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7-1

「ふぁっふ……」

 欠伸をかみ殺すとすぐにクリアな目覚めがやってきた。

 窓からは光が差し込む。その窓に手をつけて外を眺めるとそこにはまだ誰もいなかった。どうやら男たちが日課の素振りをするよりも早く目覚めたらしかった。

 日は昇ってきていることだし、もう少しすれば彼らも庭へとやってくることだろうが、それにしても朝食までは結構な時間があった。

 そこでルナの頭に浮かんだのは二冊の本だった。


 なぜかない2冊目の本とミレーが拒否反応を示した図鑑。


 本の続きは気になった。だか図鑑に惹かれてしまうのもまた事実。

 ミレーから勧められた本だったら勧めた本人に聞けばわかるかもしれない。実際ミレーはこの大量の本の山からすんなりとその本を見つけ出したのだから。


 だったら……。


 ミレーが来ないうちにパラパラとでも目を通してしまおうと図鑑を一時的に保管した引き出しへと手を伸ばした。

 開けてみるとそこには目当ての図鑑ともう一つ、眠気まなこだった昨晩は気づかなかった一枚の紙が入っていた。


「何かしら?」

 目の近くへと持ってくると細々と書かれた字はどうやら人名と日付、それに撮影場所が書いてあるらしい。場所は庭とだけ書かれていて、その日付はもう20年近く前のものであったが、ルナの目を引いたのはそのどちらでもなく人名の方だった。


『グレン、エルナ、マルガレータ、ヒューイ』


 これを見てはいけないとルナの本能が騒いでいた。けれどその反対に見なければいけないとも訴えていた。

 ルナはその後者に負け、その紙を裏返した。

 するとそれは写真だった。白と黒とで構成された写真。

 そこにはカーティスによく似た人物、エルによく似ているが髪と瞳の色の違う女性、それに自分にそっくりな女性、そして少しだけ若返ったヒューイの姿が写っていたのだ。


「なに……これ?」

 写真を握る手は震えた。

 神経質なほどに綺麗な文字が示しているのはこの四人の名前であることはおそらく間違えではない。

 そしてグレンはルナを育ててくれた父であり、エルナはグレンの妻でカーティスたちの母であった。

 二人とともにいるヒューイはおそらく今この屋敷でよく寝ているであろうヒューイで間違えはないのだろう。


 なぜ彼があの二人と一緒にいるのか?

 ルナには分からなかった。だがそれよりももう一人の、自分によく似た女性の存在に引きつけられる。


「マル、ガレータ……」

 その名を口にして、震える手で写真を置いた。

 そしてゆっくりと力の入らない足で一歩、また一歩と鏡の前まで移動して自身の顔を見た。

 見慣れたそれはやはり写真の中の人物そのものだった。

 笑い慣れていないせいで、引きつったように震える頬も。長く真っ直ぐに伸びた髪も。よく似ているなんてものじゃない。

 そのくせ目だけは楽しいのだと、幸せなのだと訴えているのだ。写真の先のルナに向かって。


「ごめん……なさい……」

 ルナは鏡の中の自分に、写真の中のマルガレータに謝った。


「ごめんなさい、ごめんなさい」

 ここはあなたの居場所なのに……。

 立ち去らなくてはとルナの頭に浮かんだ。この場にこれ以上いてはいけないのだと。


 ルナは歩いた。

 ドアノブを掴む手は、部屋から一歩踏み出す足は震えていた。

 そして廊下へと一歩出るとそこは知らない場所のようだった。

 この場所に初めて来た時なんかよりもずっと屋敷全体に拒まれているような気さえする。


「ごめんなさい、ごめんなさい」

 そして呟きながら廊下を走った。


 この場所から一刻でも早く去るために。


 ここを出ても行き宛なんてなかった。

 カーティスの元にも、エルの元にも、ルーカスの元にも帰れない。唯一受け入れてくれたグレンはもう最愛の妻、エルナの元へと旅立ってしまった。


 それでも走った。

 朝早いせいで誰もいない玄関先を抜けて、ゴールはおろか少し先すらろくに見えない暗い森の中へ逃げ出したのだ。

 夢で体験したのと同じように後ろは振り返らずに、ただ前だけを見て。

 夢中で走っていたルナの靴はいつの間にか片方だけなくなってしまっていた。それでも構わず走り続ける。

 裸の足は小さな石ころや木によって傷つけられて行く。

 息は苦しくて吸っているはずなのに一向に満たされることはない。それでも走る、ただただ走る。何処へ向かっているわけでもない。ましてやゴールなんてものはない。


 あの、雨の日と同じ。

 あれから数日しか経っていないのにルナの心はあの屋敷の人たちで少しずつ、けれども確実に満たされていた。

 ルナは怖かった。

 誰かの居場所を奪ってしまっていることが。

 ルナは自分の居場所がいきなりなくなることを経験していた。


 それはクシャクシャに読み潰された手紙で。

 それは薔薇に添えられた花言葉で。

 だから誰よりもその痛みを、悲しさをわかっていたはずなのに、無自覚にそれをしてしまったのだ。


 そしてルナは他人の居場所を奪ってその場に居座ることの代償も知っていたはずだった。

 誰かの代わりに成り代わってもいずれ捨てられてしまうことを。


 だから逃げ出した。

 捨てられる前に、完全に満たされてしまう前に。

 前しか向いていなかったルナは足元にずっしりと佇む木の根元に足を取られた。不意だったので手をつけずに顔から地面に叩きつけられた。


「…………痛い」

 鼻は折れてしまったのではないかと思うほどにじんじんと痛みがやってきて、中には違和感が広がった。

 血、出てるんじゃないかしら。

 鼻を包み込んでも一向に何かが触れる様子はない。

 だから大丈夫、まだ、大丈夫。

 溢れる涙をそのままにドレスについた土を払った。新品同様の誰かのものだったドレスはところどころ木を引っ掛けてしまっていたようで破けてしまっていた。けれどルナは気にしなかった。

 痛む足をペチペチと叩いて鼓舞する。

 動いてと。

 どこへ行くかもわからないのに、足は健気にも動き出す。

 けれどその足は地を這うように伸びた木の根によって再び行く手を遮られる。


「助けて……」

 それは無意識に出た言葉で、誰かに対して発した言葉ではなかった。ただ何かに縋らずにはいられなかった。

 夢と同じように手を伸ばすと、その手は暖かい手で包まれた。


「カッツェ!」

 手の主が発した声の方へと顔を上げるとそれは救いの手などではなかったことを思い知らされた。


 目の前の、ルナへと手を伸ばした人物はヒューイだったのだから。

 逃げて来た屋敷の象徴とも言える人物であり自称誘拐犯の主犯の男、それがヒューイであり、ルナが今一番会いたくない人物に他ならなかった。


「カッツェ!なぜ逃げ出した!」

 掴んだ手でルナの身体を引っ張り上げると力の入らない足で立ち上がらせ、そして怒気をはらんだ声をルナへと向けた。


 こんな声を初めて向けられたルナはもう無理だと悟った。


 私はこれからどうなるのだろうか。

 物語の中では誘拐犯から息も絶え絶え逃げ出した主人公はいつだって味方が助けに来てくれる。そして主人公は幸せになるのだ。

 助けに来た男性と結婚し。味方との絆を深めたり。

 皆、道は違えど待っているのはハッピーエンド。


 間抜けにも捕まってしまう主人公なんて見たことがない。


 ああ、惨めだ。

 手も足も傷だらけで、服は所々裂けてしまっている。


「ここには獣が出るから危ないと言っただろう!」

 そして誘拐犯から説教を受けている。烈火のごとく怒りを露わにしているヒューイ。

 後ろからは続々とあの屋敷にいた人たちがやってくる。

 あるものは馬に乗って、上からルナを見下ろした。またあるものは木の上からルナをじいっと観察している。

 言葉を口にするのはヒューイだけだが、ルナは四方から怒りを向けられているような気になった。


 人質がいなければお金の交渉ができないからだろう。

 誘拐されてから初めて向けられる歓迎以外の視線はルナの身体を固くするには十分な威力を含んでいた。

「……ごめんなさい」


 謝ったのはなんのため?

 分からない。これからどうなるのかも、もう何も、分からない。


 魂が抜けたようにへたり込むルナの脇に腕を差し込んだヒューイは荷物のように担いで馬の上に乗せた。


「落ちるなよ」

 地を這うような低い声に一層身体を強張らせ、背中にはヒューイの体温を感じた。


 もう何も、ない。

 何も残ってないのだ。


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