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サバイバー

作者:

 ローファーの底に、ぬるりと鈍い感触がした。路上に投げ捨てられた玉子豆腐に僕の足跡が着いている。靴の底を見る代わりに舌打ちをした。糞じゃなかっただけマシ、と頭では分かっても心が追い付かない。


 大学生になって最初の月曜日。私服を見られるなら気合を入れて、スニーカーではなくローファーを――意気込んだ矢先のことである。玉子豆腐が路傍に落ちている理由も不明瞭、と思ったのは一瞬だ。誰かの吐瀉物であることには気付かないフリをして駅へ歩く。そうじゃないとこのまま帰ってしまいそうだ。


 春先の朝は仄かに冷え込むので、通りを走る車の排気ガスは吐息さながらの白さである。アンクルパンツのローファーの隙間に吹き込む風が足首をひんやりと撫でた。昇り切らない陽が軒の影を伸ばして、朝の青さを増長させている。靄がかっているせいか、最寄り駅までの道のりはいつもと違う風景に見えた。


 駅のホームが見えてくる。青めく靄に包まれた階段を下る、その刹那――背後に閃光が迸った。一瞬で煌めく世界に照射されて僕のシルエットが長く伸びる。振り向くと同時、顔面が灼熱の衝撃波に覆われた。



 東京に核爆弾が投下されたのは、日本人が令和に馴染んで間もない頃だった。北朝鮮の発射したミサイルは例の如く警報を鳴らしたが、けたたましい通知の危機感はとっくに褪せていたのだ。推定死者数は数万人に上り、負傷者や被ばく者を含めると想像だに及ばない。爆心地となった東京スカイツリー一帯は焼け野原となり、廃墟と化した都市の残骸を写す衛星写真は世界中に広まった。


「世界中が大騒ぎだね」


 讃美歌の流れる体育館で、膝を抱えて座る少女が言った。


「世界なんてどうでもいいよ」


 彼女の隣で答える少年はみかんの皮を剥いている。避難民の心情を慮ってか、古今東西の讃美歌が地域中に轟いている。軽快とは程遠いリズムに合わせて動く彼の手つきはリズミカルに滑稽であった。


「まだお母さんもお父さんも弟も見つかってないんだよね」

「僕はお父さんは見つかった」

「どうだった?」


 少年は静かに首を振った。讃美歌が流れている。



 都内の地下鉄はホームが避難所として開放されて、僕はかれこれ五日をそこで過ごしている。路線と車両はそのまま流通経路として使用され、食料や衛生用品が定期的に流れている。線路に落下した人が轢かれた――などという事故は起きていない。アクシデントとしての事故は。


 核の恐怖を誰よりも知っている国家の住民である。悲観のあまりに自ら身を投げる者は多かったらしい。臓物を浴びて泣き叫ぶ子供の声を聞いたのは、一度や二度程度じゃない。そして自殺を抑止したのは、他でもない同調圧力に違いなかった。


 朝食、と呼べるほど時間感覚が整えられてはいないが、とにかく僕は配給のチーズを食べていた。咀嚼をするたびに焼かれた唇が痛む。顔面に火傷を負った自分がどうなっているのか知る由もない。鏡は女が優先的に使っていて、僕なんて見る用事もないから無縁の存在だった。


 鉄っぽい味のチーズを食べていると、全身が土気色に汚れた見知らぬ年寄りが声を掛けてきた。


「にいちゃんも一人か?」

「そうです」


 年寄りは僕の隣に腰を下ろす。


「俺もチーズ食ったよ、マズかったな」

「ですね。本当にマズい」

「おれのカミさん知らねえか? 一緒に日本橋行こうとしたんだけどハグレちまって」

「さあ……どうでしょう」


 首を傾げたのは誤魔化しのためじゃない。カミさん、に該当しそうな年寄りなんて山ほど見たからだ。


「にいちゃんはヨメさんとかいないのか」

「まだ大学生ですから……」

「そうかい、若えもんなあ」


 年寄りは僕がチーズを食べ終えるまでずっと話し続けていた。鬱陶しいと思うような日常ではない。チーズの切れ端を呑み込むと同時、年寄りは「じゃあな」と言い残してどこかへ去って行った。カミさんが見つかることを祈って。


 除染作業は進んでいるのだろうか。辺り一面焦土と化した放射線まみれの世界。いつになれば僕らは戻れるのだろう。地上出口へ続く階段を見上げると青い靄が掛かっている。どこからか讃美歌が聞こえてきた。

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