21
ついに出発の朝が来た。
オリバーはこの一週間を心に刻みつけるように大切に過ごした。表面上はいつもと変わらないやり取り。でもマリアの言葉、仕草、全てを心に刻みつけた。
「オリバー、気を付けて行って来てね。……やっぱり船着き場まで見送りに行こうかしら」
「いや、いいよ。これからも出張はあるだろうし。それに今日は僕は昼過ぎに行けばいいから珍しくマリアが仕事に行くのを見送れる。気を付けて行っておいで」
「そうね、定食屋の仕事も暫く休んじゃったし頑張らなくちゃ」
「そうだよ、でも頑張りすぎなくていいからね。マリアが仕事を辞めてもしばらくは暮らしていけるだけのお金は残してあるから。あっ、そろそろ時間じゃないか?」
オリバーはマリアを促したがマリアはもじもじしている。
やがて意を決したようにマリアは何かを取り出した。
「オリバーこれ……」
マリアが差し出したのは竜の絵が刺繍されているお守りだ。
「その……刺繍だけはどうしても上達しなくって……あんまり上手じゃないんだけど……」
オリバーは思わずマリアを抱きしめた。
「え!?オリバー……泣いているの?」
肩に押し付けられた顔が、マリアを抱きしめる手が震えているような気がしてマリアは戸惑った。
「……違うよ……笑っているんだ……」
涙をこらえてオリバーが答えるとマリアはプンプンして言った。
「どうせ下手ですよ!ほら、ここなんか竜の翼が歪んじゃって……」
「嬉しいよマリア。僕の一生の宝物だ」
マリアを離し微笑んで言うとマリアは真っ赤になった。
「こ、これからいくつでも作ってあげるわ。こんな下手なので良かったら」
「……さあ、仕事に行っておいで」
「うん。オリバーも気を付けてね。帰り……待ってるから。じゃあ、行ってきます!」
「……マリア、ありがとう……幸せに……愛してる……」
オリバーはマリアに聞こえないように口の中で呟いた。
そうしてマリアの姿が角を曲がって見えなくなるまで戸口で見送ってから家の中に引き返した。
昼前にオリバーは家を出た。
あれから急いで荷造りをした。普通の荷づくりはマリアが協力してくれて済ませてある。それ以外に隠してあった試作品の魔道具を鞄に詰め込んだ。
それから食堂の机の上に手紙を置いた。
手紙を残すかどうかは最後まで迷った。しかし黙っていなくなったままではマリアはオリバーの帰りをずっと待っている気がしたのだ。だから手紙を書いた。マリアには黙っていたが好きな人が出来たと。その人と暮らしたいからマリアの元には戻らないと。マリアの事は妹として愛しているから好きな人を作って幸せになって欲しいと。
オリバーはヘーゲル王国のロゼの町に着いたら行方をくらますつもりだ。ただ居なくなっただけでは商会に迷惑をかけるので川に落ちたか崖から落ちたように工作をするつもりでいる。それでも多少は迷惑をかけてしまうがもうその辺は割り切るしかない。
マリアの元へもオリバーが死んだと連絡が行くだろうから手紙など無い方がいいのではないかとも考えた。それでもオリバーの遺体が見つからなければマリアはオリバーを待っているような気がしたのだ。
街並みを見ながらゆっくりと船着き場まで歩く。
この町の景色も見治めだ。暮らしやすいいい町だったし、人足仲間も気のいい奴らばかりだった。
フェルジット商会の会長は時間に煩い人で時間も守れない者は信頼に値しないと常々言っているそうだ。だから絶対に時間厳守で来いとオリバーは言われていたがまだ時間は十分ある。ゆっくりと街並みを眺めながら船着き場へオリバーは歩いていた。
「オリバー!」
馬の蹄の音が聞こえてオリバーは振り返った。
「スティーヴ」
スティーヴはオリバーの前で馬から降りるとオリバーにこころもち近づき小さい声で言った。
「デオフィル・ゾームが逃げた」
「デオフィル?何だって?」
「お前が叩きのめしたトシュタイン王国の騎士隊長だよ。すまん、こちらの不手際だ。あいつはお前の事を恨んでいた。只の平民に叩きのめされたことが余程屈辱だったらしい。お前を狙うんじゃないかと急いで探しに来たんだ」
「そうか、ありがとう。でも大丈夫だ。僕は今からヘーゲル王国に行くんだ。この国に居なければ手を出しようがないだろう」
「そうか、それなら船着き場まで―――」
スティーヴの言葉を蹄の音が遮った。
「スティーヴ、大変だ!マリアちゃんが攫われた!」
駆けつけてきた騎士の言葉に反応したのはオリバーの方が早かった。
「マリアがっ!!どういうことだ!?」
「マリアちゃんの家の近くでゾームを見つけたんだ。数人で囲んで捕えようとした時邪魔が入った。ベッカー商会の倉庫で取り逃がした奴らだ。俺たちと戦いになる寸前マリアちゃんが偶然そこを通りかかって……奴らはマリアちゃんを人質にして逃げた。仲間がその後を追っている」
考えるまでも無かった。オリバーはスティーヴに知らせに来た騎士の馬を奪うとひらりと背に乗り馬を走らせた。
マリアが……マリアが危ない……そのことが頭の中で渦を巻いていた。
「……リバー!オリバー!はあ……やっと追いついた」
スティーヴの声がやっと頭に届いてオリバーは馬の足を止めた。
「お前何処へいくつもりだったんだ?マリアちゃんがどこへ連れ去られたかわからないだろう?」
それはそうだ。居ても立ってもいられず闇雲に馬を走らせてもマリアが見つかるわけではない。
「役場の一角を俺たちの詰め所として使わせてもらっている。そこに行こう。あいつらを追っていった騎士から連絡が入る筈だ」
肩を落としてオリバーは役場に向かった。マリア、どうか無事でいてくれ!今マリアはどんなに不安だろう、痛い目にあっていないだろうか、もし眼鏡を外した顔をそいつらが見たらマリアに襲い掛かるかもしれない、いや眼鏡を外さなくても……オリバーはどこかに飛び出してマリアを探したい気持ちを必死に抑えつけて騎士からの報告を待った。
時は少し遡る。
マリアはオリバーに見送られて出勤し定食屋で働いていた。午前中のこの時間はまだお客は少ない。注文を取ったり料理を運んだりしながら気になっていたのは今朝のオリバーの態度だ。
生まれて初めて異国に行くのだからナーバスになっていたのかもしれない。でも気になったのだ。マリアを抱きしめたオリバーは笑っていると言ったがマリアは泣いているんじゃないかと感じた。まるで今生の別れのようだ。
どうしても気になったマリアは一旦家に帰ってもいいかとおかみさんに聞いた。これから昼に向かって忙しくなる時間帯だ。抜けるのは申し訳ないが今家に帰ればオリバーが家を出るのに間に合うかもしれないし、船着き場に向かう道で追いつけるかもしれない。なるべく早く戻ってくるからとおかみさんに告げてマリアは家に急いだ。
もうすぐ家に着くと角を曲がった時だった。
目の前に複数の男の背中が見えた。そしてその向こうに……騎士様?スティーヴと一緒にマリアを守ってくれていた騎士の顔を認めると同時に伸びてきた手がマリアを羽交い絞めにした。
喉元に冷たい金属の感触を感じる。
「え?な、なに?」
「マリアちゃん!!」
「へえ……お前あいつらの知り合いか。ちょうどいい」
マリアの頭の上から聞こえる声はマリアを羽交い絞めした男のものだろう。
「おい!お前ら武器を捨てろ!この女を殺されたくなかったらな!」
騎士たちが迷っているとマリアの喉にちくりとした痛みが走った。ツーと血が流れる。
「待てっ!女性を傷つけるなっ!」
騎士たちが焦って剣を置くのが見えた。男の仲間がそれを拾いに行く。
「さあ、次は後ろに下がってもらおうか。おっと、馬は置いていけ。もっとだ、もっと下がれ!」
騎士たちがじりじりと後ろに下がる。
男たちは全部で四人。ベッカー商会の倉庫で取り逃がした三人と船着き場で捕えられたゾームだ。リーダーはもちろんゾームだ。
ゾームたちは騎士たちが十分下がったのを見て馬に近づいた。
突然マリアは馬の背に放り投げられた。その後ろにマリアを拘束していた男が跨る。騎士たちが走って近づくのが見えたが男たちは馬を全力で走らせる。マリアは舌を噛まないよう、馬に振り落とされないよう必死にしがみつくことしかできなかった。
マリアたちを追っていた騎士たちの声や蹄の音が遠くに聞こえていたが街を抜け森に入ると暫くしてそれも聞こえなくなり森の奥深く、木々がぽっかり空いた場所にあるあばら家の前でマリアは馬から降ろされた。




