故郷
楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
どんなにもがこうとも時間は待ってくれない。
消えてなくなることがこんなにも怖いとは。
あの場所にいた頃はむしろ早く消えて無くなりたいと何度も何度も願っていたのに。
もう二度とあの温かさと優しさには触れられないのだと思うともっとあの地獄から抜け出す努力をしていれば良かったと後悔が押し寄せる。
でも…
もしあの場所から抜け出していたら、彼と会うことは出来ていたのだろうか。
早くに抜け出して普通の一生を送れたとして彼と出会うことが出来なかったのなら、今ここで消えてなくなる人生だとしてもこっちの方がずっと幸せだと思うのはおかしいだろうか。
あぁ、なんて幸せな時間なのだろう。
このたった10日間に私の一生分の幸せを詰め込んでいるかのよう。何もかもを差し出すから…あと少し、あとほんの少し時間が欲しい。
本当はこのままいつまでもずっと彼の側にいたい。
彼が大きくなって、結婚して、子供を授かり、おじいちゃんになるその時まで見守るだけでも良い。
会えなくても良いからずっと側にいたい。
でも、それはもう絶対に叶わない願いだから。
一生のお願いはもう使ってしまったから。
どうか彼が私がいなくなった世界でただ幸せであることを願う。
それでも…
消えてなくなる私が最後に彼に残せるものはないだろうか。やってあげられることは…?
いや、彼の中に何かを残して私がいたと言うことをずっと覚えていて欲しいのだ。
忘れられたくない。
忘れられたくない…。
例えそれが君に大きな傷を残すことになったとしても…。私は忘れられたくない。
「ミュリアル…お前」
「私って本当に酷い女ね」
彼が抱えている不安や恐怖を私達は精霊だから分かってしまう。どんなに楽しいことがあっても、嬉しいことがあってもその不安や恐怖はなかなか消えることはない。
私と彼はとても似た境遇をしている。だからお互いの気持ちが良く分かる。
ゾルは私が何を考えているのか分かってしまったようだけど、多分ゾルは彼には何も言わない。それが私の最後のお願いだから。
「ごめんなさい。朝日」
「…?ミュリアル、何か言った?」
「何でもないわ!今日はどこに行きましょうか?」
「僕ね!良いところ見つけたんだ!」
「まぁ、何処かしら?」
「楽しみにしてて!ミュリアル!」
そうして私たちの最後の日を迎えた。
いつも通り、街中で気になった店に入り昼食を取る。お互いの料理を少しずつ交換して沢山の味を楽しむのにも慣れた。
特に美味しくはないのだけど、彼と会話しながら食べれば何もかもが美味しく感じる。楽しく感じる。幸せになる。
私の抱く感情は多分彼のそれとは違う。
でも同じく愛している。
過ごした時間は関係ない。誰に何を言われようと彼のことが何よりも大切だ。
それにしても今日はなんだがソワソワしているように感じるのは気のせいだろうか。それにゾルとコソコソと話す回数も多く感じる。
「ミュリアル、もうちょっとここにいようか」
「ゆっくりするのも好きよ」
「良かった…」
私が笑顔を向けると少し頬を赤らめて安心したように微笑む。彼が悪い嘘や冗談をする訳がない。する必要がない。
私は全て分かった上で、彼がしたいように、彼の思うように、乗っかって、受け入れて、見守るだけ。
なんてことない話がこんなに楽しいなんて知らなかった。いつもゾルから聞く外の話は楽しかったけど現実味がなかったし、自分は変わらない毎日で話せるのはどんな花が咲いたとか、天気が良いとか、寒いとかだけだったから。
「ミュリアル…見て…」
「…」
言葉にならないと言うのはこう言うことだったのか。目の前に広がる街並みが全て赤く染められて、影が落ちる場所が物悲しく見えた。
なんだが今の自分の感情を写しているかのよう。
ここには風や木々の自然の音しか聞こえない。
隣には大好きな二人。
私の最後の場所には勿体ないくらいの場所だった。
「本当に綺麗ね」
「そうでしょう?」
「…」
「…」
なんだか沈黙が照れくさい。
精霊のわたしには朝日が何を言おうとしているのかが聞こえてきてしまうから。
「朝日」
「…何?」
「少し昔噺を聞いてくれる?」
「うん」
「私は此処から遠く離れた場所に住んでいたの」
その土地は珍しい花やキノコが豊富に取れるほど緑色豊かで、湖は底が見えるほど澄み切っていて、海では新鮮な魚や貝などの海産物が取れる素敵な場所だった。
決して裕福ではなかったけど、自給自足で物を分け合いながら毎日楽しそうに生活している人間をミュリアルは見ていた。
ミュリアルは特別だった。
人間であって、精霊でもあって、どちらにも受け入れられなかった。
だから毎日ただ、幸せそうな人達を見ていた。
ある日、小さな少女が森の中で迷ってしまい泣いていた。精霊でもあるミュリアルはそんな少女の悲しい、という想いが伝わってきて、放っておけず森の外まで連れ出してあげた。
それから少女は何日かに一回、ミュリアルを探しに森へ来るようになった。嫌われていることを知っているからミュリアルも初めは姿を現さず、無視していた。
でも、少女は3年経っても5年経ってもミュリアルに逢いに来つづけ、流石にミュリアルも彼女に情が湧いてしまった。
姿を表したミュリアルに彼女はやっと会えた、と涙を流して喜んだ。
どうしてそんなに泣くのかミュリアルには全く分からなかったが、もう少し早く出てあげても良かったかもと少しだけ後悔した。
少女はそれからも変わらず何日かに一回ミュリアルに会いに来た。時折森では見たことのないクッキーというお菓子やおもちゃのアクセサリーを持ってきてミュリアルを楽しませてくれた。
初めて友達が出来た。
少女はミュリアルを怖がらず、貶さず、蔑まず、ただ笑顔で会いに来てくれた。
いつしかそんな時間がとても大切で愛おしい時間となっていた。
でも、やはり人間は人間だった。
ある時、少女が森で一体何をしているのかと一人の少年が後をついて来ていたのだ。
少年はミュリアルの美しさに一瞬で惚れてしまった。
「ミュリアル、お願い!逃げて!」
「どうしたの?」
「お願い…ごめんね、ミュリアル」
「…」
ミュリアルは彼女の言う通りに逃げた。
森はミュリアルの家だ。逃げるのは簡単、そう思っていた。
「いたぞ!精霊だ!」
「人型の精霊だ!高く売れるぞ!」
「これで我らの領地も安泰だ!」
それから彼女とは会えていない。
逃げた方向に人間がいたのは偶々だったのだろうか。ミュリアルが何処に逃げるのか、彼女なら知っていた。それに最後に言ったごめんね、の意味は?あの日々はこの日のための準備だった?
彼女が裏切ったのか。裏切らざるを得なかったのか。まだ信じていても良いのだろうか。
何もわからなくなった。
捕まってからの事は何も覚えていない。
冷たく、悲しく、恐ろしいかったように思う。
そしていつの間にかあの場所にいた。
何が起こっているのかは直ぐに分かった。
でも、精霊であるが為に途方もない時を一人で生きなくて済むのだと自分に言い聞かせ、あの場所にただ存在していた。
「ゾルはそんな時に現れてくれたの」
いつも庭園の隅の方で蹲る黒猫。
気になってはいたが、声をかけてもう来てくれなくなっては悲しいと中々近寄ることも話しかけることも出来なかった。
でもある時、ゾルがクシャミをした。
猫がクシャミをするなんて、とミュリアルは思わず笑ってしまったのだ。
「ゾルは怒って私に飛びかかったの」
「当然だ!大精霊を笑うなどアホゥのする事だ」
それから数十年。
二人はただあの場所にいたのだ。
何もなく、ただ力を取られ続けるだけの存在として縛り続けられたのだ。