漸近線――交われないが近づける、ということ――
多分、似た内容のことはすでに多くの人が書いているのでしょう。それでも私は、1度このことを、自分で文章にしてみたかったのです。
漸近線をご存知だろうか。
私はそれを、高校の数学の授業で教わった。あの日のあの授業のことはよく覚えている。
基本的に私は数学に疎いので、私の言葉でそれを正確に説明する自信はない。だから、ちょっと辞書の力を借りよう。
「ある曲線が、原点から無限に遠ざかるにつれて、限りなく近づいてはいくが、決して交わらないし、接しもしない直線。」
引用元 : goo辞書
漸近線を本当に全く知らない人だと、これだけではピンとこないかもしれない。2次関数のグラフを思い浮かべてほしい。縦に伸びる直線y軸と、横に伸びる直線x軸。縦横に走るこの2本が交わる場所が原点。2本は十字を形づくる。
そして曲線がある。この曲線はy軸にもx軸にも触れていない。y軸とx軸が作る十字の、斜め右上だとか、斜め左上だとか、あるいは斜め右下だとか斜め左下だとかまあそんな場所に位置する。曲線の両端は原点から遠ざかる形で、片方はy軸を追うように、もう片方はx軸を追うように伸びていく。ゆるやかに曲がる曲線は原点から遠くなるに連れて、追っている相手の直線に接近していく。
しかしこの曲線と直線は、限りなく近づくことはできても、交わることは決してない。
高校時代の数学の授業で漸近線を知ったとき、私はとっさに思った。まるで人の心のようだ、と。
私たち人類の多くは、生きていくなかで、周りの誰かと親しくなろうとする。相手を知ろうとする。それは親子としてであったり、兄弟姉妹としてであったり、師弟や友人、あるいは恋人としてであったりする。
しかし人は、相手の心に近づくことはできても、1つになることは絶対にできない。何かを共有したとき――映画を一緒に観たときだとか、共に何かの仕事を成し遂げたときだとか――に一体感を得ることはあるが、2人の心が本当に全く同じ状態なのかは誰にもわからないことだ。人と人は決して、お互いの心を完全に知ることはできないし、1つになることもできない。「自分はあなたのことを全てわかってる」などとのたまう人間は、うぬぼれ家か詐欺師のどちらかだ。
そしてこの事実は、人にとって救いでもあり、同時に絶望でもある。
誰にでも、他者に知られたくない汚点や踏み込まれたくない暗部は存在するものだ。それは表沙汰にはできない醜い欲望であったり、ふとしたとき誰かに寄り掛かりたくなるような心の痛みであったりする。そういうものは、知られない方が人間関係が上手くいく場合が多々あるし、一生心の日陰にしまっておきたい人もいる。
しかしときに人は、理解してもらえない事実に絶望する。苦痛が最もよい例だろう。この苦しみを誰かに理解してほしい。共感して、寄り添ってほしい。このような願いを抱く人間は少なくないが、恐らく苦痛は――あくまで私の主観だが――理解してもらうことが最も難しい感情・感覚だ。こちらは一生懸命苦痛を訴えているのに、「その程度がなぜ苦しいのか」と訝しがられるのは珍しいことではないし、逆に相手の訴える苦痛がいまいちピンとこないこともある。
私自身、今私はこんなに苦しいのに、この人はそれを1㎜もわかってくれないのか、と絶望した経験は、ある。
人の心は決して交われない。1つになれない。完全な理解はありえない。そこに絶望のみを見る人もいるだろう。しかし、そうだろうか。
高校時代のあの夜を、私は思い出す。
私は小学5年生くらいの頃から、左胸の痛みや呼吸困難などの発作にたびたび襲われるようになっていた。高校時代は特に、夜の発作が酷かった。一晩中息ができなくて、胸が内側から焼かれているかのように熱くて痛くて。当時の私は真っ暗な自分の部屋のベッドで独り、ひたすらそれに耐えて朝を待つしかなかった。今はあれほど重症の発作は起きないが、あの悪夢の夜の記憶は、今思い出しても寒気がするほどに、生々しい。
もう過ぎたことを言っても仕方がない。しかし、もしあの夜、手を握ってくれる人がいたら、とふと思うことがある。
手を握ってくれる人がいたら。私の苦痛に、引いては心に、真摯に近づこうとしてくれる人がいたら。私はもう少し、楽だったのではないだろうか。たとえ理解はされずとも。
漸近線は確かに、交わることはできない。しかし限りなく近づくことはできる。同じ景色や音楽、物語、映画などの何かを共有したときや、スポーツの試合や仕事など共に取り組んだとき。2人きりの、ナイトテーブルが柔く照る仄暗い部屋で、痛みや、幸福や、その他諸々の、人の生を濃く彩るものについて語り合ったとき。そしてあるいは、苦しんでいる相手に真摯に近づこうと、向き合おうとしたとき。
もちろん、どんなに時やものを共有しても、時間をかけて何を語り合っても、根本的な価値観や感覚の差を思い知らされるばかりということもある。その場合は、できるだけお互いを傷つけぬようにして離れるほかない。
しかし相手によっては――相手というよりは、相手との相性によっては――共有や語り合いによる一体感を得ることもある。その相手が、あなたの痛みや苦しみに真摯に向き合ってくれることもありえる。それらのこと――触れることはできずとも、近づくことはできること――は、人にとって癒しであり、希望だ。
私たちは近づき合える。触れることはできずとも。