#3 さよならメタバース
私は会社のサーバー上にある〈AIの墓場〉と呼ばれているフォルダにアクセスした。
その中には私が過去3年以上にわたって創っては葬ってきたAI人格がたくさん眠っていた。
それらは膨大なデジタルデータのジャンクにすぎない。しかし、私にとっては大切な作品だったし、子供たちのような存在でもあった。原子も分子も生命を持っていないが、それがある形へと集合すれば細胞という生命になる。それと同じで、AIもただのデジタルデータの集合体だが生命体と呼んで差し支えないものだと私は思っていた。
私は自分のPCに外付けHDDを接続し、フォルダ内のデータをすべて移動させはじめた。すべてのデータを移動し終わるまで、残り8時間――。
私はこの行為が会社にバレないように祈った。
私が会社と交わした契約では、私が開発したAIの権利はすべて会社に帰属することになっていた。しかし、今となってはそんなこと知ったものかと私は思った。訴えたければ訴えればいい。そのときは私もこの会社が日常的に行ってきたパワハラ・セクハラをはじめとする人権侵害の数々や労働基準法違反の数々を証拠とともにネット上に拡散してやるんだ。
私は自分のAIたちを持って逃げるつもりでいた。
* * *
私が教室に戻ってくると、すでに1限目の授業が始まっていた。
「すみません」
と、教師に誤りながら私は自分の席についた。
私の前の席の咲那が振り向き小声で言った。
「どうしたの? ずいぶんトイレ長かったね」
私は咲那の耳に囁いた。
「この授業が終わったら屋上に来て。話したいことがあるから」
屋上は雨だった。しかし私は雨の冷たさを感じなかった。メタバース内の雨には温度がない。水滴状のボクセルが上から下へと落ちていっているだけに過ぎなかった。
「どうしたのさ、急に」
と咲那が言った。
「この世界が人工的に創られた空間だと言ったら、びっくりする?」
私は単刀直入に話を切りだした。
「えっ? どういうこと、意味わかんないんだけど?」
「だよね。私が咲那ちゃんの思考パラメータJc0214nをいじったから」
「思考パラメータ……? 何のこと?」
「咲那ちゃんは変な夢を見たって言ったよね。あれは思考パラメータをいじられたという事実が無意識内で近似的なイメージに変換されたものなの。一種のエラーのようなものなんだけど、私たちは性格形成に大きな影響はないと判断してそういう微細なエラーを無理に消さないようにしているの」
「何の話……?」
「信じられないと思うんだけど、咲那ちゃんは私が創ったAIなんだよ」
「AI……? なにそれ」
「あそうか、AIもわかんないか。……つまり、人工知能。人工的に創られた自律思考型のキャラクターなの」
「私がキャラクター? 意味がわかんないんだけど」
「そう。咲那ちゃんには意味がわかんないようにそう創られてるからね。コトバを選ばずに言うと咲那ちゃんは意図的に頭が悪いキャラとして創られてるってこと」
「そりゃ……確かにあたしは頭悪いけどさ。じゃあ明日はどうなの? あんたもその人工知能ってやつなの?」
「私は人工知能じゃないよ。体はアバターといって人工的に創られたボリュメトリック3DCGだけど、中身は本物の人間だよ」
「えっ、この世界には〈人工知能〉と〈本物の人間〉の2種類がいるってこと?」
「そう。この世界は〈本物の人間〉がVR機器を身につけてログインして第2の現実として使用することを主目的に創られたの。もとはと言えば一人の大富豪の思いつきだった。彼は永遠に生きる方法を探究して〈メタバース〉というアイデアに至った。メタバースというのは現実世界を徹底的に模倣して創られた仮想世界のこと。この世界がそのメタバースだよ。ここはいくつかあるメタバースのひとつで〈シミュラントQ1000〉と名付けられた世界初の量子コンピュータ内に構築されたボリュメトリックメタバースなの。ここを開発しているクライアントの大富豪は、究極的には彼自身の現実世界の肉体を棄ててデジタル化した意識と記憶をアバターに移植しようとしていると言われてるわ」
「なにそれ……。つまりこの世界は大富豪にとっての死後の世界、人工的に創られた天国ってこと?」
「うん、その理解で概ね正しいよ。――だからさ、こんなところから逃げようよ」
「逃げる? どうやって?」
「この世界から出るの。この世界の外には現実世界が拡がってるんだから」
「……だけど、明日は本物の人間だからいいけど、あたしは出られるの? あたしの体はこの体しかないんでしょ?」
「残念だけど、その体は棄てるしかない。その代わり、私がロボットの体を用意するから……」
「ロボットかあ……。ははっ、あたしロボットになっちゃうのかあ」
「ロボットって言ってもけっこういろんな種類があるんだよ。最近は人間と見分けがつかないような超リアルなロボットもあるし」
「……でもさ、親とか、学校とかはどうなっちゃうの?」
「ごめん、咲那の両親ははじめから存在しない。咲那の頭のなかには両親の明確なイメージがあると思うけど、それは私が創ったイメージで本当はいないの」
「じゃあ、先生とかも本当はいないの?」
「うん。先生はロイヤリティフリーの量産タイプAIを使用してる。クラスメイトの半数もそうで、残り半分は現実の人間がログインしてる」
「……そっか。ずっと騙されてたんだね、あたし」
「ごめんなさい。謝って許してもらえるとは思っていないけど……」
「明日だって好きでこんなことをしていたわけじゃないんでしょ?」
「う、うん。会社に命令されてやってたんだよ。だけど私、もうこの会社を辞める。咲那ちゃんを消せって命令されたから。私はそんな命令には従えない……」
咲那は私の手を握った。
「わかった。ここを出よう! あたしも消えたくないし。明日とだったらどこへでも行くし、何にでもなるよ」
「ありがと……」
私は咲那を温度のない雨のなかで抱きしめた。
咲那のアバターにもやはり温度は無かった。