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病院に響く足音……

作者: 棒田康人

 それはいつも決まって私の意識が微睡む頃にやってくる。そして私の意識を強制的に覚醒させるのだ。

 今日もまた聞こえる。部屋の外の廊下。ヒタヒタヒタと、リノリウムの床を裸足で歩く音。


 耳を塞いでも、毛布にくるまっても、イヤホンで大音量の音楽を流してみても、その足音は私の頭に直接訴えかけるかのように響いてくる。直接何かが起こるわけではないが、眠れぬ夜に私の心はすり減っていた。



「どうしたの?」


 病院の中庭にあるベンチに座っていた私は、声のした方に顔を向ける。


「荒井さん……」


 ポツリと私は、視界に映った女性の名前を口にした。

 私の顔を心配そうな表情で覗き込んだのは、ピンクのナース服に身を包んだ女性。私が足音に悩まされるようになってからよく話をする用になった看護婦の荒井さんであった。

 荒井さんはいつものように空いている私の隣に座ると、私の手に重ねるように自分の手を置いた。じんわりと手の甲から伝わる体温が、徐々に私の全身に広がり、固まった筋肉をほぐしていくようだった。気づくと私は目から涙を流していた。


「また怖い目にあったのね」


 私は無言で頷いた。

 荒井さんは私の頭を優しく撫でた。



 私は昔からおかしなものが見える体質だった。初めはそれがおかしなものだとは認識していなかった。でも小学校の友達の誰も、私の話を信じてはくれず、自分が普通でないことを理解した。やがて孤立した私は、学校の屋上から飛び降りた。

 運良く、なのかはわからないけれど、花壇に落ちた私は、奇跡的に腕を骨折しただけで済んだ。怪我自体はそれほどでもないけど、一応経過観察ということで一週間ほど前からこの病院に入院することになったのだ。

 病院にはおかしなものが多いということは子供ながらに知っていたので、学校での事を思い出し私の心はますます灰色に染まっていった。


 入院初日は何も起こらなかった。だから安心してしまった。

 翌日から、あの足音が聞こえるようになった。


 最初の数日はまだ大丈夫だった。足音が聞こえるだけならなんともないと、少し強気でさえいた。なぜ足音が聞こえるのか、いつ聞こえてくるのか考察する程度には、私の心には余裕があったのだ。

 わかったことは、その足音は決まって私の寝静まる頃にやってくるということ。特に何時と決まっておらず、私が微睡む頃にやって来ては私を起こすのだ。当然私は満足に眠ることもできず、寝不足の日々が続いた。肉体的にも精神的にも、私はすり減っていたのだ。


 入院期間はまだもう少し残っている。それまで毎日あの不快な足音に苛まれなければならないのかと思うと、億劫以外の何者でもなかった。


『早く退院したい』

「どうしたの? 元気出しなよ」


 私の無意識のうちに漏れた心の声に、返事を返してくれたのが荒井さんだった。

 勿論、私の抱えている問題など知らないで声をかけてくれたわけなので、本当は幽霊に悩まされているなど到底言えるものではなかった。しかし口を噤んだ私をあの手この手で笑わしてくれて、つい足音で悩んでいることを話してしまった。そして後悔した。また小学校の友達から向けられたような視線を向けられるのではないかと。

 けれど、不安な顔をした私にかけられた言葉は、


「辛かったね」


 その瞬間。私の瞳から、堰を切ったように涙が溢れた。

 病院の誰にも、それこそ見舞いに来てくれた両親にさえも言われなかった言葉に。それを肯定してもらえたことに。私は涙を抑えきれず、暫く泣き止むことができなかった。





 退院まであと2日。今日も荒井さんに励まされ、不安になりながらもベッドに潜り込んでいた。

 うつらうつらと、私が船を漕ぎだした頃に、それはまたやってきた。


 ヒタヒタヒタ。裸足で床を歩く音。しかし違和感を感じる。いつもとはどこか違う。


 ヒタヒタヒタ。ヒタヒタヒタ。ヒタヒタヒタ。


 心の中が不安で一杯になっていく。何かが違う。いつもと違う。いや、確実に違う。

 私は声も出せず、頭からすっぽりと毛布をかぶり、その中でガタガタと震えた。

 

 いつもと違う。


 ……いつも廊下から聞こえていた足音が、今日は部屋の中から聞こえていた。


 何もないから大丈夫だった。まだどこか余裕があった。けれど、今はその余裕はどこにもなかった。

 自分の寝ている直ぐ側に、この世のものではない何かがいるのだ。歯の根が合わないとはこういう事を言うのか。ガチガチと、歯と歯がぶつかる音が漏れそうになるのを必死の体で抑えながら、私はギュッと毛布を握り込む。その間にも足音はずっと聞こえ続ける。ヒタヒタヒタと。

 そして、ヒタヒタヒタヒタヒタヒタ。


 1つだった足音が、複数の足音に変わっていた。



 気づくと朝になっていた。あまりの恐怖に気を失ったのだろう。意識を手放したことで久しぶりに眠れたというのに、体はひどく疲れていた。

 それでもまだ大丈夫だ。明日になれば退院できる。だからそれまでの辛抱だ。私はそう自分に言い聞かせて、また中庭のベンチで夜までの時間を過ごすのだ。


「大丈夫?」


 いつものように荒井さんが私に声をかけてくれる。その姿に安心し、力のない笑みを返した。

 荒井さんは何かを察したのか、私を抱きしめて優しく背中をさすってくれた。


「大丈夫。大丈夫よ。今夜は私も一緒にいてあげるから」


 その言葉に安堵し、私は再び意識を手放した。



 入院最後の夜。私の病室に、いつもと違う光景があった。

 今日は一人ではない。隣で荒井さんが椅子に腰掛けてくれていた。私の手をギュッと握って、笑顔を向けてくれている。ただ誰かが側にいてくれるだけでこんなにも心強いなんて思っても見なかった。今日は本当に大丈夫な気がした。


 そして私が眠るまで荒井さんは自分の事を話してくれた。それは、荒井さんも私と同じだったという話。


 荒井さんも霊感のようなものがあって、昔から変なものが見えたそうだ。しかし自分ではそれが普通だと思っていたから、周りと話が合わなかった。そして大きくなるほどに周囲との齟齬が大きくなり、私と同じように孤立していったそうだ。

 見える、だけならまだましで、それらが害をなすこともあった。そんな日々が続き、荒井さんは精神的にどんどん疲弊していったらしい。しかし運良くそういった力に詳しい人と出会って、荒井さんに力のコントロールの仕方を教えてくれたという。

 その人曰く、力のあるものはオーラのような輝きが強いせいで、変なものから目をつけられやすいそうなのだ。それをコントロールすることで、変なものの目につきにくくするのだという。それからは変なものからちょっかいをかけられることがなくなったそうだ。

 荒井さんの話を聞いて、自分と同じような悩みを持つ人が、それが荒井さんだったことに私は喜んだ。それと同時に悲しさがこみ上げて来る。私には荒井さんの気持ちが痛いほどわかったから。きっと、荒井さんも同じだったのだろう。同じ悩みを持つ私に対して、微かな喜びと同情を感じたに違いない。


 荒井さんは他にも学生時代の楽しかった話や、初恋の話、私を楽しませるために色々な話をしてくれた。その話を聞いて、また少しだけ、学校へ行きたくなった。

 そうして夜もすがら、私は襲ってきた眠気に耐えきれず、徐々にまぶたが重くなっていく。しかしそれは今日も、私を眠らせまいとやってきた。

 ヒタヒタヒタと、扉の外から足音を響かせる。すぐに私の瞳は見開かれ、意識が覚醒した。


 隣りにいる荒井さんもその音が聞こえたのか、表情を強張らせていた。どうやら足音が聞こえるのは私だけではないらしい。

 もしかするとそういった力を持つ荒井さんだからなのかもしれない。


 私の手を握る荒井さんの手の力が強まった。思わず私も、力を込めて荒井さんの手を握り返す。

 やがて足音は部屋の中へと入ってきた。私は毛布にくるまりながら、少しだけ隙間を開けて荒井さんの表情を見る。荒井さんはしきりに『大丈夫よ』と言葉を繰り返しながら、私の手を握り続けてくれた。

 何度も何度も励ましの言葉をかけてくれて、しかしそれを遮るかのように足音は大きく、そして多くなっていく。


 ヒタヒタヒタだった足音は、いつの間にかバタバタバタに変わっていた。


 ベッドのすぐ側を大勢の子供が駆け回るような、まるでそんな音。

 荒井さんは恐怖を押し殺しているのか、必死に目を瞑りながらそれでも『大丈夫よ』と繰り返す。そして私の手を握る力を緩めはしなかった。


 するとバタバタバタと聞こえていた足音は、パタパタパタに変わり、やがて元のようにヒタヒタヒタになった。気づけば足音は完全に消えていた。


 私は毛布の隙間から荒井さんの顔を見た。彼女はまだ必死に目をつぶっていたが、やがて音が消えたことに気づいたのか、ゆっくりと目を開けて毛布から覗く私の顔を見つけると、安心した表情で言った。


「もう大丈夫よ」


 荒井さんはゆっくりと私の手を握る力を緩めて、額に光る汗を拭うために顔を上げた。

 その瞬間、彼女の手は私の手を痛いほどの強さで握って来た。あまりの痛みに文句を言おうとした私は、目の前で恐怖に歪む荒井さんの顔を見て、何も言えなくなった。

 暫くして、手の力を緩めた荒井さんは、何も言わずに病室から出ていった。窓の外から覗く陽の光が、朝を告げていた。





 私は退院の支度をしていた。迎えにきた両親は荷物を持って先に受付へと向かった。おそらく入院費を払いに行ったのだろう。今は看護婦さんが私の身支度に付き合ってくれている。と言っても、荷物もないので忘れ物が無いかのチェックくらいだ。


 忘れ物のチェックも終わり、ふと、私は看護婦さんに訪ねた。退院する前に荒井さんに挨拶したいが今日は出勤しているのか、と。


「荒井さん? うちにそんな名前の看護婦はいなかったと思うけど……」


 その看護婦は何か気味の悪いものを見るような視線を私に向けて、病室からさっさと出ていってしまった。

 私はその言葉の意味がわからなかった。昨日私の手をしっかり握ってくれた手は、確かに暖かあったし、痛みも感じた。それにここ数日毎日中庭で会っていたのだ。いないなど信じられる訳がない。



 結局、私は荒井さんを見つけることはできなかった。きっと偽名を名乗っていたのだろうと、自分に言い聞かせることにした。

 荒井さんがこの世の人だったのかどうかは今でもわからない。けれどきっと忘れることはできないと思う。今も脳裏に、荒井さんの恐怖に歪んだ表情が焼き付いている。

 荒井さんはあの時、一体何を見たのだろうか。彼女があれ程の恐怖を感じるものとは、一体何だったのだろうか。私がそれを知ることはないだろう。もし知ることができたとしても、きっと私は知らない事を選ぶと思う。

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