第ニ話:どうやら世界は甘くないらしい
かひゅ…と今にも途切れてしまいそうな息遣いが聞こえてくる。
―――まだ生きているんだ。なら、まだ助けられる。
目の前には見たこともないような怪物と今にも死にかけている女性。そして何の力も持っていない一般人僕。状況は絶望的で危機的で、僕が生き残るためには彼女を見捨てて逃げるしかないだろう。でも僕は助けないといけない。こればっかりは決まっている。別に死にたいわけではない、何なら人助けをするために生きなければならない、生き続けなければならない。
助けるためにはあの怪物と対峙しなければならない、しかしあの怪物と対峙した瞬間、殴り合いの喧嘩なんて一度もしたことのない僕はあの女性の二の前になるのは考えるまでもなくわかる。僕が死んだら助けることもできなくなる。
―――八方ふさがり…クッソ、ふざけんな、なんでだよ。
どんな馬鹿でもわかる、この状況は詰んでいる。今すぐにでも逃げ出したい欲求を唇を噛んで抑え込む。思考は疑問符が覆いつくす。
―――何故?なんで?どうして?ここはどこ?何が起きてる?目の前のあれはなに?
どうやらこの世界は冷酷でとてつもなく理不尽らしい。いや僕は昔からこのことを知っていたはずだ、あの時にその事実を知ったはずではないか。
「世界さん流石にやりすぎだろ…人助けが生きがいの人間にこんな状況を用意するなんて…」
僕にできることは、どこにもぶつけることのできない物をぼやくことだけである。
ピクリと目の前の化け物がこちらを認知する。4つの瞳に見つめられる経験がある人ならわかると思うが、背筋が凍るような悪寒が走るんだ。まさに蛇に睨まれた蛙の気持ちを体感できる。4つ目の魚に睨まれた人だけど…
「来いよ、怪物。魚臭えんだよ、お前。刺身にして食ってやるからこっち来い!」
目の前の女性の意識が無いことに感謝しなければならない。半泣きで震える声で挑発する姿なんてはたから見たら滑稽でしかないだろう。僕もこれが自分自身なんて信じたくない。どうか別人であってくれ!
どんなに滑稽でも挑発は成功したみたいだ。怪物はゆっくりと爪を女性から引き抜き、生物が持つにしてはあまりに残虐性に富んだ凶器を僕へと構える。
人間絶望的状況に陥ると自然に笑みがこぼれるらしい。にやけっ面で地面を蹴る。怪物は僕を追いかけてくるようにドタドタと4足歩行で追いかけてくる。背後に迫りくる怪物息遣い。
―――まずい。そう思った時にはすべてが手遅れだった。僕はどうしてこうも愚かなんだろう。そりゃあ人を貫く力がある怪物が四本足で地面を蹴ったらその速度は人間の比ではないのに。迫りくる凶器、咄嗟に肩に抱えていた学生用鞄を盾にする。
ドン。
まるで軽トラックに跳ねられたかのような衝撃が鈍い音と共に全身に襲いかかる。天地がひっくりかえる様な感覚、迫りくるアスファルト。三度ほど強い衝撃が打ち付けられる。視界はチカチカと歪み、潰された内臓からは血の混じった今朝の朝食が吐き出される。
―――アッ……ゲホ。ッハアハア…数秒ほどの窒息状態を経て呼吸が開始される。全身をなおも襲う鈍い痛みが気付けになり、意識を保つ。どうやらまだ生きてはいるようだ。アスファルトの上でつぶれた蛙みたいな状態になっている僕の視界は大きく破れた学生鞄となお襲い掛からんとする怪物の姿をとらえる。
―――ああ、終わりだ。
不思議と絶望感はなくただ冷静に自らの終末を受け入れる。あの女性を助けたかったが無理なものは仕方ない。あがいた故の結末がこれならきっと許してもらえるだろう。時の流れが緩やかになり、脳内には今までの15年の月日がフラッシュバックする。
―――やっと楽になれる。
そんなことを思ってしまったからだろうか。『世界はそんなに甘くない』世界は決して僕に救いは与えてくれない。スローモーションになった世界でその光景はあまりに鮮烈で苛烈で驚異的だった。
あまりにも鮮やかな赤色。絶望を形にしたような化け物は僕にふれる瞬間に弾け跳んだのだった。