壁の隙間
長い廊下を躊躇なく走る。
呼吸音や足音さえも聞こえないのは彼らがハイゼンベルク家に長らく仕え、徹底的な教育を受けてきた精鋭達だからだ。
ただ姿を見られるのは良くないのは変わらない。何処からどう見ても彼らは不法侵入者だからだ。
「セシル様。次が左です。突き当たりに壁があり、その奥にエライアス様が捕らえられていると思われます」
「…しかし、分からんな」
「そうですね。犯人は“紅紫の片喰”なのに捕らえられているのは皇城だとは…」
「皇帝と片喰が繋がっているなら益々訳が分からん」
「繋がっているとは限らないのでは?エライアスの失踪に関してだけは皇帝の仕業の可能性もあります」
クリスとセシルの会話を聞きながら後ろを着いて走る使用人達も同意するようにこくりと頷く。
エライアスの救出に直ぐに動き出せなかったのは捉えられていた場所が皇城だった事と皇城に正式に入る手段を探していたからだ。
結局、わざわざ国王オルフェルドに頼んでまで書類をかき集めたのに正式に特使として入るのは叶わなかった。
「此処か」
「如何やら隠し通路のようですね」
「微かに風が通っているな」
「外に繋がっているのでしょうか?」
彼らが佇んでいるのは今までずっと見ていた壁と何ら変わりない。
此処を怪しんだのはゼノに頼んで手に入れた皇城の設計図とアイルトンが実際に歩いてマッピングした見取り図を見比べた時に明らかに重ならないのがこの場所だけだったからだ。
本来、設計図通りなら一畳ほどの狭い部屋となっている場所なのに此処は壁となっていて部屋らしき物は見当たらない。
クリスは壁を軽くトントンとノックしながら音の違いを聞き分けて、その境目に耳を近づけるとヒューと風が通る音が聞こえてきた。
「仕掛け扉なら何処かに何かあるはずなのですが…」
「それらしいものは何もないな」
本当に何の変哲もない壁には凹凸も無く、絵画や壺なども飾られていない。仕掛けらしい仕掛けが見当たらないのだ。
「という事は魔法、でしょうね」
「一応見た目上はこの壁の向こうは外の筈だから何らかの仕掛けがあると思って良さそうだな」
設計図を見る限り此処は中央の巨大ホールの大階段を登った中二階になっている場所から来客用のゲストルームや応接室、会議室などに続く長い廊下の中腹辺りになる。
皇城への侵入経路とそのあとの逃走経路の確保のため連日クリスが城の外からこの壁の周辺を調べた限りでは本当にただの壁で部屋とおもしき空間は確認できなかった。
「どうにか出来そうか?」
「やってみます」
魔法、と一重に言っても色んな種類ある。
それを大まかに括ると二つの種類になる。
魔法陣を使うか使わないか。その二つだ。
わかりやすく説明すると、オルフェルドが錬金術を行った時に物が浮いたり、一人でに液体が抽出されたりしたのが魔法で、錬金術や呪術など魔法陣の書かれた紙を使用して魔法を行使するのが魔法陣を使った魔法になる。
今回の魔法はその後者に当たる。
セシルは魔法使いなので今回の件は完全に専門外で、全員の視線は錬金術を扱うジョシュに集まっていた。
ジョシュは壁に手を当てて目を閉じる。微かに残る魔法の痕跡を辿りどんな魔法陣が使われているのかを探る。
かなり集中力のある作業だ。
此処はただの廊下の中腹辺り。隠れられる場所は少ない。まして作業中邪魔が入っては行けないと他の使用人達は周辺の警戒を強める。
「セシル様、如何やら魔法陣に盲目の魔法が掛かっているようです」
「分かりました。そちらは私でどうにかしましょう」
「お願い致します」
セシルがぶつぶつと念仏の様に言葉にならない言葉を並べる。簡単な魔法は詠唱がなくとも使えるが、複雑さを増せば増すほど詠唱は必要になるし長くなっていく。
ただの青白い壁に今まさに誰かが書いているかの様に魔法陣がゆっくりと浮き出てくる。その魔法陣の複雑な紋様を見てジョシュは慌ててセシルを抱えて後ろに飛ぶ。
「坊っちゃん!!!」
「クリス様!!!」
ジョシュの咄嗟の起点も虚しく、魔法陣が完全に浮き出てくる前に突然光だし、壁の一番近くにいたクリスの姿が消えていた。
「…もしかしてエライアスはこれを見つけてクリスと同じように飛ばされたのでしょうか」
「その可能性が高いと思います。転移のスクロールと同じ紋様がありました。恐らくですが、何か条件に当てはまると指定してある場所に転移させる事が出来るようになっているのだと思われます」
「成程…。その特定の条件、を調べる事は可能ですか?」
「時間を頂きたいです」
「分かりました。この後ジョシュはそれに専念して下さい」
いつ誰が此処を通りかかるか分からない状況で流石に此処に長時間止まる事は出来ないのでジョシュは分からない部分だけ暗記する。
「伯爵様、坊っちゃんは何処に…」
「クリスは恐らくエライアスと同じ所にいるのでしょう。やらないとならない事は同じです。先程と同じことをすれば…」
「セシルさん!ジョシュ!」
「…朝日君、お疲れ様。無事終わったんだね」
「朝日様、お疲れ様でございます」
「聖剣は無事盗めたよ。ミュリアルは無事?」
「ミュリアル殿は無事だよ。今ユリウスが【飛躍】でゾルと一緒に宿まで連れて行ってるよ」
「なら安心だね。じゃあ後はエライアスさんだけだ」
予定通りお互い任務を終わらせたら、指定した待ち合わせ場所に集まるよう事前に話していた。
しかし、セシルが待ち合わせ場所として伝えた場所は此処ではなかった。
何度も言うがセシルは朝日をこの件に関わらせる気は無い。言うなれば、フェナルスタが協力する条件に朝日を引き合いに出さなければ、此処に連れてくる事もなかっただろう。
だから今此処で起こった事は言えない。朝日がクリスが居ないことに気付かないことを願って朝日に微笑む。
「待ち合わせ場所変わったって聞いたから」
「うん、そうだね」
「確かに庭だと此処まで遠いもんね」
朝日もニコニコと笑ってはいるが、今如何思っているのかは分からない。
嘘をついて城から一番遠く、比較的安全だと判断した正門近くの迷路になっていた庭を待ち合わせ場所として伝えていた事に気付いているのか、分かっていてその反応なのか。セシルは顔には出さないが心臓が大きく波打つ感覚を覚える。
こんなに緊張するのは初めてだった。
「此処変だね?」
「変?」
「魔法陣があるのに見えづらいし…」
「朝日君、ここに何が書かれているのか見えるの?」
「うーん。見える、と言うよりあるって感じるって感じかな…?」
朝日はただの青白いだけの壁を指先で触れながらゆっくりと行ったり来たりを繰り返す。
何回かそれを繰り返すとピタリと動きを止める。
「セシルさん、何か紙が欲しいな」
「クロム」
「朝日くん、今手元に紙はありません。申し訳ありませんが、他に代用品となる物はございませんか?」
「白くて何か書き込めれば布でも何でも!」
「では、此方のハンカチをお使い下さい」
クロムが内ポケットからするりと取り出したアイロンで綺麗に伸ばされたハンカチは如何にも上等な生地で出来た物で朝日は少しだけ気が引けてしまってチラリとセシルを見る。
それにセシルはニッコリと笑う。
「ハンカチなら沢山有りますし、幾らでも手に入るので気になさらなくて大丈夫ですよ」
「じゃあ、僕プレゼントするよ」
吹っ切れたようにクロムからハンカチを受け取り、広がると、ポシェットから木炭を取り出す。
ハンカチを壁に当てて木炭で何やら魔法陣の大枠を描き始める。大枠が描ける床に広げ直し、文字や紋様を刻み込んでいく。
壁にはもう魔法陣は浮き出ていないが、何となくその続きを書いているのだろう事はこの場にいる誰もが分かった。
「うん!これで完璧!此処の記号とスペルを間違って書いてあったの」
「間違ってる…?」
「確かね…ほらここ、見て」
ポシェットに木炭を仕舞い、代わりに分厚い本を重そうにしながら両手で取り出す。
重たいのか、床に本を置いてペラペラと慣れた手付きでページを捲り、目当てのページに差し掛かると手を止め、指を刺す。
「確かに、先程見た時は此処の綴りがαだったのが、こちらではθですね。それから此処の印も繋がっていませんね」
「クロム執事長、セシル様は一瞬しか見ておられないのに…覚えてらっしゃるんですか…?」
「一度見れば十分だよ」
セシルは朝日が描いた魔法陣を眺めながら、それがさも当たり前のことかの様に言った。