだ。

 特に食べ物が関わる時は顕著だ。大好きな大盛の料理を前にすると笑顔を浮かべるし、以前目的のお店が臨時休業だった時はこの世の終わりだという表情をしていた。

 だから、彼女が笑うこと自体はおかしくない。しかし、この頃の四賀さんに違和感を覚えるのはどうしてだろうか。

 その時僕の頭の中である考えが浮かんだ。そうだ、最近の彼女は食べ物に関係なく笑顔を浮かべていた。それも食べ物を前にした時と同じくらいの笑顔で。 

 僕が逃げないように手を引いた時も猫カフェで猫と一緒の写真を撮ることを僕が了承した時もそうだった。これは一体どういうことなんだろうか。


「おーい、武津」


 ふと人の声が聞こえた。隣を見ると、安田君が僕の顔を覗き込んでいた。


「何、女子の方を熱心に見ているんだ?」

「え?」


 僕が正面を見ると、そこにはバスケの試合をしている女子の姿があった。今が体育の授業だったことを思い出した。

 僕たちのクラスは体育館でバスケをしている。体育館をネットを仕切りにして、半分を男子が、もう半分を女子が使っていた。


「何だ、随分と見つめていたが、好きなタイプでもいたのか?」


 安田君はニヤニヤと笑っていた。どうやら彼は僕が女子の試合を見ていたと勘違いしているらしい。実際は四賀さんのことを考えていたのだが。


「ち、違うよ。大体僕には四賀さんがいるよ」

「そうか。まあ、お前が浮気する奴には見えないからな」


 僕が慌てて弁解すると、安田君は納得したみたいだ。そのまま彼は僕の隣に腰を下ろした。ちなみに今は別のチームが試合中で僕と多分安田君は休憩中だ。


「それで何であんな真剣な顔をしていたんだ?」

「え?」

「女子を見ていたわけじゃないっていうなら、何かを考えていたように見えたぜ」


 僕はそんな顔をしていただろうか。確かに彼女のことを考えていたのは事実だ。


「悩んでいることがあったら言ってみろよ。こういうのは人に話すだけでも気が楽になるからな」


 彼は爽やかに笑っていた。安田君はクラスの輪にそれほど溶け込んでいない僕に色々気にかけてくれた。彼なら僕が考えていることを話してもいいかもしれない。


「実は考えていることがあるんだ」

「おっ、いいぜ。言ってみろよ」


 僕は話す前に考えた。僕と四賀さんは特殊な関係だ。それに、この関係は誰にも話さないと彼女と約束している。だから、安田君にバレないように上手く話す必要がある。


「最近の四賀さんの態度についてなんだ」

「ほうほう」

「彼女は元々好きなものを前ではとても良い顔で笑うんだ。でも、最近は好きなものとは関係なしに同じぐらいの笑顔を浮かべるんだ」

「……」

「僕にはその変化の理由が分からなくて、安田君が何か分かるなら教えて欲しいんだけど」


 僕が隣にいる彼の方を見ると、安田君は呆れた顔を浮かべていた。


「お前、それはさ、四賀さんが本当にお前のことが好きなだけじゃないのか」

「え?」


 四賀さんが僕を好き。彼の言葉の意味は理解できた。しかし、上手く飲み込めなかった。


「俺さ、付き合っている彼女がいるんだけどな」


 安田君は語り出した。僕は衝撃から立ち直れず、ただ彼の顔を見ていた。


「彼女はスイーツが大好きで、スイーツを前にするといつもより笑顔になるんだ。ある時、スイーツの前じゃなくても同じくらいの笑顔を浮かべていた時があった。その時、どうしてそんなに笑っているんだって俺が聞いたらあいつはなんて答えたと分かるか?」

「えっと」


 僕が言葉に詰まっていると、安田君は笑った。それはとても嬉しそうに。


「俺と一緒にいるだけで幸せだからって言ったんだ。俺は一層彼女が好きになったよ」


 だからさと彼は僕と向き直った。


「多分、四賀さんも俺の彼女と一緒なんじゃないか。って、これは俺の勝手な考えだけどよ」


 彼からそう言われて、僕は四賀さんの笑顔が思い浮かんだ。どれも僕と一緒にいる時に浮かべた笑顔だった。


「武津はどうなんだ?」

「え?」

「四賀さんのことが好きじゃないのか?」


 僕はまたしても言葉に詰まった。僕と四賀さんは互いに恋愛感情を持っていない。それが付き合うと決めた時に確かめ合ったことだ。しかし、それを目の前にいる彼に言うべきではなかった。


「まあ、一度彼女と話してみろよ」


 言葉が出てこない僕に安田君はそう声をかけた。四賀さんと話してみる。そうしてみよう。

 そう決心していると、先生から声をかけられた。どうやら僕のチームが試合をする順番らしい。僕は立ち上がった。


「そんなに暗くなるなよ」


 安田君も立ち上がっていた。彼もどうやら試合に出るらしい。


「俺から見る限りだと、お前たち2人は互いをちゃんと思っているよ」


 そう言って、行くぞと僕の背中を押してくれた。彼は僕が四賀さんとの仲に悩んでいると勘違いしているかもしれない。いや、勘違いではないか。



 どうやって四賀さんと話をするのか。僕は悩んでいた。顔を合わせること自体はいつもしていることなので何も問題はない。けれど、どうやって話を切り出せばいいのか分からなかった。

 僕のことが好きなのとバカ正直に聞くべきか。それとなく聞くべきか。どうすればいいのだろう。



 安田君と話をして、数日後、僕は急いでいた。教室の掃除が思いの外長引いてしまった。その上、先生に捕まり、雑用を頼まれてしまった。流石に先生には四賀さんとの約束は使えなかった。


「はっはっはっ」


 僕は息を切らしながら廊下を走っていた。今日は四賀さんの目的のお店に行く約束だ。

 約束した時間はとうに過ぎていた。だから、一刻も早く昇降口に向かおうと急いでいた。そして、廊下を曲がった時だった。


「うわっ!」

「きゃっ!」


 僕が衝撃を感じた時には、床に尻餅をついていた。どうやら曲がり角で誰かにぶつかってしまったらしい。


「大丈夫ですか?」


 僕は立ち上がり、ぶつかってしまった相手にそう声をかけた。相手は派手目な雰囲気の女子で、髪をハーフアップにしていた。彼女は床に座り込んでいた。


「うん、大丈夫だよ。ごめんね、私の不注意で」

「いえ、僕も前を見ていなかったので」

「じゃあお互い様ってことで。あれ?これって君のスマホ?」


 立ち上がった彼女は近くに落ちているスマホを拾った。僕は制服のズボンのポケットを探った。そこにはスマホがなかった。多分ぶつかった衝撃でスマホを落としてしまったのだろう。


「そうです、僕のです」

「そっか、はい」


 彼女は僕にスマホを差し出した。僕がそれを受け取ろうと手を伸ばした時、僕の指に反応したのかスマホのロック画面が表示された。


「あれ?それって猫の写真?」


 僕のスマホの画面を見たのか彼女は興味深そうに聞いてきた。


「そうですよ」


 僕は短くそう答えた。その写真に写っていたのはこの前四賀さんと一緒に猫カフェに行った時、出会ったハルちゃんだ。


「へえー、君って猫を飼っている?」

「いえ、これは猫カフェの子ですから」

「そうなんだ。って何で敬語なの?私たち同じ学年だよ。タメ口でいいって」


そう苦笑した彼女の上履きの色を見ると、確かに僕と同じ色だった。顔に見覚えがないので多分別のクラスだろう。


「猫好きなの?」

「うん、そうだよ」


 僕がそう答えると、彼女の顔はパァと明るくなった。


「私、スイーツも好きなんだけど、同じぐらい猫も好きなんだよね!ねえねえ、君はどの種類の子が好き?」

「え、えっと」


 思わぬ同士に会ってテンションが上がったのか彼女はグイグイと僕に迫った。もしかしたら猫を前にした僕も周りの人から見たらこういう感じだったのだろうか。


「あっ、ごめん。名前を言ってなかったね。私は早川絵美はやかわ えみだよ。君の名前は?」

「僕は武津晴稀(たけつ はるき)です」


 僕が名乗ると、彼女の顔はさらに明るくなった。


「そっか、君が武津君かあ」

「僕のことを誰かから聞いたの?」

「うん、そうだよ。貴史(たかし)から聞いたんだ」


 僕は早川さんの言う『貴史』に心当たりはなかった。だから、彼女に聞こうとした。


「あの」

「そうだ!今度さ、私たちで猫カフェに行こうよ。私のお気に入りの子がいるところなんだけど」


 早川さんは僕の手を握ってきた。この猫好きの同士と猫カフェに行く。盛り上がるところが想像できた。早川さんも本当に猫が好きなんだろう。それでも。


「僕は」

「武津君?」


 僕が早川さんに返事をしようとしたところ、新たな声が聞こえた。声のした方を振り向くと、見覚えのあるボブカットで小柄な女子生徒がいた。


「遅いから探しに来たんだけど」


 四賀さんの視線は泳いでいた。何か見てはいけないものを見てしまったような顔をしていた。彼女の視線の先には早川さんが僕の手を握りしめていたところだった。


「私、お邪魔みたいだから行くね」


 四賀さんは今まで見たことないような笑顔を見せた。その顔を見ると胸が締め付けられた。彼女はそのまま背を向けて、走り出した。


「ごめん、早川さん!」


 僕は早川さんの手を離すと、声を上げた。思った以上に大きな声が出た。


「えっ、何?というか、今のって、もしかして……」


 僕の声に彼女は驚いた顔をした。そして、四賀さんが走った方向を見ていた。


「僕は早川さんとは行けない。僕は四賀さんと行きたいんだ」


 そう無意識に口に出した。自分でもどうしてそう言ったのか分からなかった。でも、今やるべきことは分かっている。


「じゃあ、僕は行かなきゃ。誘ってくれてありがとう!」


僕は四賀さんを追いかけるために走った。今ならまだ追いつけるはずだ。


「えっ、あっ、ちょっと待って!何か勘違いしているみたいだけど」


 背後から早川さんの声が聞こえたが、内容までは頭に入ってこなかった。



 四賀さんはどこに行ったのだろう。僕は走りながら考えていた。

 僕は既に学校を出ていた。もちろん、学校に四賀さんはいなかった。

 もしかしたら、今日行く予定だったお店に行ったかもしれない。でも、僕はそのお店のことは知らない。

 いつも目的地に向かう途中で、四賀さんが教えてくれるからだ。彼女が楽しそうにお店のことを僕に説明する。その時間が僕は好きだ。

 一体どこにいるんだろう。頭を振り絞って考える僕に、昔、つまり四賀さんと初めて会った日のことを思い出していた。


 

 高校1年生の時だ。その日は雨が降っていた。


「まったく、酷いことをする奴がいるな」


 その時、僕はダンボールを抱えていた。ただのダンボールではない。そこには震えている白色の子猫がいた。

 家に帰る途中、道端で捨てられていた子だ。そこを僕が拾った。この雨の中で放置してしまうと、大変なことになるからだ。

 僕は知り合いの獣医さんに連れて行こうとしていた。しかし、この雨で僕はびしょびしょになっていた。傘は子猫が濡れないようにダンボールの上で開いていた。


「確か、この先に公園があるはず」


 僕は獣医さんのところまで行く前に一休みしようとした。この先の公園にはベンチがあり、その上には屋根があったはずだ。そのベンチで少し休憩しようとした。


「あ、あった。ん?」


 お目当ての公園の屋根があるベンチを発見したが、そこには先客がいたことに気づいた。

 ベンチに座っていたのは女子だった。一瞬中学生かと思ったが、近くまで行くとうちの高校の制服を着ていることが分かった。


「隣、いいですか?」


 僕はベンチに座っている女子に声をかけた。彼女は俯いていた顔を上げ、僕の方を向いた。


「どうぞ」


 彼女は短くそう言った。肩ぐらいの長さに切り揃えられた髪に、幼さを残しつつ整った顔をしていた。僕に返事をすると、彼女は再び俯いてしまった。


「ありがとうございます」


 僕はそう言って、ベンチに腰を下ろした。抱えていたダンボールは僕の膝の上に置いた。

 子猫は鳴きもしないで小さく震えていた。だいぶ弱っている様子だ。早く獣医さんのところに連れて行かないと。でも、この雨の中、無理に行くのは危険だ。どうしようか。


「あの」


 隣から声が聞こえた。隣の彼女が僕に声をかけてきた。


「その子は君の?」


 そう僕に問いかけた。彼女の言う『その子』とは多分ダンボールの子猫のことを言っているのだろう。


「いえ、違います。この子はさっき拾った子で」


 僕は彼女に説明した。道端で捨てられて子猫を僕が拾ったことやこれから知り合いの獣医さんのところに持って行こうとしていたことを。


「じゃあ、私がついていこうか?」

「え?いいんですか?」


 僕の話を聞き終わると、彼女はそう提案してくれた。僕は驚きながらも彼女の顔を見た。


「うん。どうせ何もすることないし、一緒にお医者さんのところに行くよ」

「分かりました。ありがとうございます」


 僕は彼女に頭を下げた。せっかく彼女から提案してくれたのだ。親切を無下にするわけにいかないし、子猫のことが心配だったから。


「じゃあ、行こう。私は四賀梨衣奈(しが りえな)。君は?」

「僕は武津晴稀(たけつ はるき)です。本当にありがとうございます、四賀さん」

「お礼を言うのはまだ早いよ。武津君。ところで、私たち、同級生だよ」

「え?」


 困惑する僕に四賀さんは僕たちが同じ学年だということを教えてくれた。彼女は1年生の教室で僕を見たことがあるらしい。



「子猫、良かったね」

「うん、本当に助かったよ」


四賀さんと一緒に獣医さんのところに向かった。彼女がダンボールを持って、僕がその頭上に彼女から借りた傘を差した。僕は右手で彼女の傘を、左手で自分の傘を差した。この結果、僕も子猫も濡れずに済んだ。


「四賀さんがいてくれて良かった。本当にありがとう」

「ううん、そんなに大したことしてないよ」


 四賀さんはそう謙遜しているが、彼女がいてくれたお陰で1つの小さな命が救われたのだ。


「あの子、大丈夫なの?」

「うん。獣医さんに診てもらったから病気の心配もないし、引き取ってくれる人を僕も探す予定だからさ」


 本当は僕が引き取りたいが、あいにく僕の母は猫アレルギーだ。だから、僕の家は猫を飼うことができない。


「そっか、良い人が見つかるといいね。あの子、耳が折れ曲がっていたけど大丈夫かな?」

「大丈夫だよ!あの子はスコティッシュフォールドっていう種類で、皆ああいう耳をしているんだ。僕はその耳の形がとても好きで、あっ」


 僕は頭を抱えそうになった。また、やってしまった。思わず猫のことを熱く語ってしまった。この悪癖のせいで人からドン引きされたことがあるのに。


「猫、好きなんだね」


 しかし、四賀さんは引いた目で見ることがなかった。微笑ましそうに僕を見ていた。


「ご、ごめん。一気に喋っちゃて。うん、猫は本当に好きなんだけど、引かないの?」

「引かないよ。誰にだって好きなものはあるものだよ」


 四賀さんは僕にそう言ってくれた。これまで会った人は僕が猫のことを熱く語っても引いた反応しかなかった。だから、彼女の反応は新鮮で、心が救われたような気がした。


「あ、ありがとう」

「どういたしまして。それじゃ、私はこれで」


 四賀さんが立ち去ろうとしたところ、どこからかグゥーと音が鳴った。僕のお腹からではないから、考えられるのは1人だけだった。


「えっと、一緒にご飯食べる?手伝ってくれたお礼に僕がお金を出すよ」

「お願いします」


 僕の提案に対してこちらを振り向いた四賀さんは即座に頷いた。



 僕と四賀さんは全国チェーン店の牛丼屋に来ていた。ここら辺で1番近い飲食店はこれしかなかった。

 僕がここでいいと彼女に聞くと、ぜひと頷いた。彼女の好きなものが何かなんとなく分かったかもしれない。


「はあ、美味しい」


 彼女は大盛りの牛丼を食べ終えてた。聞くところによると、家の鍵を忘れてしまい、家に入れなかったらしい。彼女の両親は仕事が忙しく夜遅くに帰るそうだ。

 さらに間の悪いことに夜ご飯用のお小遣いも家に忘れてきたという。そのため、あの公園で途方にくれていたそうだ。


「本当にお腹が空いていて。武津君は命の恩人だよ」

「いえ、そこまで言わなくても」


 食べている四賀さんは心の底から幸せそうだった。そんな彼女を見ていると、僕の心も温かい気持ちになった。

 ふと四賀さんの様子がおかしかった。ちらちらとどこかを見ていた。その視線の先を見ると、牛丼屋のメニューがあった。


「他にも注文していいよ?」

「いいの!?」


 僕がそう言うと、四賀さんは飛び上がらんばかりに驚いた。僕にとって彼女はあの子猫の命の恩人だ。だから、猫に代わって恩返しがしたいと思った。


「うん、僕はいいけど、お腹は大丈夫?」

「うん。全然平気だよ」


 彼女はメニューを手に取った。そして、ボタンで店員さんを呼んだ。僕は大盛りの牛丼を食べたのによく入るなあと思った。

 その後、四賀さんは特盛の牛丼を5杯完食した。


「ご馳走様」

「うん。満足したみたいで良かったよ」


 牛丼屋を出ると、四賀さんは幸せに満ちた顔をしていた。中々の出費だったが、子猫が無事だったのと幸せそうな彼女の顔を見てまあいいかと思った。


「四賀さんがあれだけ食べるなんて驚いたよ」


 僕がそう言うと、彼女の顔は曇った。


「ごめん、何か嫌なこと言った?」

「ううん、私がたくさん食べるのは事実だから」


 そう言って、彼女は自分のことを語り出した。昔からたくさん食べてしまうことや周りから変な奴と揶揄われたことがあること、そのせいで1人で外食に行きづらいことを語った。


「今日はご馳走してくれてありがとう。それじゃあね」


 四賀さんは僕から離れていった。今度はお腹は鳴らなかった。僕は猫の話を優しく聞いてくれたことや食べている時の幸せそうな彼女の顔が頭から離れなかった。


「あの!」


 気がついたら僕は四賀さんを引き留めた。彼女はこちらを振り向いて怪訝そうな顔をしていた。


「僕たち、付き合わない?」


 その後、僕は必死に説明した。僕と四賀さんが付き合うことのメリットをプレゼンした。自分でもどうしてこんなことをしたのか分からなかった。


「あくまで僕と四賀さんがそれぞれ好きなことをするためのお付き合いってことでどうかな?」


 四賀さんは考え込んでいた。やがて僕の顔を見て柔らかく笑った。


「いいよ」


 こうして、僕と四賀さんは付き合うことになった。



「見つけたよ」


僕はあの日のように公園のベンチに座っている四賀さんに声をかけた。


「どうして、ここが?」


 彼女は僕がここにいることを不思議に思っていた。


「ほら、ここって僕たちが初めて会ったところだよ。あの日の四賀さんも思い詰めた顔をしていたからここかなって」

「そう」

「隣に座ってもいい?」

「いいよ」


 あの日と同じように彼女は短く返事をした。僕は四賀さんの隣に座った。初めて会った時よりも彼女との距離は短くなっていた。

 ベンチに座ったままお互い口を開かなかった。四賀さんが今何を考えているか分からないが、僕はどう話を切り出そうか迷っていたからだ。


「あの人はいいの?」

「え?」

「ほら、学校で手を握り合っていた人のこと。2人で猫カフェに行こうって話をしてたよね?」


 四賀さんは何故か申し訳そうにしていた。


「あの人のことは別にいいよ」

「そうなの?」

「うん。廊下でたまたま会っただけだし。それに僕が一緒に行きたいのは四賀さんだから」


 僕がそう言うと、彼女は目を見開いた。そして、泣きそうな顔で笑った。


「ありがとう。嬉しい」

「うん」

「私ね、最初は本当に付き合うフリをするだけで良かった。私が好きなだけ美味しいものを食べるだけで幸せだった」


 四賀さんは静かに語り出した。僕は彼女の声をちゃんと聞こうと、彼女のそばに寄った。


「だけど、いつしか武津君と一緒に食べること自体が嬉しくなっていた。私が食べているのを優しく見守っている君の顔を見ると私の心は温かくなった。私と一緒のものを頑張って食べる武津君の姿に目が離せなかった」


 四賀さんは僕の膝に手を置いた。そして、僕の顔を見た。その目には涙が浮かんでいた。


「私は武津君に特別な想いを寄せている自分がいることに気づいた。けれど、何とか想いを抑えようとした。だって、これはただ利害が一致しただけの付き合いで本当に付き合っているわけじゃないから。武津君が本当に好きな人が現れたら身を引こうと思っていた。でもね」


四賀さんの目から涙が流れた。


「どうしても君への想いを抑えきれなかった。本当の恋人同士みたいになれたらって思っていた。意識してもらえるように振る舞ったこともあるよ。だって、私は」

「四賀さん」


 僕は膝の上にあった彼女の手を取った。そして、両手で包み込んだ。四賀さんの顔を真っ直ぐに見つめた。


「僕にも言わせて。僕から君への気持ちを」

「分かった」 


彼女は静かに頷いた。僕はハンカチを取り出して、彼女の目から流れ落ちる涙を拭いた。

 僕からも言おう。この公園に来るまでに初めて出会った日から今までのことを思い返して、ようやく自分の気持ちが理解できた。


「僕も初めは仮の付き合いだと思っていたよ。でも、僕もいつしか四賀さんのことを考えるようになった。君が幸せそうにしていると僕も心が温かくなった」


僕は今までこの気持ちが何なのか分からなかった。どうして四賀さんの笑顔を見ると僕も嬉しくなるのか。どうして初めて会った日に四賀さんにあんな提案をしたのか。

けれど、今は違う。ちゃんと言葉にできる。


「僕は四賀さんのことが好きだ。人類で1番愛おしく思っているよ」


 四賀さんは息を呑んだ。そして、大粒の涙を流した。


「私も、私も武津君のことが好き。この世の誰よりも君のことが好き」


 そう言って、彼女は僕の胸に飛び込んできた。僕はその小さな体を腕の中に迎え入れた。


「ありがとう、僕を好きになってくれて。ありがとう、僕の話を聞いてくれて、嬉しかったよ」

「私こそありがとう、私を好きになってくれて。ありがとう、私と一緒に美味しいものを食べてくれて、嬉しかった」


 僕たちはお互いに感謝を述べた。彼女の体温を感じる。僕は幸せな気持ちに包まれた。



「落ち着いた?」

「うん。本当にありがとう」


 僕たちは公園のベンチに隣同士で座っていた。もう抱き合っていなかったけど、離れるのは寂しい気がしたので、手を繋いでいた。


「ねえ、聞いてもいい?」

「いいよ」


 四賀さんは何か決心したような顔で僕を見た。


「人類で1番私が好きって本当?」

「うん。嘘偽りないよ」


 僕は真剣にそう答えた。彼女は嬉しそうに笑った。


「じゃあ、哺乳類だと?」

「え?」

「哺乳類でも私が1番好き?」


 僕は即答できなかった。そうだよの一言が出なかった。何故なら僕には彼女に負けないぐらい大好きな存在があるからだ。


「ふふっ」


 言葉が詰まっている僕を彼女は悪戯っぽく笑った。


「やっぱり猫と迷っているんだね」

「うっ、ごめん」


 僕は正直に述べた。猫と四賀さん。どちらも大好きなので選べなかった。


「け、けど、四賀さんだって、お腹が空いている時、僕と食べ物のどっちを取るのさ?」


 僕が仕返しにそう問いかけると、四賀さんはそっぽを向いた。


「その質問はズルいと思うの」

「ほら、四賀さんだって選べないじゃないか!」

「私の時は条件が細かくない?」

「ぐっ」


 僕はぐうの音が出た。確かに彼女の言う通りだ。そもそも僕が即答できなかったのが悪い。


「でもね、私は安心したよ」

「え?どこが?」


 四賀さんの言葉に僕は思わず聞き返した。自分で言うのもアレだが、好きな人と動物で迷ってしまう奴のどこに安心できるのだろうか。


「だって、武津君は猫って答えると思っていたから」


 彼女の答えを聞いて自分が情けなくなった。そして、それを否定しきれない自分も情けなくなった。偽装の付き合いを始めた時に聞かれたら、間違いなくそう答えたからだ。


「でも、さっきは迷ってくれた。私と猫を選べなかった。だからね」


 四賀さんは柔らかく笑った。その笑顔は好きな食べ物を前にした笑顔よりも魅力的に見えた。


「いつか、迷いなく私って言ってもらえるように頑張るね」

「それは反則だよ」


 僕は四賀さんの顔を直視できなかった。心臓は破裂しそうに高鳴っていた。彼女から僕への想いの深さがよく分かったから。


「僕も決めたよ」

「何を?」


 四賀さんは僕が何を言うのか楽しみにしているような顔を浮かべた。僕は必死に頭を働かせた。


「これから先、四賀さんが好きなものを好きなだけ食べても僕はいつだって隣にいるよ。絶対に君を1人にしない」

「うん、楽しみにしてるね」


 四賀さんは僕の宣言を聞いて、一瞬目を見開いた後、花が咲いたように笑った。

 こうして、僕と四賀さんは正式に付き合うことになった。


 それから数日が経った。正式に付き合うことになったからといって、ほとんど変わりはない。これまで通り、僕は四賀さんと一緒に大盛りの料理を食べに行く。四賀さんは僕とともに猫カフェに行く。

 でも、もう少し恋人として先へと進みたいとこの頃思う。

 そう四賀さんに伝えた。彼女は少し考え込んだ後、こう言った。


「初めては猫にしたの?」


 僕は丁寧に否定しておいた。僕の唇は無事である。



 家の玄関を開けると、僕の彼女が待っていた。


「おはよう、晴稀君」

「おはよう、四賀さん」


 僕がそう挨拶を返すと、軽く睨まれた。何だろう、以前と違って怖いというより、子猫と同じぐらい愛おしく感じる。


「また苗字で呼んでる」

「ごめん、あんまり慣れなくて。おはよう、梨衣奈さん」


 僕がそう言うと、梨衣奈さんは満足したように頷いた。付き合ってから変わったことが1つあった。

 お互いを下の名前で呼び合うことになった。僕はつい苗字で呼んでしまい、梨衣奈さんから睨まれるけど。


「そういえばさ、安田君から誘われたよ。僕たちと安田君と早川さんの4人で遊びに行こうって」


 僕と梨衣奈さんの想いが通じ合った次の日、僕は安田君と早川さんの2人から謝罪された。なんと安田君の彼女とは早川さんのことだった。

 早川さんは安田君、―彼の下の名前は貴史という―から僕や梨衣奈さんのことを聞いていた。

 だから、僕とぶつかった日、彼女は僕と梨衣奈さん、安田君と早川さんの4人で猫カフェに行こうと誘おうとらしい。

 しかし、間の悪いことに梨衣奈さんが目撃してしまった。僕と早川さんの仲を勘違いした梨衣奈さんは立ち去ってしまった。

 僕は梨衣奈さんの後を追いかけたが、取り残された早川さんは自分のせいで僕と梨衣奈さんの仲が悪くなってしまったと気に病んでいたという。

 僕は2人から謝罪されて逆に謝った。そもそも勘違いしていたのは僕と梨衣奈さんの方だし、結果的には僕たちは付き合うようになった。だから、安田君たちには感謝してもしきれない。


「分かった。予定空けておくね」

「うん。あと、早川さんのおすすめのスイーツ店にも行くみたいだよ」


 僕がそう言うと、梨衣奈さんは目を輝かせた。彼女はスイーツも大好きだ。まあ、食べる量はやはりものすごいのだが。


「あっ、でも、食べ過ぎないようにしないと」

「大丈夫だよ」

「でも、もし、安田君と早川さんが私の食べる量を見て揶揄ってきたらどうしよう」


 あの2人ならそんなことはしないと思う。でも、それだけでは隣にいる彼女の不安は晴れないと思った。


「大丈夫だって。けど、もし2人がそんなことをしたら、その時は僕が守るよ」


 そう言って、僕は梨衣奈さんの手を取った。ようやく緊張しないで自然と手を繋げた気がする。


「うん、ありがとう」


僕の返事を聞いた梨衣奈さんは明るく笑った。その笑顔は何よりも輝いて見えた。


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