◇09話 少女達は婚約者を名前で呼ばない
アリエンナは、ガラス製の茶碗によく冷えたグリーンティーを注ぎ、小皿の上に、食べやすい大きさに切り分けられた三種類の水羊羹をのせると、それを各々の前に置いた。
「これは、美味しそうですわね」
そう言って自分も椅子に腰かけると、すぐにつぶ餡の水羊羹から手をつけ始める。
竹楊枝で一口大に切ると、突き刺して口の中に入れる。
柔らかめの食感。薄い色づきの水羊羹は、普通の羊羮とは違うゼリーに近い歯ごたえがある。
溶けていく餡と存在を主張する小豆が、口の中を楽しませる。甘さひかえめな、上品な味わいだ。
「今年の夏は、王子から離宮への招待がありませんでしたの。王宮へちょこっと顔を出して、両陛下にご挨拶するだけで済みそうですわ」
アリエンナは王子との婚約が成立してから毎年、王子所有の離宮へ招かれていた。
王子との交流を深めるためという理由だが、あまり深まった気はしない。
自分に与えられた王妃教育の課題と学院の宿題をこなしながら、王子の相手をするのはとても疲れる事だった。
自分も色々忙しいだろうに、あの王子は休憩がわりか、何なのか、たまにアリエンナの所に顔を出し、一人で自慢話をしていく。
離宮での思い出は、脳ミソが溶けそうになりながら、王子の話に適当に相槌を打っていたことだけだ。
アリエンナは離宮にいる間、王子の事を心の中で『ボケカス』と呼んでいた。最近は全く会った覚えもない。
「わたくしも、今年は避暑地へのお誘いはありませんでしたわ。あの『ゴミクズ』と暑苦しい夏を過ごさなくてすんで、せいせいしてますの」
ブリジットは近衛騎士団団長の子息である赤髪の青年の婚約者だ。
広大な魔の森と隣国との国境に砦を持つ辺境伯領──。そこで育ったブリジットは幼少の頃から鍛え上げられ、前世での経験もあり、清楚な見かけにかかわらず中々の武闘派だ。
婚約者として会わされた時、遊びでおこなった剣の手合わせで、あっさり相手を打ち負かしたため、それから顔を合わせる度に勝負をふっかけられていた。
面倒になって、ワザと負けようとすると『手を抜くな!』と怒鳴られた。
避暑地では暑苦しい剣の勝負ばかりしていた記憶しかない。
ブリジットは婚約者の顔を見ると、カッと頭に血がのぼって顔が赤くなる。
この間、町に出た時に、ブリジットは赤髪の青年に八百屋の前で行き合ってしまった。
また、剣の勝負を吹っ掛けられるかと嫌な気持ちになっていたブリジットに、あの男はハアとため息をついたのだ。
『世の中には、純情可憐な乙女もいると言うのに、なぜ俺の婚約者はお前のような女なのだろうな。男を立てる事もなく、女らしさの欠片もない。ハア、がっかりだな』
自分の今までの行いを棚に上げ、そんな事を言う男に、ブリジットは怒りとともに心底呆れた。
その場では自分を抑えたが、その時からあの赤髪の男はブリジットの中で人として価値のない『ゴミクズ』となっていた。
フゥと息をついたブリジットは、小皿にのったウグイス色の水羊羹を口にすると、嬉しそうに瞬きした。
「あら、美味しく出来てる」
口の中に広がる抹茶の香り。ほんのり感じる苦みが、甘味をひきしめ、くどくない味わいになっている。
目にも優しい色合いで、夏にふさわしい一品だ。
「わたくしも、今年は別荘へのお招きはありませんでしたわ。あの『ウジムシ』と顔を合わせなくて済んで、ホッとしてるところですの」
クリスティーナは、宮廷魔術師団団長の息子の緑髪の青年と婚約している。
婚約者として紹介されたその日から、クリスティーナは、ふるまいにあれこれ文句をつけられていた。魔法の指導と称して、たくさんの嫌みも言ってくる。
膨大な魔力があるのを隠すために、ショボい魔法しか使わないクリスティーナを見ると、嬉々として耳元にネチネチウジウジ嫌なことを言いにくるのだ。
よみがえるのは、一挙一動にケチをつけられ、ビクビクと過ごした別荘での日々。
クリスティーナは婚約者の姿を見ると、スッと血の気が下がって青くなる。
この前、王立図書館に本を借りに行ったとき、クリスティーナは緑髪の青年に会ってしまった。
何か言われるかと、戦々恐々としていたクリスティーナにアイツはフッと鼻で笑ったのだ。
『この世には、可愛くて賢い女の子も存在してるのに、どうしてこの僕が婚約しているのは君なんだろうね。恥ずかしいほど愚鈍で、聡明なところが一つもない。フッ、ホント救いがないね』
上から目線の酷い言いぐさに、クリスティーナは腹が立つとともに泣きそうになった。
図書館だから泣き出したりしなかったが、その日から、クリスティーナの中で緑髪のアイツは腹黒でウジウジ嫌味な『ウジムシ』になっていた。
ブルっと一度首を振ると、クリスティーナは、小皿の上の栗の入った水羊羹を竹楊枝で半分に割って口に運んだ。
和三盆を加えてほどよい固さに煮られた栗は、鮮やかな黄味と食欲をそそる照りを見せていた。口の中でこし餡の甘さと栗の風味が合わさり、まろやかで見事な味わいになっている。
「幸せの味がしますわ」
嫌な思いは吹き飛び、思わず、頬に手を当てて恍惚とした表情を見せていた。