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もくもくと、ただひたすら歩くことだけに専念していたルーカスの前に、落ち込んだ様子のカイトが現れた。ルーカスはそれをいつものように、目の前の障害物を避けるのと同じように避けた。そんなルーカスの腕をカイトがすかさずつかんだ。
「…………なんだ」
「なんだ、じゃないだろ! なんだ、じゃ!」
「どうした?」
「言い方の問題じゃないんだが……まあ、いい」
「で?」
早く用件を言えという意味と早く解放してくれの意味を込めて強めにたった一文字を発する。そんなルーカスの心情はもちろん無視してカイトは「振られた」とだけ告げた。
「またか、じゃあ」
ルーカスは、話は終わったとばかりにカイトの手をすかさず振りほどき、捕まらないよう大股で一歩踏み出す。……正確に言えばルーカスはその場から一歩しか動けなかった。
「今回は騙されたんだ! 今、フリーだって言ってたのに、言ってたのに……。……夫がいたんだ。しかも、もう3つになる子どももいる……」
「ああ、それは残念だったな。まあ、そんなこともあるって、な? とりあえず落ち着け。それでこの手を離せ。服が破ける」
服が破ける――これは比喩ではない。本当にルーカスはその心配をしている。ルーカスをここから逃がすまいと、カイトの手はルーカスのコートの背をつかんでいた。がっしり、と。他の相手ならば服の心配などはしない。だが、相手はカイト。カイトならこんな布一枚破ってしまうことなど可能だろう。実際に過去にカイトがどこからか引きずってきた悪党の肩や腕の部分が破けていることなどよくあることだった。
ルーカスはここから動くことを諦め、話を聞くことにした。
もちろん、カイトの手をコートから引きはがし、コートの無事を確認してから。
「だから、既婚者のお前に当たろうと思ったんだが……」
「おい……」
「最近のお前はなんだか落ち込んでて、さすがにかわいそうだからカイルに当たっといた」
カイトのさわやかな顔を引き立てるようないい笑顔。この顔で何人もの女性が騙されてきたのか、と思うとひどく納得してしまうような顔だ。そんな顔で親指を上につきたてながら、部下に八つ当たりをしたことを告げる同期って人としてどうなのだろうか。
先日、この上司としては明らかに問題のある行動をとっている目の前の同期から頼まれ、王族の警護の仕事に回したあの門番の青年、カイル。まだ配置してから数日しかたっていないというのに上司からの嫌がらせにあったとなれば、配置を変えるしかないのだろうか……。考えようによっては、このカイトが八つ当たりをするまでに青年を気に入ったともとらえられる、そのことを嬉しく思うべきか……。
「あんまりいじめるなよ」
もう少し様子を見てから決めるか、なんてありふれたことを思いながら、言葉では適当にカイトをあしらう。
きっとあの青年ならうまくやっていけるだろうというどこからかやってくる期待と、自分の知らないところでルナと親しくしていたことへの嫉妬。その両方の感情がルーカスの中では入り混じっていた。その両方を腹の奥に押し込めて、ルーカスは話を変えるために口を開く。
「おいカイト、頼みがある」
「俺がこんなにも沈んでいるというのに頼み事だと?」
そういう割にカイトの顔はどこか吹っ切れているように見える。カイルにとっては女性からつれない態度を取られることなど日常茶飯事で、そんなことにはもう慣れているカイトが、部下のカイルに八つ当たりしたことによって気持ちの整理ができたのであろう。ルーカスは全く迷惑な話だと思いつつも話を続ける。
「ああ」
「仕方ないな。お前が最近落ち込んでいるのは俺も知っているからな。で、頼み事って?」
「いい花屋知らないか?」
ルーカスはこいつならいい花屋を知っているのではないかと思った。カイトはよく女性を口説くのに花を使っているのだと聞いたことがある。今まで適当に聞き流していた話から、それを思い出したのだ。
「花屋? お前がそんなこと聞くなんてどうしたんだよ」
「ルナに贈ろうと思って」
「そうか、そうか」
そういって、にやにやしながらいつもよりも強めにルーカスの背中をたたく。せき込みながらもルーカスはそれを無言で受け入れる。
「ルナ様に贈るんだったら、“Dear”がおすすめだな。最近ご令嬢たちの間で噂になっている花屋だ。なんでもその花屋の薔薇を贈られた者は幸せになれるらしい」
「そんなの迷信に決まっているだろう」
迷信の類は昔から信じないことにしているルーカスはすかさずカイトの言葉を否定した。根拠のないものを信じたって仕方がない。後で後悔するのは自分自身だ。
そんなルーカスの言葉をカイトはふっと鼻で笑った。
「お前ならそういうと思った。でも、贈られるルナ様はどうだろうな」
「何?」
「ルナ様だってお年頃のご令嬢。夫から幸せになれる薔薇を贈られたらさぞ喜ぶだろうな」
夫……。
ここ数日でシンラによってズタズタにされたルーカスの心はカイトのなんてことない言葉で少し、光が差してきたような気がした。
「あ、でも気をつけろよ。あそこは「やっと見つけましたよ」」
「げ、カイル」
カイトの言葉を遮るようにして聞こえてきたカイルの声に、カイトはすかさず逃げる体勢に入る。本当にこいつの反射神経には驚かされる。さすがは国の指折りの騎士だけはある。それをこんなところで有効活用してほしくはないが……。
「仕事さぼらないでください!」
「今は休憩時間で……」
「違いますよ。休憩時間は1時間後です」
「少し見逃しては……」
「無理です。そういってこの前は女の子口説きに行って全然帰ってこなかったじゃないですか!!」
「でもな、俺は今ルーカスと大事な話をしていて」
そういわれた途端に表情の変わるカイル。あまり彼のことを知っているわけではないが、このやり取りだけを見ても彼がとても真面目な青年だとわかる。ルーカスは先ほど頭の片隅に追いやった彼の異動の件をもう一度、優先事項として付け加える。
「それは失礼しました。宰相殿」
「俺の時と態度、違くないか?」
「ちゃんと働けば敬いますから」
「ああ、もう話は終わっているからいいよ」
きっとここにたどり着くまでにいろんなところを探し回ったのだろう、真面目な彼の時間を削ってしまっては悪い。カイトに向け、しっしと犬を追い返すように手の甲を何度か下から上に払う。
それをカイトはしばらく不思議そうな顔で見つめて、「まさかの裏切り!?」とひどく驚いた顔をした。
「裏切ってないだろ。仕事時間なら働け」
「…………はいはい。わかりましたよ、働けばいいんだろ、働けば……。…………全くどいつもこいつも奥さんがいる奴は男に冷たい……」
「失礼します」
カイルはルーカスに一礼をし、カイトの制服の襟を遠慮なしにわし掴みにする。途中『ぐぇ』っとカエルがつぶれたような声が出ても構わずに。
カイトの首根っこをつかんだのとは逆の手で額の汗を拭くカイルの手には手袋が装着されておらず、人差し指に刻まれた、死に神が鎌を抱えているタトゥーに大きなしずくをためていた。
それを、間違いを見つけた子供のようにカイトはすかさず指摘した。
「……っていけないんだぞ! 勤務時間内に手袋を外したら!」
「ああ、これですか……。一体、誰のせいで外していると思っているんですか?」
冷たく質問を投げかけるカイルにカイトは目線をそらした。
「えっと……」
「さっき、あなたに会いに来た女性たちの仲裁に入ったときに濡れたんです! これで今日3回目ですよ、3回目! もうストックないんですから!」
いたずらに困った、困った、と言っているお母さんのようにカイルはそのままカイトを引きずり続けた。今までは皆、カイトに遠慮して注意なんかしなかったのだが彼は違うようだ。怒るような言葉と裏腹に彼の口調はどこか楽しげだ。そんなカイルのことをカイトも気に入っているのであろう。そうでなかったら、あのカイトが大人しく引きずられているはずがない。
「あの……」
ドアノブに手をかけたカイルはおもむろに口を開いた。
「どうした?」
「ルナ様はお元気ですか?」
「…………ああ」
「……そう、ですか」
振り返ったカイルの目は帽子の陰に隠れて見えなかったが、口元はペンで描いたかのように綺麗な半月の形をしていた。




